「女王の教室」が終わった。
終わり方があざとい。
そもそも
阿久津教諭の行ってきた一連の行為は,
教育活動ではない。
児童に精神的苦痛を与える
違法な事実上の懲戒行為をちりばめた教育は,
教育ではない。
違法行為を受けながら,
教諭の心情を過剰なまでに推し量り,
結果として,
健全な批判精神を失っていく児童の姿もまた恐ろしい。
自らの違法行為を,
現実社会の写し絵として正当化していく
阿久津教諭の論理構成は極めて危険である。
よって,教育委員会が,
阿久津教諭を教室から追放するのは
極めて正当な行為である。
あくまでもドラマであるから,
真剣に教育論として論議すべき対象ではないが,
阿久津教諭のような存在が
望ましいものとして認知されるようであれば,
学校教育をめぐる環境も相当危険なところに来ていると言わざるを得ない。
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終わり方があざとい。
そもそも
阿久津教諭の行ってきた一連の行為は,
教育活動ではない。
児童に精神的苦痛を与える
違法な事実上の懲戒行為をちりばめた教育は,
教育ではない。
違法行為を受けながら,
教諭の心情を過剰なまでに推し量り,
結果として,
健全な批判精神を失っていく児童の姿もまた恐ろしい。
自らの違法行為を,
現実社会の写し絵として正当化していく
阿久津教諭の論理構成は極めて危険である。
よって,教育委員会が,
阿久津教諭を教室から追放するのは
極めて正当な行為である。
あくまでもドラマであるから,
真剣に教育論として論議すべき対象ではないが,
阿久津教諭のような存在が
望ましいものとして認知されるようであれば,
学校教育をめぐる環境も相当危険なところに来ていると言わざるを得ない。
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市場原理の導入問題など、深い考察をされていて興味深いです。
リンクさせていただきました。ご了承下さい。
madographosさんの記事に心から共感いたしました。
私の感じていること、言いたいことと一致していて、
正にその通りだと納得しながら読ませていただきました。
女王の教室
この3ヶ月物議をもたらしたドラマ
しかしワタシはあのように
つよい先生がいないことを
感じます
違法行為といわれようとも
筋を通そうとする意思の高さは評価に値するものだと思います。
教育委員会の評価は妥当であるとは思うですが
ドラマは現実をある程度もとにしていることは
事実であり
芯を子どもたちに通すことが出来ない
教師が多いこと事態が
問題なのではないでしょうか
一つの布石であり
そこから何かを考えていくことも
必要だと思います。
おっしゃるように「芯を子どもたちに通すことができない教師」は困ります。そして,それが学校教育に対する不満のひとつとして感じられているということもその通りだと思います。
しかし,現実の教育の場で,「つよい」「筋を通そうとする意思の高さ」をもつ教師像と,子どもを傷つける「違法行為」を行う教師像を重ねてはいけないと思います。筋や意志を通すためには法をも飛び越える教師に,公教育を担うことはできません。
そういった意味で,このドラマに商業的なドラマ以上の意味を見出すことはできません。
とても同意します。
(^_^)/簡単で失礼しました。
なぜならば、所詮、主人公は、視聴率かせぎの虚像でしかないからだ。
しかし、ある切っ掛けでDVDをみることにした。
「あなたたち、いいかげんめざめなさ~い」というと、生徒の反応がよく、話のつかみによく利用させてもらったものだ。
ところで、この「女王の教室」は意味深である。
それは、新型の教諭の出現にある。
「体罰を意図的・計画的にやる」
「自己責任としてすべてを受容し引き受ける」
まさに、この阿久津教諭は、体罰教師として「確信犯」なのである。
にもかかわらず、「愛の体罰」であったかの如くシナリオは巧妙にしあがっている。
「愛の体罰」など「ない」。
「ない」ものを「ある」ようにみせかけるマジックのトリックが、小生にはいまだにはっきりわからない。
それでも
ほんの少しだけ言えることは、笑われても仕方がないが、
阿久津教諭を演じる天海 祐希は、はまり役である。
さすが宝塚のトップスタ-。華がある。動きが華麗である。
最後にみせるあの「笑顔」に、みんなしびれてしまうのではないのかなぁ。(笑)