これからは,「公共の精神」というものを
厳しく問い直していかなければならない。
どうも,「公共の精神」ということが,
たやすく「国」ということと結びついて
議論されているようであるが,
実際のところ,「公共の精神」とは,
ひろく市民性全般を指しており,
必ずしも「国」の枠組みのなかにおさまるものではない。
よくわが国民が伝統的にもっていた規範意識が
最近欠如してきたなどといわれるが,
そこで語られている「規範意識」というものが,
儒教道徳や武士道を模範とするものであるとすると,
それらの価値観が本来,
封建社会のもとでの規範であることを
捨象して考えてはならない。
むしろ,「公共の精神」は,
21世紀の社会にふさわしく
構築されなおさなければならないのであって,
その根本となる市民性の根拠をどこにおくかということを
厳しく吟味していかなければならないのである。
失われたとする「規範意識」を
「国」に対する思いと,
結びつけて議論することは,
封建社会がもつ主従の倫理を理想とする価値観に
支えられているにすぎないと考えざるを得ない。
その場合の「主」とは誰なのか。
民主主義社会における「主」とは何かが
吟味されるべきであろう。
いわゆる規範意識をもっているかどうかということと,
その人がもつ政治信条とはほとんど関係しないと
思うのだがどうだろうか。
いわゆる社会規範に対する意識というものは,
自然に考えれば,
その人の属する身近な共同体に対する意識から発生する
原初的な感覚ではないのだろうか。
その意味では「公共の精神」は「国」の枠組を超えて
存在するものであろう。
厳しく問い直していかなければならない。
どうも,「公共の精神」ということが,
たやすく「国」ということと結びついて
議論されているようであるが,
実際のところ,「公共の精神」とは,
ひろく市民性全般を指しており,
必ずしも「国」の枠組みのなかにおさまるものではない。
よくわが国民が伝統的にもっていた規範意識が
最近欠如してきたなどといわれるが,
そこで語られている「規範意識」というものが,
儒教道徳や武士道を模範とするものであるとすると,
それらの価値観が本来,
封建社会のもとでの規範であることを
捨象して考えてはならない。
むしろ,「公共の精神」は,
21世紀の社会にふさわしく
構築されなおさなければならないのであって,
その根本となる市民性の根拠をどこにおくかということを
厳しく吟味していかなければならないのである。
失われたとする「規範意識」を
「国」に対する思いと,
結びつけて議論することは,
封建社会がもつ主従の倫理を理想とする価値観に
支えられているにすぎないと考えざるを得ない。
その場合の「主」とは誰なのか。
民主主義社会における「主」とは何かが
吟味されるべきであろう。
いわゆる規範意識をもっているかどうかということと,
その人がもつ政治信条とはほとんど関係しないと
思うのだがどうだろうか。
いわゆる社会規範に対する意識というものは,
自然に考えれば,
その人の属する身近な共同体に対する意識から発生する
原初的な感覚ではないのだろうか。
その意味では「公共の精神」は「国」の枠組を超えて
存在するものであろう。
儒教道徳とか武士道だけが規範ではなく、むしろそれらは国や藩、町や村を統治するための候補者集団であった階級の規範でしかないと思います。
公共の精神は生きていくための基本的な心構え、社会規範はそのための具体的なガイドライン、法律は自治体や国や国際社会によって最低限担保される社会規範という風に私は思います。
なので、21世紀の社会にふさわしく構築されなおされるべきは社会規範ではないかと思います。