学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

服従力

2012-02-09 | 教育
 昨今は,「力」ばやりである。生きる力,人間力,言語力,学士力,などなど,文部科学省御自らが,日本語の健全な言語感覚を大胆に超越する形で,「力」を強調なさるのには恐れ入る。その大胆さにあやかって,わたしもひとつ,作ってみた。いわく,「服従力」である。現代の学校に欠けているのは,正にこれである。服従する力,服する力,従う力である。先生や大人のおっしゃったことをきちんと聞き,言われたとおりにやる力,いいつけを守る力,黒板に書かれたことをそのまま写す力,以前習ったことを忘れず,ずっと守り続ける力などなど。子どもたちの,個を尊重したり,「よさ」を認めたり,主体性を発揮させたりしている間に,この「服従力」が大幅に低下しているのである。考えてみれば,人生において,主体的に自ら行動するよりも,他者の指示通りに動いていることのほうがはるかに多いのである。したがって,この指示に従い,きちんと服従する力がないと,健全な社会生活を営むことはできない。むしろ,個性や主体性よりも,この「服従力」に富むほうが,学力も高かろうし,人間関係もスムーズであろう。すなわち,将来の仕合せを約束する可能性が高いのである。社会では,多くの職場が,本音では,主体性などより「服従力」を求めているはずだと思うが,間違いだろうか。いまこそ,「服従力」を育成することを本気で考えるべきである。教師は,児童生徒をきちんと従わせることを,もっと真剣に考えなければならない。なんてことを言うと,教育学者の偉い先生方や教育熱心な保護者の皆さまに叱られそうだが,要はバランスの問題である。
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子供のよさを過大評価してはいけない

2012-02-04 | 教育
 現在の教育の混迷は,ひとつには,「子供のよさを認めよう」という動きが強まりすぎ,学校の研究課題などに「よさ」という言葉が氾濫しだしたことに起因している。なぜなら,子供には「よさ」もあれば,「わるさ」もある。そのいずれをも冷徹に観察するのがプロフェッショナルとしての教育者である。ところが,この「子供のよさを認めよう」という動きは,「わるさ」に目を向けることを避けさせるように作用しすぎた。確かに減点主義のはびこっていた教育現場にあっては,子供の「よさ」を認めようとする姿勢は一定の教育効果を生んだであろう。しかし,これは,バランスの問題であって,「よさ」を認めることがすなわち教育の改善につながったわけではないのである。そこのところをはき違えてしまったのではないかと思われる子供中心主義者の跋扈には辟易している。
 私は,目の前の子供を信頼しない。ただ目の前の子供がよりよく成長する素地をもっているということは信じている。しかし,実際に目の前の子供がよりよく成長すると保証することはできない。それが私の教育観の原点である。だから子供の現在の「よさ」は,成長可能性の一面でしかないと思っている。「よさ」をほめたから伸びるというような単純なものではあるまい。「わるさ」については,成長を阻む要素であるから,これに対しては,厳しい態度をとる。よりよい成長を信じつつ祈りつつ,厳しく対処するのである。
 昨今,子供の作文を直さない教師がいると聞く。とんでもないことである。子供の作文に対して,表現の不備,漢字の間違い,文法の過ちなど,修正してやらなければ作文が書けるようになどなるはずがない。きちんと朱を入れ,書き直させる。これが教師の仕事である。子供の作文の「よさ」を認めてほめて終わり,などというのは,教育の放棄でしかない。
 ややこしい教育理論などにまどわされず自然体で真剣に子供にあたれば,おのずと教育の在り方はわかってくるはずなのだが。
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教師の学力

2012-02-02 | 教育
 真剣に考えなければならなくなってきたことは,教師の教養あるいは知識レベルということである。教職の専門性ということを言い立てる割には,教師の教養あるいは知識レベルは保証されていない。
 その影響は特に小学校教諭において顕著である。御存知のように小学校教諭は全教科を教える。しかし,現行カリキュラムや入試制度,免許法制度やあるいは教員採用試験の方式によっては,例えば,日本史に触れたのは中学校が最後とか,数学や化学にはまともに取り組んだことがないというような先生がすでに教壇に立っているのである。大学でも,教養課程が多くの大学で廃止されて久しく,広く浅い知識教養を得ることは学校教育の中では難しくなっている。それに加えて,教科書の記述も,児童の主体性を尊重したり調べ学習を尊重したりするためか,非常に薄っぺらな子どもに迎合したかのような漫画のキャラクター入りのものまで出ている始末である。このような状況において,子どもの主体性を発揮させたり,子どもの「よさ」を重視したりすることは極めて危ういことである。それは,子どもに学ばせないのと同義である。なぜなら,教師の方も,その教科内容についてさほど深くは理解できておらず,教科書にも詳しく書いてあるわけでもなく,授業は子どもの興味関心を重視して進められる,それは子どもを遊ばせているのと同じである。「さあ,班になって,何を調べるかを話し合いましょう」,「それではグループごとに調べましょう」,「調べたことを発表しましょう」「調べたことを新聞にしましょう」,「それぞれの班にそれぞれよいところがありましたね。すばらしい」。こんな授業で,子どもに何が身につくのであろうか。独りよがりで自信過剰な中身のない人間を量産しているにすぎないのではないか。
 教育というのは,我々が先祖から受け継いだ文化的な遺産を次世代に誤りなく伝えていく営みである。そのためには,時には知識をたたき込むことも必要であろうし,子どもの興味関心をより伸ばしていける方向付けを教師がしてやることが必要であろう。子どもの「よさ」を認めるのではなく,子どもを「よりよく」するためでなければ,学校の存在価値はない。子どもを新しい世界に引っ張り出す力が教師になければならない。それこそが本当のeducationの意味である。
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問題解決学習への疑問

2011-12-03 | 教育
「問題解決学習」などというものに
本当に意味があるのだろうか?

「問題解決」ならば,人生これすべて「問題解決」の連続である。
子どもたちだって,子どもたちなりの「問題」に
日々直面しているはずであって,
それらを自分なりに「解決」しつつ成長しているのである。

なぜ「問題解決」を「学習」などに矮小化するのであろうか。
「学習」は,
人生における「問題解決」の手段にはなりうるかもしれないが,
「問題解決」にはてんで役に立たないものも多い。

もともと「学習」は「問題解決」を目的とはしていないから,
これは当然である。

わざわざ「問題解決学習」などと言わなくたって,
さまざまな環境の中で,家庭生活を営み,
学校で集団生活をし,授業以外に,特別活動をはじめとする
さまざまな活動を行っている子どもたちは,
十分に集団における「問題解決」の「体験」を積んでいくのである。

「問題解決学習」における「問題」は,
学習指導要領の下で行われる教育活動においては,
いわゆる問題集の「問題」のように
常に擬似的な「問題」にすぎず,
それが教室で扱われる限りにおいて,
人生の切実な問題や社会の現実に関わってはこない。

「問題解決学習」の名のもとで,
擬似的な「問題」を「解決」させる
矮小化された「学習」を積めば積むほど,
子どもたちは,「解決」の手段を見失うか,
または,
理想的かつ虚偽的な「解決」手段を
学んでしまうのではないか。

「問題解決学習」と称されているものは,
実は,「擬似問題擬似解決学習もどき」か,
もしくは「問題解決遊び」にすぎないのではないか。

深く危惧するのである。



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教員の資質能力向上策の提案

2011-11-06 | 教育
教員の資質能力を向上させる前提として,
教員の「資質能力」という言葉を解体しなければならない。

まず,教員の「資質」は向上しない。
「資質」とはその語義からいって,「生まれつき」のものである。
「資質」と「能力」をいっしょくたにして,
「後天的に形成可能」などという詭弁はやめてもらいたい。

では,教員採用の段階で,すぐれた「資質」をもつ教員を選べるであろうか?
おそらくは不可能である。すぐれた「資質」を見極めるのであれば,
1年ぐらいは現場に立たせてみて,そのあとで判断しないと無理であろう。
そもそも,「興味」と「適性」は別のものであって,
教職に就きたいと思っている者に適性があるとは限らないのである。
では,教員養成に携わっている大学が学生の適性を見極めて
ふるいにかけているかというと,
開放制原則の下ではまあそれは無理であろう。
さらに,一度教員として採用されてしまえば,
そのあとで「資質」を理由に退職させることなど,
試用期間制度をフル活用すれば別であるが,
事実上ほとんどできないのである。
教員免許更新制度も,
不適格教員排除のためのものでないということは,
文部科学省自らが明言しているので,
「資質」のない教員排除のためには機能しないのである。

したがって,「資質」のある者が,教員になるとは限らず,
「資質」のない教員が教育現場には多く存在し,
かつ,「資質」のない教員を排除することも事実上不可能であるということは
前提条件となる。

では,「能力」についてはどうであろうか。
こちらについても,「資質」と同様,
「能力」のない者が採用される可能性が高いが,
「資質」よりは開発可能性が高いと思われる。
ここで気をつけなければならないのは,
我が国では,「意欲」があれば「能力」があるかのように,
受け取られがちなことである。
実は,「意欲」と「能力」もまた別物である。

「能力」開発のためにはどうすればよいか。
それは,教員の専門性を開発しようとするのではなく,
教員としての基礎訓練により,
教員としての身体性を身につけさせることである。
つまり,子供の前でどう動きどう話すかを
体に覚えこませるのである。
そのためには,緻密なマニュアルをつくることも可能である。
実は,教員にはこの基礎訓練が欠けているのである。
教職は専門職であるという言辞に甘え,基礎訓練がおろそかになっている。
そのため,
子供の前でどうふるまえばよいかが本当にはわかっていない教師が多いのである。
だから,教育が安定しないのである。
この基礎訓練は,強制的に行わないと,
プライドの高い教員たちが自主的に行う可能性は極めて低い。
「研修」などでは,「能力」開発は不可能である。
したがって,
現職の教員の能力開発はOJTを組織化する以外に方法はないが,
もともと学校が内在的に持っていたOJT機能は,
昨今の教育改革でずたずたにされているので,
ほぼ絶望的である。

これから教員になる者については,まだ基礎訓練が可能である。
この基礎訓練の最大の目的は,教員個々の我執を断たせ,
子供のために生きる自覚をもたせることにある。

どのような職業であっても,
この基礎訓練のうえに,専門性が成り立っているのである。
この基礎訓練の機能を,
大学や大学院あるいは教育委員会にゆだねることは
おそらく無理であろう。
国がお金をかけて,教員用の職業訓練校をつくる必要がある。

本当に教員の能力向上を考えるのであれば,
教員になることを志望するものは,
免許取得後,全寮制の訓練校で,
一定期間の厳しい職業訓練を受けることを義務とし,
その間は国が給与を支給する,とでもしておけば,
今よりは少しはましになるであろう。

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教師の経験

2011-10-09 | 教育
教師は,人間相手の仕事であるから,
明らかに経験豊かな方がよいはずである。

教職にとって経験に勝る財産はない。
ただ,自分だけの経験では,
ひとりよがりになることもある。
だから,
それを修正するために研修が必要なのである。
しかし,やはり経験豊かな教師は優れた教師である。

ところが,
昨今,一般企業等の傾向と異なり,
年配の教師ほどやる気を失うという趣旨の
分析結果が出てきた。
その原因を,若い教師に比べて
年配の教師の生徒教師関係が
うまくいかないことに求める考察が
識者によってなされている。

なぜ,そのような考察がなされるのか,
はなはだ疑問である。

普通に考えてみればわかりそうなものだが,
人と付き合うときに,年齢と性格と,
どちらを重視しているだろうか?
年配でも好かれる教師はたくさんいるし,
若い教師でも生徒から
総スカンをくっている教師もたくさんいる。


年配の教師がやる気を失うのは,
自身の経験が教育現場で軽視されるからである。
いや,年配の教師の蓄積を無にするような
わけのわからない「新しい」教育が,
改革の名のもとに導入されてきたからである。
実は,その改革こそ,学校崩壊の元凶なのだが,
改革の旗振り役は一時期脚光をあびればそれでよいのであって,
ゆっくりとあらわれてくる改革の結果までは責任を持ちはしない。

年配の者がその職業生活の中で築き上げてきた
さまざまな経験の蓄積を,
若い世代が敬意をもって遇するという,
一般社会ではごく当たり前であって,
かつての学校でも当たり前であったことを,
今の学校でも行うようになれば,
確実に学校はよくなっていくのである。
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教師の人生

2011-10-03 | 教育
結局,いま目の前にいる子供たちのために,
一所懸命になることしかないのではないか。

自分の限られた力を出しきって,
うまくいったときには,
有頂天になって喜び,
うまくいかないときは,
己の非力を嘆いたり,おろおろしたりする。

認められたり,感謝されたりすれば,
教師こそ我が天職と思い,
批判や非難を受ければ,
自分は教師に向いていないのではないかと思う。

それが,教師の姿である。

揺れ動くのはあたりまえ。
それでも,
「子供たちのために」,
その気持ちだけが,
教師の人生を支えている。
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教師の元気

2011-10-02 | 教育
教師は,子供と一緒にいると元気になる。
それが本当。

でも,子供と一緒にいることが苦痛だったり,
嫌になったりするときもある。
そんなときは「教師」である自分を責めないで,
無理をせず,ちょっとのんびり休養するのがよいでしょう。
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質問する子と質問しない子

2011-07-14 | 教育
授業でわからないことは先生に質問することは
よいことであると思われている。
事実,大人の世界でも,
アメリカの大学の様子などを引き合いに出して,
質問する力が大切だなどと言われることが多い。

しかし,本当にそうだろうか。

私が子供の頃を考えてみると,
質問する子と質問しない子がいた。
質問する子は,だいたい成績で言うと,
中ぐらいのちょっと上ぐらいが多かったように思う。
逆によく出来る子供は,
ほとんど質問しなかったように思う。
授業内容に疑問などなかったか,
さもなくば,疑問点があっても,
自分で調べたり,考えたりして,
自力で解決していたのであろう。

自分で調べたらわかりそうなことは,
安易に質問すべきではないと
考えていたのではなかろうか。

これもまたひとつの見識である。

こういうことを思い出していると,
授業でただただ質問することがよいことのように言うのは,
いささか浅薄にも思える。

質問しないという美質もまた認められるべきであろう。
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本音で語る

2011-06-30 | 教育
突き詰めて考えれば,
学校現場で起こる諸問題を解決しようとするのであれば,
ただひとつのことが出来ればよいのではないかと思う。

それは,「本音で語る」ということである。

教職員同士が本音で語り合うことができ,
保護者にもまわりの大人にも本当のことを話す,
ということに尽きるのではないかと思う。

それを難しくしているのが,実は「教育の言葉」そのものである。
教育学者や教育関係者は,
とかく理想論を語りたがる。
美辞麗句を語りたがる。
子供や教育関係というものを美化して,
かっこいいフレーズを多用する。
だから,現場の教職員も,
綺麗に飾られた言葉でしか「教育」を語ってはいけないと
思い込んでいる。
しかし,これらの「教育の言葉」は,
教育の現実の前では,嘘やまやかしに過ぎない。

学級崩壊が多発し,
授業もままならないような学校の教育目標が,
「よく考える子ども」だったりするのは,
ジョークとしか思えない。
「授業をきちんと受ける子ども」とか,
「教科書をもってくる子ども」というふうにすべきであろう。

「教育の言葉」には善意の欺瞞がつきものである。
このような「教育の言葉」を避けること,
それができなければ,いかなる教育問題も解決しない。
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言葉遊びもほどほどに

2011-06-27 | 教育
教育界にはびこる悪弊は,
やたら新しい言葉を作りたがることである。
なさけないことに文部科学省がそのお先棒を担いでいる。

そもそも「生きる力」あたりからおかしくなった。
何の修飾語句もなく「生きる力」などと普通には
言うはずのない言葉である。
「生きる」ための「力」という意味であろうが,
それでもおかしい。
私はそんなに力を入れて生きてはいない。
そもそも意味をよく考えると,
「生きる」と「力」は直接には結びつかない言葉である。
「力」がなくとも生きている,生かされている,
「力」があっても生きられない,そういうことがあるのが人間である。

「伝え合う力」もまた怪しい。
お互いに伝え合うための力ということであろうが,
ふつうは言わない言葉遣いであろう。
この「力」は,技能か,能力か,知識か? 
内実がないのである。

ほとほと「力」がお好きなようである。
そういえば,「人間力」などというよくわからないものもあった。

「心の教育」も難しい。
道徳を教えることはあろう,
人の道を教えることはあろう,
規律を守らせたり,規範を示したりもできよう。
しかし,それは「心」を教えることとは違う。
「心」は教える対象とするには,
無限定に過ぎる。

「食育」というのもすわりが悪い。
「知育」「徳育」「体育」と並べてみると,
それぞれ「知を育てる」「徳を育てる」「体を育てる」である。
「食を育てる」とは何ぞ。農業のことか?

「外国語活動」も変である。
外国語活動があるならば,国語活動もあるだろう。
はて,国語活動とはなんじゃろう。
単に「外国語」あるいは「国際理解」でよいではないか。
「外国語」をやらせたいのに,
「外国語」と直截に言えないのであれば,
成果は上がらないからやめたほうがよい。

「熟議カケアイ」に至っては,
もう何も言うことはない。
世も末である。

このように文部科学省を中心に,
教育界では,新語珍語のオンパレードである。
こんな言葉を使っていると,
こちらの言語感覚まで狂ってしまう。

こんな言葉をおかしいと思わないのは,
国語に対する敬意がない証拠である。
これこそが我が国の教育の危うさである。

こんなわけの分からない言葉でごまかさないで,
昔からある語義の明らかな言葉で堂々と,
新しい教育の在り方を語るべきではないか。

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道学先生

2011-06-22 | 教育
いま学校に必要なのは,
愚直に道を説く先生である。

世事に疎く,融通がきかない,
ただひたすらに己の信ずる道に生きる,
そんな先生である。

とにかく変えることに意味があると思っている改革論者や,
これからはICTやデジタルの時代だなどと思っている新しい物好きや,
アンケートでもってファカルティーを
デベロップしたりなんかできると思っている単純な連中は,
結局,天下に大道あるを知らぬ輩である。
つまり,お子ちゃまである。

お子ちゃまが幅をきかせる学校は,
すぐに結果の出ることや
見栄えのよいことばかりに熱心になる。
浮かれているうちに,薄っぺらな学校になる。

よく見て御覧なさい。
いつの間にやら,
結構ダメになっている。

今はただただ,
道学先生を待ち望むのみ。
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目標・評価より大切なこと

2011-06-21 | 教育
授業を構成する上で,まず目標(めあて)をはっきりさせ,
その目標が達成できたかどうかを評価するということが,
重要な位置を占めている。
そこのところがはっきりしているかどうかが,
授業の良否を決めるとまで言われる。

確かにそれはそうであろう。
しかし,もっと大切なことがあるのではないか。

授業をしたことのある者ならおそらく理解できるであろうが,
目標は達成できなかった,
あるいは当初の目標からは全くずれてしまったが,
それでも,「よい授業」というのがあるのである。

授業中のふとした雑談から,
子どもがその雑談にひきこまれていって,
時間を忘れて,教師も子供も楽しんだということが
あるのではないか。
授業はちっとも進まなかった,でもおもしろかった,
という授業である。

こういう授業の中で,教師と子供の間に
純粋な知的な空間が生まれているということもあるのである。

むしろ,これは「よい授業」という枠を超えているのかもしれない。
教科書もカリキュラムもなく,
ただ大人が子供に教えるという,
人間が長い歴史の中で自然に行なってきた教育の本質的な形が,
授業という場に現れたのかもしれない。

近代学校は合理的であることを期待されている機関である,
がしかし,そのなかに,
合理的である以前の人間の営みがなければ,
学校の存在価値はない。

最近は,学校経営そのものにおいても,
PDCAサイクルの重要性が言われるようになって久しいが,
学校というところは,目標を設定し,
目標を達成できたかという合理的な考え方では
割り切れないところに価値があり,
それがもっとも大切なところであるということを,
教育に携わる者はもう一度考え直すべきであろう。
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ほめすぎ

2011-06-19 | 教育
近頃の学校,とくに初等教育の世界では,
とかく,「ほめる」ことが重視されている。

よく,「どの子供にもよいところがあるから,
それをみつけてほめましょう」というようなことが言われる。

しかし,これは少し行き過ぎではないだろうか。
探して見つけなければならないような美点は,
本当は「ほめる」に価しないのではないだろうか。

「ほめる」という行為は,
他者の行為が賞賛に価する場合に行われることであって,
賞賛に値する行為というのは,自ずから客観的に見ても
優れた行為であるというのが前提であろう。

とはいっても,「ほめる」という行為を,
教育効果を高める目的を持って,
意図的に行う場合においては,
必ずしも客観的に見て賞賛に価するというほどではない
子供の美質について行われることはあるであろう。

しかし,それも限度がある。
あくまでも,「ほめる」とか「しかる」というのは,
子供を社会的存在として成長させるための行動規制の意味を持っている。

だから,あまり「ほめる」ことを安易に行なっていると,
社会的に何が優れた行為であるのかというのが
子供にとって見えにくくなってくる。

そして,「ほめられない」自分を,
認めることができなくなる。

よいところを見つけてもらって,
いつもほめてもらってきた子供が
成長して大人になってからも,
ほめてもらえることを求めるようになる。

「がんばったのに,ほめてもらえない」などという不満を感じる
若者も増えてきているように思う。

社会は結果で判断し,プロセスをいちいちほめるようなことはない。

その社会の在り方に関して,不満を持ち,自信を失う若者がいるとすれば,
それは,初等教育の「ほめる」教育の在り方にも一因があるのではないだろうか。
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学習指導要領解説における「原子力」

2011-05-19 | 教育
平成23年度は,小学校の新学習指導要領の全面実施の年である。

さて,原発事故問題は未だ予断を許さない状況であることを踏まえて,
新学習指導要領解説において,原子力がどのように取り扱うこととされているかを
社会科と理科について検証してみた。

まず,社会科は以下の通りである。

小学校学習指導要領解説 社会編
火力発電所や原子力発電所においては環境に配慮していることや安全性の確保に努めていることについて取り上げることも考えられる。

高等学校学習指導要領解説 公民編 政治・経済
環境負荷を最小限にとどめ,持続可能な社会を構築するためには,省資源・省エネルギーの推進,原子力の活用,太陽光や風力などの新エネルギーの利用など,様々な方策を検討する必要があることを理解させる。


中学校については,「原子力」という言葉は見当たらないが,小学校と高等学校の政治・経済で扱うことになっている。小学校においては,原子力は「環境に配慮」して,「安全性の確保」に努められているものであるという位置づけである。原子力発電の危険性については,触れる余地のない記述である。高等学校においても,環境負荷という観点から,原子力の活用は推進されるべきものとされている。今回の事故を踏まえると,このまま取り扱うことは非常に難しいし,このまま取り扱うべきではないように思われる。

次に理科についてみてみよう。

中学校学習指導要領解説 理科編
原子力発電ではウランなどの核燃料からエネルギーを取り出していること,核燃料は放射線を出していることや放射線は自然界にも存在すること,放射線は透過性などをもち,医療や製造業などで利用されていることなどにも触れる。

高等学校学習指導要領解説 理科編 物理基礎
原子力については,関連して,α線,β線,γ線,中性子線などの放射線の特徴と利用,線量の単位など,放射線及び原子力の利用とその安全性の問題にも触れる。その際,放射線がその性質に応じて,医療,工業,農業などで利用されていることに触れることが考えられる。

電力の総消費量と水力,火力,原子力,太陽光などの各発電量の時間的な推移の調査を行い,それぞれの発電の仕組みや特性との関連から効率的な電力の利用について探究させることや,霧箱や放射線測定器を用いて放射線の観察,測定を行い,放射線の利用や安全性の問題について探究させることなどが考えられる。


小学校については,「原子力」という言葉は見当たらないが,中学校と高等学校で扱っている。中学校では,核燃料が放射線を出していることはしっかり扱っているが,「放射線」とは自然界にも存在し,医療や製造業などでも利用される役に立つものという位置づけであり,あまり危険なものであるという印象は受けない文章である。高等学校の物理基礎でやっと放射線の性質及びその「安全性の問題」に触れることになっている。しかし,気になるのは,ここでも,「危険性」ではなく,「安全性」である。

今回の原発事故を踏まえて,文部科学省は早急にこの学習指導要領解説の文言を再検討すべきであろう。もし,このまま何の修正もないとすれば,公的な「解説」なのであるから,このまま学校現場で教えなさいよという意味にとれてしまう。このコンセプトで原子力を扱うのは,今となっては,いくらなんでも無理であろう。

【追記】
この記事を書いた後,日本原子力学会から,「新学習指導要領に基づく高等学校教科書のエネルギー関連記述に関する提言」と「新学習指導要領に基づく小中学校教科書のエネルギー関連記述に関する提言」が出されていることがわかった。この提言が考慮されたかどうかはわからないが,これらの提言も,今日の視座で読むと誠に興味深い。http://www.aesj.or.jp/information/session.htmlからたどっていけば見られる。




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