学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

アクティブラーニングの教育効果

2016-05-09 | 教育
アクティブラーニングに興味をもって、いろいろ調べているのだが、調べれば調べるほど疑問が湧いてくる。
まず、アクティブラーニングに教育効果があるという確固たるエビデンスに出会わないのである。

それはなぜかというと、以下の通りである。

アクティブラーニングに教育効果があると表明している人々は、必ずアクティブラーニングを実践しているか、もしくはアクティブラーニングに効果があると見込んでいる人々である。そのなかで、誠実な人は、客観的に教育効果を示そうとする。いろいろな調査方法はあるが、一定の効果らしきものは見られるので、それを教育効果として発表する。残念ながら、それらは常に客観的な立場から反証可能な程度の効果しか出ない。
それよりもむしろ実証を経ないでアクティブラーニングを導入すべきという人のほうが多いように思う。ディスカッションやディベートをすれば、思考力やコミュニケーション能力が身につくはずだとか、主体性が身につくはずだとかいうレベルの単純な議論である。こちらの議論のほうがよりたちが悪い。このような方々のエビデンスは、お上の意向という程度のことであろう。

日々教壇に立っている身からすれば、アクティブラーニングがそんなにうまくいくものではないことは分かりきったことである。どんな方法であっても、経験を積んだ上手な教師がやれば効果を生むだろうし、下手な教師がやれば何をやっても駄目である。講義の上手な先生はたぶんアクティブラーニングもやがてはうまくやってのけるだろう。ただし、「やがては」である。教育方法が違えば、経験の蓄積がすぐには役立たないことがある。ましてや下手な教師がやれば、最初は目新しさでひっぱれても、そのうち授業は崩壊するだろう。それだけ、教育方法をドラスティックに変えることはリスクが伴うのである。

結局のところ、アクティブラーニングは、アクティブラーニングの教育効果がどうであれ、アクティブラーニングを導入するということに意味があるということなのだろう。それは、一種のイデオロギーである。その真意は、学校を「変えたい」という単純な情念でしかない。いまやアクティブラーニングにあらずんば、授業にあらずとでも言いそうな勢いである。

もともとアクティブラーニングは、アメリカ方面で、高等教育現場における講義のオールタナティブとして提唱されたものである。かの国の議論は非常に穏当で、アクティブラーニングの教育効果を必要以上に喧伝することもなく、各教員の志向にしたがって様々な手段を取りうる幅をもたせることがユニバーサル化した大学においては必要だという議論である。その背景には、文化的背景を異にする様々な学生をいかに導くかという課題が横たわっているのである。さらに、アクティブラーニングに真っ向から反対する意見が、有力新聞に載ったりする。我が国の教育談義にはない懐の深さと健全さがある。

それに、大学は洋の東西を問わず、近代以降ずっと講義形式の授業を続けてきたわけで、それでもって思考力や判断力が育たなかったり、主体性や協働性が育たなかったりしたわけではないことは、歴史を学んだ常識のある教養人なら分かりそうなものである。

アクティブラーニングを振りかざすならば、もう少ししっかり勉強してからにしたほうがいい。
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部活動を再び考える

2016-05-08 | 教育
部活動の指導を誰がするかとか、部活動の在り方をどうするかなどという議論が新聞紙上でも取り上げられているようだが、どうも根本のところがおかしくなっているように思う。

そもそも部活動は本質的には正課外の活動であって、学校の教育課程に位置付けられてこなかったのは当たり前のことなのである。
つまり、学校の勉強の終わった後などの気晴らしとして位置付けられていたはずである。だから、部活動はもともと趣味的活動である。同じような部活動は会社にもあった。会社の昼休みにキャッチボールをしたり、コーラスをしたりしていたのと同じである。官公庁などでも昔は昼休みに職員がテニスをしているのを見たことがある。これらと全く同じ類のものである。

だから、教員と生徒がお互いに好きなスポーツや趣味を一緒に楽しむというのが本来の姿であって、やれ部活動の教育効果がどうだとか、教員が素人だから指導ができないとか、外部のコーチを使えだとかいう議論は、大元のところで間違っているのである。

学校制度の中では、部活動の位置付けは制度上も予算上も、現在に至るまで「気晴らし」以外のなにものでもない。教育効果を云々するほどの措置は取られていないのであり、改革案も結局はその範囲で考えているのである。例えば、外部のコーチと雇うといっても、本当のプロフェッショナルを雇う場合はまれであろう。そんな予算が出るわけがない。せいぜい、地域の人で趣味でやっている人をコーチと称するに過ぎない。結局、「気晴らし」としてしか考えられていないにもかかわらず、あたかも教育の一環であるかのような議論をする。詭弁である。

そのことを、きちんと認めることが大事なのである。
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教育言説を考える

2016-01-02 | 教育
そうであっても,そうでなくてもよいことを,そうでなければならないように主張することは,意味がないばかりか有害である。

世の中の教育に関する言説は大体の場合,そのたぐいである。それほど一所懸命に主張しなくてもよい,ほぼどうでもよいことなのである。

ほとんどすべての教育言説は,逆もまた真なのである。

教育することは,人間にとって,子供を育てていくうえでのあたりまえの営みである。教育は生きていくうえでの本質的欲求であって,もともと何か目的を意識して行う行為ではない。だから,合目的的に教育を語ろうとするとどうしても嘘っぽくなるのである。とにかく,教育に関することはどうとでもいえるし,教育について語られることは大して意味がないことが多いように思える。

学校にしても,単純に言って,教師は,教えたいから教えているのである。それ以上でもそれ以下でもない。教師にそれができないようにしてしまうような教育言説が,学校教育をダメにするのである。
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チーム学校の危うさ

2015-11-22 | 教育
「チーム学校」,また,変な用語が登場したものだ。

教員を中心に多様な専門性を持つスタッフを学校に配置して,学校の教育力・組織力を向上させるのだそうだ。教員は授業など子供への指導に一層専念できるそうだ。そのあたり,校長が適切にマネジメントするそうだ。実に結構なことである。しかし,よくもこんな危なっかしい提案がなされるものだ。

教員が何でもやっていたものを,いろいろな専門スタッフを配置して,教員の負担を減らすということは,もともと中小企業でアットホームにやっていた会社が,野放図な業務の多様化のためにたちゆかなくなり,大企業に転換しようとするようなものである。これが成功するためには,莫大な資金が必要であることは,中学生でもわかる理屈であろう。

そもそも,中小企業が,業務多様化でたちゆかなくなった場合,こんな転換をはかれるものであろうか? この転換がはかれるのは,その企業が,業務多様化の成果が上がって莫大な利潤をあげていて,企業規模を拡大する余裕がある場合に限られる。

いまの学校の現状は,逆である。仕事は増えたが,成果はあがらず,資金的な余裕もない状況である。株主たる国や自治体も大規模な資本を投入するつもりはなさそうだ。それどころか,専任教員数は減らそうとする意図が見え見えである。あたりまえである。少子化が進み,財政状況がはかばかしくない状況で,学校に対して,資金投入する余裕など,我が国にはないのである。

かくして,学校の問題の解決策は,「チーム学校」などではない。業務多様化でたちゆかなくなっている学校がやるべきことは,ただひとつ。業務そのものを減らすことである。そのためには,「学校ではやらない」ことを国が明確にすればよいだけである。例えば,「義務教育学校は,学習指導要領に定められた内容だけを授業するところであり,他のことはやらないところである」とでもしておけばよいのである。まずは,所定の勤務時間外は電話は「本日の業務は終了いたしました」というメッセージを流すだけにすればよい。研究開発指定も煩瑣な事務書類提出も地域連携も特色ある学校づくりも保護者対応も部活動もやらなければやらないですむのである。また,授業についても,宿題をしなさいと言って宿題をやらない子供,教師の指示の守れない子供に授業を聞かせる義理はない,そもそも授業を聞いて学力をつけるのは自己責任であるということにしておいて,到達度の低いものは義務教育であっても進級できないことにすればよいだけである。逆に言えば,出席日数が足りなくても到達度が高ければよいということにしておけばよい。学校が本来勉強するところであるとするならば,それでよいのである。質問しにくれば答えるが,こちらから補習に呼び出すなどという甘いことをする必要はない。

学校がさまざまなサービスを取り込んだまま,「チーム」化するのでは問題の解決にならない。
学校がさまざまなサービスを排除して,そのサービスが本当に社会的に必要ならば,社会にそのサービスを行う者があらわれるであろう。
めざすべきは,「チーム社会」である。
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教員免許状更新講習制度の闇

2015-11-12 | 教育
教員免許状更新講習制度の闇に気づいてしまった。

教員免許状更新講習には,免除対象者というものがある。

校長(園長)、副校長(副園長)、教頭、主幹教諭または指導教諭
教育長、指導主事、社会教育主事、その他教育委員会において学校教育又は社会教育に関する指導等を行う者
免許状更新講習の講師 など

「教員を指導する立場にある者」は,更新講習の受講を免除されることになっている。

ところが,旧免許状所有者の場合,受講義務者以外は,免除申請ができない。

受講義務者というからには,現場で児童生徒の教育にあたっている現職教員のみを指すのであればわかるが,ちゃっかり,「教育長、指導主事、社会教育主事、その他教育委員会において学校教育又は社会教育に関する指導等を行う者」も入っているのである。この人たちは基本的には教育職員免許法にいう教育職員ではないので(教員籍を有したままの場合はその限りではないかもしれないが),教員免許状を必要としない職であろう。にもかかわらず,受講義務者なので,この人たちは免除申請可能である。受講義務者といっても,もともと更新講習を免除することになっているのであるから,受講義務者に入れていること自体,変である。

ところが,免許状更新講習の講師は,大部分が大学の先生方である。講習を行っている大学の先生方で,過去に幼小中高で教鞭をとられていた方で,現在は幼小中高の現場を離れているが,今後も現場で教える可能性のある方もいるだろう。その方たちは,受講対象者には入るが,受講義務者には該当しないので,免除申請ができないのである。つまり,もし,この先生方が,ご自身の免許状を使える状態にしておきたいと思ったら,更新講習の講師をやりつつ,同時期に更新講習を受けなければならないのである。

このように,教員免許状更新講習制度は,教育委員会関係者にとても有利に作られており,彼らは何もしなくても免除申請でき,更新講習の講師を通常業務プラスアルファでやっている大学の先生方は「教員を指導する立場にある者」ということになっていながら免除申請できないばかりか,免許更新しにくいという変な制度になっているのである。

どうしてこんな差をつけるのだろうか。
闇である。
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「感動」「達成感」の陥穽:組体操問題を考える

2015-11-07 | 教育
高層化した人間ピラミッドや人間タワーの事故の問題が話題になっている。

この問題は,現代の学校の病理を端的に表しているように思う。「感動」や「達成感」といったものを,教育の目的であるかのように言うようになったのは一体いつのころからだろうか。私が教員を始めた30年前には,少なくとも「感動」や「達成感」を目的にして教育するなどということは考えもつかなかった。いかに教育内容を子供に伝えていくか,子供が理解できたり,課題を乗り越えたりできるかということを,知的,科学的,経験的見地から追求していくのが教師だと考えていた。いつの間にか,時代は変わってしまったようだ。しかも,「感動」は子供の感動だけでなく,運動会を見に来た保護者の感動のためでもあるという。ほとほとあきれかえる。見ている者の感動などを目的とするならば,それは運動会ではなく,サーカスか曲芸か猿回しである。
しかも,組体操を完成させて,教師まで感動するという。さらにあきれてしまう。子どものやったことなどに,プロの教師なら感動などしないのである。常に冷静に子どもを見ているのがプロの教師である。教師が感動してしまっては,子どもの事実が見えなくなってしまう。外科医ならば,手術の成功にいちいち感動などしないだろう。弁護士ならば,訴訟に勝ったことにいちいち感動などしないだろう。子どもの成功に感動している教師など,プロ意識に欠けるのである。

そもそも,「感動」や「達成感」は,子どものものである。そして,感動や達成感を感じるも感じないも,子どもの自由であり,教師がコントロールできるものではない。加えて,教師が自らの教育実践に,「感動」や「達成感」を感じているならば,だいたいにおいてその教育実践は失敗なのである。私は,若いころにその点で過ちを犯した。ある行事の終わった時に,私はとても達成感を感じたのである。しかし,傍らの子供を見ると達成感を感じている様子がない。よくよく考えてみると,私は,子どものやるべきことを自分でやってしまっていたのである。その反省を胸に次の年の行事を迎えた。私は,達成感を感じなかった。傍らの子供は達成感を感じていたようだ。子ども自身が考えて子ども自身が成し遂げたからである。教師が,もし達成感を感じたとしたら,その教育実践にはどこかに間違いがある。私は,そう自分に言い聞かせている。教師が達成感を感じるのは,子どものためにではなく,自分のためにその実践がなされた証拠だからである。
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時分の花

2015-07-30 | 教育
教室で子供たちを教えていると,時として,子供たちのすばらしい発想やすばらしい協働に出あうことがある。そのようなとき,子供の力はすばらしいとか,優れているとかいうことに私は感心したり感銘を受けたりはしない。冷静に子供たちの営みを観察するのみである。

世阿弥の『風姿花伝』は,能芸論の古典であるが,同時に優れた教育論でもある。その『風姿花伝』の「年来稽古條々」に以下のような言葉がある。

「人も讃め,名人などに勝つとも,これは,一旦珍しき華なりと思ひ覚りて,いよいよ,物まねをも直にし定め,なほ,得たらん人に事を細かに問ひて,稽古をいや増しにすべし。されば,時分の花を誠の花と知る心が,真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ,人ごとに,この時分の花に迷ひて,やがて,花の失するも知らず。初心と申すはこの比の事なり。」

これは若者への戒めの言葉であるが,学校教育の場面になぞらえて考えてみると,子供が授業で見せるすばらしさや輝きは,「時分の花」というべきもので,やがては失われゆくものである。「時分の花」をほめられ,ちやほやされていると,「時分の花」を本当の「花」であるかのように思いこみ,「真実の花」から遠ざかり,やがては「花」が失われたことにも気付かない。「時分の花」をこれは本当の花ではないと思い定めて,年長のその道の先達(学校では教師ということになるでしょう)に事細かに教えを請い,教えに従ってしっかりと稽古を積むことが大事なのだということになるでしょう。

教師であれば,子供の見せる一時の輝きに目を奪われてはいけないのである。それは,「時分の花」にすぎず,彼らが求めるべき「誠の花」ではないことを肝に銘じておかなければならない。そして,「誠の花」に向かうための道を指し示してやらなければならないのである。

子供たちが有能であるとか無能であるとか,「時分の花」を論評しても意味がない。

教師の使命は,「時分の花」を超えた「誠の花」を見据え,子供を常に「初心」に立ち戻らせることにこそある。
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知識と教養

2015-07-30 | 教育
 自分の高校時代などを振り返ってみて,ずいぶん今の学校の様子と違っていたのではないかと思うことがある。それは,建前がきちんとあったということである。

 高校で勉強する意味は,さまざまな知識を身に付け,有為な大人としての教養を身に付けることにあった。少なくとも,建前としてはきちんとそのように思われており,そのことを疑うことはなかった。普通科高校では,将来の職業にかかわらず重要であるとされる知識が教えられていたが,それは決して,大学受験のためではなかった。大学受験は私事であり,学校があれこれ世話を焼くことではなかったのである。つまり,高校は,高校として教えるべきことを教える。生徒は,もし大学に行きたいのならば,その大学の入試を解けるだけの実力を自分で身に付けるというのが,おそらく我々の時代の主流であったと思う。もちろん,現実には,高校の教師はその高校の進学率は気にしていたし,受験のための模擬試験や補習のようなこともやってくれたが,受験を目的とした授業や試験は主流ではなかったように思う。だから,早々と自分の行きたい大学の受験科目だけしか勉強せず,ほかの科目は捨てるというような勉強の仕方は,余裕のないせこいやり方と思われていた。本当に優秀な生徒は,受験に関係あろうとなかろうと,すべての分野について努力をおしまなかった。また,受験勉強そのものにしても,当時の参考書は大学受験のレベルをはるかに超えていたものが多くあった。当時の参考書の執筆者は,おそらく大学の先生方であっただろうが,どんな教科についても,受験を超えたところに広がっている学問の広く深い世界を高校生や大学受験生に垣間見せてやろうとする愛情があったように思う。もちろん,当時も手軽に苦労なく受験知識を身に付けることができるという売り口上の参考書や問題集はあったが,それらはいわば亜流であり,本流ではなかった。受験勉強の合間に,洋書を買ってみたり学術雑誌を買ってみたり,背伸びしたものである。学生服のポケットに哲学書を入れている生徒がいたような時代である。

 学校で教わることをきちんと身に付けることがきっかけで博識となり,さまざまな知の世界への切符を手にすることは,教養人への第一歩であった。教養人であればこそ,将来どのような人生の苦難が待ち受けていようとも,決して失われることのない知の世界への手掛かりを手にしているわけだから,それを一生糧にして生きていくことができる。

 クイズ番組は単なる知識を問う問題が多いが,そこで正答を多く答えることができる博識な人が輝いてみえるのは,そのような知識に裏打ちされた教養人としての生き方が垣間見えるからではないかとさえ,思うことがある。
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教育改革のレトリック

2015-07-20 | 教育
昨今の教育改革のレトリックを戯画化して,対話形式で御披露してみよう。

改革推進派:今までのやり方では,これからの社会では通用しませんよ。
気弱な教員:そうなんですか。なんとか工夫しながらやってるつもりなんですけど…。
改革推進派:ダメダメ,そんな古いやり方じゃ,未来を担う人材は育ちませんよ。
気弱な教員:じゃあ,どうすればいいんですか?
改革推進派:それは,○○をやればいいんですよ。○○をやれば,子供は劇的に変わります。なんなら,○○の研修を受けていただければ,効果が実感できますよ。
気弱な教員:それじゃ,お願いします。(○○の研修を受ける)
---------------------------
気弱な教員:あのお,○○やってみたんですけど,あまり効果があるようには思えないんですけど。
改革推進派:それは,あなたのやり方が悪いからですよ。あなたのやり方は○○のうわべだけをなぞっていて,○○の本質がわかってらっしゃらない。資質の問題かもしれませんけど。
気弱な教員:じゃあ,本当の○○ができるようになりたいので,教えてください。(さらに○○を勉強する)
---------------------------
気弱な教員:なんか,○○をやると,子供が生き生きしてきたような気がしてきました。落ち着きはなくなりましたけど。。
改革推進派:それが○○の効果ですよ。落ち着きがなくなったんじゃなくて,積極的で活動的になったんですよ。最新の××学の知見をもとに,大学でも効果が実証され,いまや全国の学校に広まりつつある方法ですからね。
気弱な教員:わたし,そんなすごい方法を身に付けたんですか~。うれしい。これから,みんなに宣伝します!

もうお分かりだろう。このようなやり取りが実社会ではどのような場面で行われるかを。これ以上は言うまい。

気弱でまじめな先生方は,自分の実践に誇りをもつべきである。上記のような改革推進派には,ひとこと,「間に合ってます」と言ってやればよい。例えば,授業がうまくいかないときは,苦労して自分で解決策を練り上げなければならないのである。いろいろと学んで知見を広めることは大切だが,幅広く様々な考え方を学び,自分の経験と照らして,自分なりの形を整えて自分のものにして実践すべきである。また,とくに学校では年配の先生に謙虚に教えを請うべきである。年配の先生の経験を馬鹿にしてはいけない。答えは目の前の子供たちのなかにしかないし,どこでも通用するような特効薬や万能薬はない。教育は,生身の人と人との関係のなかでしか成立しない。現場経験の乏しい人間に上手な授業はできない。最も尊いのは,名もなき教師の経験である。プロフェッショナルならば,外の権威にすがるべきではない。現場のプロの実践こそが教育改革なのである。
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アクティブラーニングとレトリック

2015-07-19 | 教育
いろいろとアクティブラーニングについて批判的にいろいろ書いているが,もう少し考えてみたい。

なぜ,アクティブラーニングが「よい」のだろうか? そこのところがどうしてもわからないのである。アクティブラーニングが「よい」のであれば,講義だって「よい」のである。アクティブラーニングのほうが「よりよい」ということは,一概には言えないはずである。我が国におけるアクティブラーニング言説は,カウンターディスコースとして捉えるしかないように思われる。講義形式の授業を,受け身で知識偏重であると断じ,そこで教えられるような単なる知識や技術では,高度経済成長期までは通用したが,「これからの時代」には通用しないとする言説である。実は,この前提そのものが間違っているのではないかと考えている。

欧米においては,講義であれ,アクティブラーニングであれ,ともにレトリックを重んずる伝統的な土俵の上にきちんと乗っているように思える。レトリックを駆使して話すのが,教師でもあり学生でもあり,そこには,客観的な論理の指標が厳然としてあるように思われる。講義もあり,アクティブラーニングもあるのである。アクティブラーニングにおける課題解決というのも,レトリックをどのように組み立てるかということに主眼があるように思える。我が国の場合は,そのバックボーンが不確かである。実は,アクティブラーニングで育つ力は,レトリック,つまり,白を黒と言ったり,黒を白と言ったりする力であるにもかかわらず,我が国では,何か「よい」こと,「正しい」ことを見つけ出す力であるかのように思われているように見える。この根本のところにずれがあるように思える。ディベートを例に挙げれば,ディベートはレトリックを用いた,ただの遊びである。ディベートの勝者は,正しい結論を導いたから勝利したのではなく,そのレトリックが賛同を得たというにすぎない。think pair shareやジグソー法も正しい結論に至るための方法ではない。欧米では,そこらへんの限界はよく理解されているように思われるが,我が国ではどうであろうか…。

昔の先生はよく言ったではないか。「自分たち同士で話をして分かった気にならないで,きちんと先生に質問しなさい」。正しい知識があるというのであれば,教師が教えなくてはならないのである。正しい知識などないというのであれば,教師も生徒の輪の中に入って,一緒に対等に議論しなければならない。ファシリテートなんてしている場合ではなくなるのである。
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アクティブラーニングと協働性と学習効果のレベル

2015-07-16 | 教育
アクティブラーニングのとくに,協働性の文脈で,意見を出し合って考えるということが推奨されている。本当に,他者と意見を出し合って考えることで考えが深まったり,理解が深まったり,課題解決に近づいたりするのだろうか? 経験的に考えて,それはケースバイケースだろうと思える。つまり,誰と話をするかによるのである。自分がなるほどと思えるような,自分にはない優れた発想をもっていて,かつ,自分の話にも理解を示してくれるような人と話をするならば,自分の学びは深まるだろう。教室でいえば,教師と話す方がよっぽどよいのである。協働で課題解決をしようとして,同年代の生活環境も類似した同じようなレベルの友人と話をしても,出てくる考えが発展的なものになる可能性は低いだろう。みんな同じような意見で,時々突飛なことを言う者もいるだろうが,それはまあまあとなだめられ,妥協的なそこそこの意見でまとめるということになるだろう。それならまだましで,関係ないおしゃべりで時間をつぶしてみたり,誰か一人の考えを,それいいじゃないということで全体の意見ということにしてみたりするだろう。考えが深まったり,理解が深まったり,優れた解決策を見いだすためには,一人でじっくりとその問題に時間をかけて取り組むか,もしくは,優れた教師との関わりが必要なのである。同質性の高いクラスメイトといくら協働的に学んだとしても,ほとんどおしゃべりの域を出ないのが現実である(そう言うと,それはファシリテートの仕方が悪いという反論が用意されているが,ファシリテートしなければまともに課題解決できないレベルの者にいったい何ができるというのであろうか?)。実は,このような学習が楽しいという感想を持たれるのは,おしゃべりレベルだからである。おしゃべりレベルで解決策を見いだした達成感だけは得られれば,楽しいと感じる者も多いだろう。自分の考えを根本から覆されるような,自分のいる位置からはるかに高いところに引っ張っていくような厳しい学びが楽しいはずがない。もし,そのような厳しい学びが楽しいという人は,マゾヒストである。

頭を使って考えた気がする,よく学んだような気がする,友達の話がおもしろかった,自分もうまくしゃべれて楽しかった,ちょっとこれからも勉強してみようかな,それが,アクティブラーニングの効果である。アクティブラーニングの効果は,講義で居眠りをしているよりは効果があるというレベルの話にすぎないのである。
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子供の主体性?

2015-07-12 | 教育
アクティブラーニングなどの文脈で,子供の主体性が強調されるようになってきた。主体的な学びという言い方もある。このブログでは何度も主張しているところであるが,学校には,子供の主体性など存在しない。学校は,子供を一定の制度的枠組みの中で,定められた学習内容を伝達するようにつくられた公的機関である。したがって,学校の主体は,大人であって,子供ではない。子供は将来の主体となるべき人間として育てられるが,主体となるのは,卒業後,大人になってからである。子供は,未熟で主体性のない存在であるから,教師が必要なのである。この当然の理路を曖昧化するのが,「子供の主体性」や「主体的な学び」という言葉である。私は,この言葉のもつ欺瞞性が大嫌いである。

本当に子供が主体的に判断するならば,即刻,学校などは廃止するであろう。学びたくなどない,ずっと遊んでいたいと思うのが子供の本音だろう。
大人は子供を学校に縛り付け,教えるべきことを強制的に教え込んでいるのである。そのことの自覚をもつべきである。主体性と大人が言うときには,子供に,大人の望む主体的な振る舞いを強制しているのである。子供は,子供として社会で生きる術をよく心得ているから,大人のこのような強制には,おおむね従うほうが有利であることは本能的に知っている。つまり,大人に許される範囲の疑似主体性を発揮するのである。だから,学校を廃止せよなどという本当に主体的な主張をする子供はあらわれない。大人の自己満足を満たすように子供は振る舞ってくれるのである。

学校を改革するとすれば,このような欺瞞を学校から排除することが最も重要なことである。教師は,子供の自由を奪い,強制的に大人の決めた方向に導く仕事であるという重圧から逃げないようにすることが大事なのである。子供の主体性などという言葉は,教師や教育学者がこの重圧から逃れるための逃げ口上に過ぎない。
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覚えることの大切さ

2015-07-12 | 教育
昔,大学生の頃,ある英語を含む試験で不合格になったことがある。

そのとき,私は指導教官に呼ばれて,その方はハーバード大学を優秀な成績で卒業された方であったが,次のような御指導をいただいた。

「英語を読むときには,分からない単語があったら,それを辞書で調べ,単語帳に書き留めて,それを繰り返し見て覚えるのですよ」

この言葉をいただいたとき,私は,顔から火が出るほど恥ずかしかった。まるで中学生が言われるような言葉だったからである。しかし,後になってよくよく考えてみると,結局,英語を読むためには,その方法を地道にやり続けるしかないのだなと気付かされた。その先生は,英語を自由自在に操れる方であったが,先生もそのようにして,英語を学ばれたのであろう。結局,覚えることをおろそかにしては,どんな力も身につかないのである。

覚えることを軽視し,「単なる知識や技能」の「詰め込み」などという粗雑な表現をする人たちは,本当には勉強したことがないのだろう。
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アクティブラーニングは学力を低下させる

2015-07-11 | 教育
アクティブラーニングがもてはやされているので,再度警告を発しておきたい。まずは,PISA型学力がそうであったように,アクティブラーニングも一時の流行に止まるであろうことを予言しておく。10年後にはだれもこの言葉を口にしないであろう。

さて,現場で通常の感覚をもった教師ならば,本当にすぐにわかることなのだが,アクティブラーニングでは知識の定着は保証できない。
知識定着には時間がかかるのである。もともと一斉授業の講義形式であっても,学生生徒の理解の度合いを測りながら話すものなので,分かりにくいだろうと思うところは繰り返してみたり,説明方法を変えてみたりと工夫をしながら話すものである。日本のようなカリキュラム構成でアクティブラーニングを行えば,知識の収集は学生の主体性にまかされるままになってしまうであろうから,本当に素質のある賢い子供しか知識を得ることは出来ない。どんな子にも学習に対して主体性があるなどとは,よっぽど主体性信仰に帰依していない限りは,考えにくいのである。さらに,協働性が発揮されてしまえば,できない子は,自分で何も学ばなくても,できる子が助けてくれるわけであるから,できない子はできないままでも何ら不都合はなくなってしまう。

それに,知識の裏付けのない主体性や協働性など,それこそ危険である。その証拠に,アクティブラーニングを推奨する文脈でよく引用されるラーニング・ピラミッド(学習定着率が講義は5%で,読書が10%,それからいろいろ続き,他人に教えると90%というもの)そのものが根拠の怪しいものであることはよく知られている。ラーニングピラミッドを肯定的に引用している文献は信用するなと言われているほどである。もともと,アクティブラーニングの学習効果などさして根拠のあるものではない。もともと講義をじっと聴けなくなった学生に,どう教えたらよいかと困ったあげく考え出されたものであることからして,それほど積極的に推進されるべきものでもないのである。とくに,小中学校のような基礎知識をしっかりと身に付けなければならない世代にまでアクティブラーニングをやらせたのでは,高慢で無知な子供を増やすばかりである。学力低下は必至であろう。

静かに落ち着いて話を聴き,じっくり一人で考えることではじめて,学ぶことができる。釈迦も達磨もひたすら座ったのである。アクティブラーニングでは悟りに至ることはできない。
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アクティブラーニング再考

2015-02-16 | 教育
 大学の質的転換とやらからはじまって,主体的な学びだのアクティブラーニングだのという言葉がもてはやされて、とくに高等教育を始め中等教育の場にもその言葉が持ち込まれている。

 アクティブというからには、パッシブなラーニングがあるわけで、それが、高等教育で言えば、従来の講義ということになるわけである。従来の講義はパッシブで学生の主体性が発揮されないから、双方向型の授業にしましょうという動きから始まって、授業そのものをプロジェクト型のような学生が主体となって学びを構築するようなタイプの授業をしましょうという動きになってきている。というか、半ば強引に国が音頭をとってそっちの方向へ進めようとしているようである。

 私は、学習をアクティブとパッシブに分けること自体にあまり意味がないのではないかと思っている。もし、講義を聞く学び方をパッシブと規定するのなら、授業をさぼってアルバイトに精を出している者の方がよっぽどアクティブということになる。つまり、その授業が自分にとって意味がないと判断し、主体的にさぼって、自分にとってより意味のある実社会での経験を積んでいるということである。それをアクティブと呼べば、昔はずいぶんアクティブな学生が多かったということになる。いまこのような施策をすすめている政治家や官僚の皆さんもおそらくはこの意味で十分にアクティブであったろうと思われる。翻って現在すすめられているアクティブラーニングは実にパッシブである。大学が用意したプロジェクトに参加するという行動そのものがすでにパッシブである。そこで展開されるであろういわゆるアクティブな学修における体験は常に例外なく疑似的である。学生であるという特権と免罪符を手にしたままで行う体験は真の体験とはほど遠いものである。学校化された体験は,主体的でなどあり得ないのである。大学がいい年をした学生(すでに成人である)の体験まで手伝ってやらなければならないとは、なんとパッシブな時代になったのであろうか。

 いますすめられているアクティブラーニングには重大な問題がある。力のない学生自身が,主体性というものを誤認する可能性があるのである。つまり、学生自身が、「主体的」な体験学習を行った結果,自分は社会参加ができる人間だ、社会に貢献できる人間だと錯覚し、その結果、社会に対する謙虚さや恐れを失い、傲慢になってしまう可能性があるのである。やがてこれらの学生は,大学という組織が後ろ盾になってくれている学生の体験など実社会では何の役にも立たない疑似的なものだったということを身を持って知ることになるだろう。

 本当に学生に大学で「アクティブ」な「主体性」を身につけさせたいのなら、大学は「パッシブ」な講義に徹し、単位取得を厳格化し,おいそれとは卒業できないようにすればよいだけのことである。そうすれば、「アクティブ」な学生は早めに大学に幻滅し、自分の力で大学を飛び出して主体性を身につけるであろう。そして、それでも大学で学びたいという真にアクティブでかつパッシブな学生だけが大学に通うようになるであろう。まあ,そんなことをすれば,大学としては学生が減ってしまうので,絶対にやらないだろうが…。
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