別に武道をしていなくても、普通に生活人であってもよい。
「道場は楽屋、生活が本番の舞台」、むしろ生活のほうがエライのだという逆転的着想。
稽古はあくまでもおけいこ、ということなのか。
道場での稽古は時間が来れば終わるが、生活は終わらない。
道場での稽古というものは、技を磨くという一事に集中することが許された特権的な時間と場であって、
本物のいくさは、いつ、どんなかたちで、どんな文脈で襲ってくるかわからないもの。
もともとの武術は戦技であって、
試合のある、この日のこの時間帯に、身心のピークが来るように準備する、というようなことは本来の武道ではありえない。
生活即稽古、稽古即生活、
日々繰り返されるルーティン ― 呼吸、起居、食事、歩行、着衣、会話、かつての侍はすべてのふるまいを稽古として行ったはずである。
常住坐臥(じょうじゅうざが)、日々の生活そのものが稽古であるような生き方を工夫しなければならない。
修行とはふつうの生活のなかにある、そういうものだと思えてきました。
詩人の在り方にも通じます。
~ 詩人とは必ずしも詩を書く人、というものではなくて、
音楽や演劇をやってる場合もあれば、絵を描いたり、家庭で料理を作ったり、野菜を作っていたりする場合もある。
別に何をやっているのでもかまわない。
(詩人という生きかた)
内田 樹先生の最新刊、修業論。
″噛めば噛むほど味の出るスルメのような本ですから、手元において、「あれってこれのことかな」と思ったら読み返して見て下さい″と後書きにあるが、その通りなのです。
ユニット化などの技を磨きながらの毎日、いくばくか修行のような趣きもあるし、生活の質というか手触りのようなものも変わってきたかもしれない。
(がんさんの女房 - 楽観を生む勝利のユニット)
(夜明けのスクワット~ 腰割りトレーニングの習慣 ~)
「無敵の主体の誕生」。
武道家の身体能力をもっとも確実に損なうのは、加齢と老化なのだが、
加齢や老化を「敵」と捉えていたのでは、生きていること自体を敵に回していることになる。
このような心の構えを、″無敵と隔たること、もっとも遠い態度"として、正す。
無傷で完璧な状態の私、あるべき理想的な私、を「標準的な私」と惜定し、
今ある私がそうでないことを、(体調が不良であったり、気分が暗鬱であったり、ガンを患っていたりね)
敵による、侵入や妨害などの否定的な干渉の結果だという語法で説明してしまうことを諌める。
風邪をひいたら、生まれてからずっと風邪をひいていたかのようにふるまい、
雷撃に打たれたら、生まれてからずっと雷撃に打たれ続けてきたかのようにふるまい、
子どもを亡くしたら、生まれてからずっと子供に死なれ続けてきたひとであるかのようにふるまう。
(私の場合だと、生まれてからずっと当たり前にガンでした、というようにふるまう。)
因果論的な思考が敵を作るのであって、敵を「存在してはならないもの」とは捉えないこと。
"因果関係のなかに身を置かない"、"継起的なプロセスに即して出来事を見ない" というのは、日常感覚から離れた見立てなので、殊更に修業化する事なくしては、そのような見立てができるようにはならないと思う。
そして、それはつまり、「時間意識を書き換える」ことにつながるのだという。
時間意識の書き換え、というのは、心的現実性によるリアリティの書き換えと共に、ユニークな考え方だと思います。(心的現実性こそが重要である)
たとえば、老年になったら、晩年=終わりの方なんて考えるのではなく、時間のモノサシの幅を大きくとって、豊かな時間がたっぷりあるかのように考えてみる。
あるいは直線的に流れる絶対時間ではなく、時間サイクルの廻るイメージで過ごす。
言葉を持った、多分に観念的な人間にとっては、ワーディングや意識付けのチカラは侮れないと思うのです。
そうか、ひとは主体的に時空を書き換えることが出来るのか。これがきっと、無敵の極意なのだということが、これを書きながら分かってきました。
意識的に書き換える、というのとはちょっと違う。修業の結果として、思いもよらなかったけれども、自分で主体的に書き換えることが出来てしまった。
「トレーニング」なら、同じトラックを走り、努力の成果がタイムや距離として数値的に考量可能なかたちで示される。
でも「修行」はそういうものではありません。
走っているうちに自分だけの特別なトラックが目の前に現れてくる。また新しいトラックに切り替える。
そのつどのトラックは、それぞれ長さも感触も違う。そもそも「どこに向かう」かが違う。
はっと気がつくと、誰もいない場所を一人で走っている。もう同一のトラックを並走している競争相手はどこにもいない。
修行とはそういうものです。
エクササイズの開始時点と終了時点で、計測する度量衡が違ってしまっているというダイナミズムは、
「鍛えた」とか「強化した」とか「向上した」という言い方では測れません。
それは「昨日の私」が目指していた場所とは別のところに「今日の私」はたどり着いてしまったということであって、
喩えて言えば、「アメリカ目指して船を漕いでいたら、竜宮城に着いてしまった」ということです。
ウチダ本には、日曜の晩に太刀魚の塩焼きあたりでちびちび飲るのに似たような愉悦があります。
カワハギの肝付のちびちびさ、とその滋味にも共通するものを感じます。
(年明け、1月に食したカワハギが夏でも美味しかった。一年中が旬なのかな、不思議です。
そして、宵にしてこの明るさ~、の右の写真は、先日、7月終わりの頃。)
「人間って意外に強いもんやでー、そんなかんたんに死なへんでー」 、か。
( ↓ ) 生まれてからずっと死んでるかのようにふるまい、生まれてからずっと悲しくて、生まれてからずっと生まれていないかのようで、、
ちょっと違うが、凡人にはなかなか思いつかないフレーズだ。
"因果関係のなかに身を置かない"
うんうんうんうんと何度も首を縦にふっとります。
禅語でいうところの「不昧因果」、心身が迷い、弱っているときにこそそばに置いておきたいことばですね。
謝々。
食べ盛りの頃(つい最近まででないのか。_φ(・_・)には、この盛り具合ではなかなか手がでなかったと思いますが、うまいですよ。
因果のパズルに自分を押し込めてはいけませんね、なっとく。