日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

この「日々是好日」にコメントなどを寄せてくださった方々へ

2011-02-11 16:14:00 | Weblog
今日ちょっとしたことがあって、このブログの編集画面で「トラックバック管理」をクリックしたところ、トラックバックの承認待ちが並んでいるのに気がついた。そういえばここしばらくトラックバックやコメント投稿を扱った覚えがない。ひょっとしてと思い「コメント管理」をクリックしてみたところ、ここにも保留状態のコメントがかなり多く届いていた。調べてみると、iPhone 3GS(iOS 4)のWi-Fiへの接続性が抜群に向上に寄せられた昨年7月8日のコメントを「公開」させていただいたのを最後に、コメント処理が滞っていることが分かった。なぜ見落としたのだろうと考えているうちに、一つ思い当たることがあった。

読者からのコメントやトラックバックの承認が寄せられると、従来は編集画面に「○件の新着メールを受信しました」のメッセージが現れるので、メールボックスを開くと、「あなたのブログにコメントが届きました! 」と通知が入っていたのである。ところがいつの間にか「新着メールはありません」のメッセージが続く日が多くなり、時々届くのはジャンクメールであったので、gooメールのフィルタリング機能がよくなったのだろうと思っていた。もう半年以上もコメントに接していなかったのは、そのメール連絡がなかったからである。

「あなたのブログにコメントが届きました! 」メールが届かなくなったのは、もしかしてgoo事務局からのメールを私が誤って「受信拒否」にしてしまったのかも知れない。そういえばこのメールの「送信者」であった「gooブログ」の記録が、昨年7月28日以降メールボックスには見当たらない。この問題の詮索はこれからのこととして、せっかくコメントを寄せて下さった方には、完全に無視するような結果になり申し訳なく思っている。時期はずれになってしまったが、遅まきながら以前に遡って順次公開させていただきたいと思う。

ただここで私の勝手を申し述べさせていただくと、コメントの公開・非公開は、まったく私の判断で決めていることをお許し頂きたいのである。非公開にしたコメントを寄せられた方でも、直接お話しすればお互いの考えが理解し合えるように思うが、ブログ上でのやり取りは、私には負担が重すぎるので、遠慮させていただいている。ご了解をお願い申し上げる次第である。

世間の片隅で好きなときにぼそぼそとつぶやき、勝手に気炎をあげているに過ぎないこの「なまけ者サイト」に、次ぎのアクセス解析が示すように、平均して毎日六百人を超える方が訪れて下さっているとは驚きである。


そしてここにもあるように、「日々是好日」を検索キーワードとしてのアクセスが多いものだから、「日々是好日」を先ほどGoogle検索すると、なんと、158万件の検索結果の第二位に私のブログがランクされていた。


これまでも折に触れてGoogleの検索結果を目にしているが、この第一位に出ている臨済宗黄檗禅公式サイトの「日々是好日」と、ここでは第三位の弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」が、時には入れ替わることがあっても不動の一位・二位であったのに、たとえ束の間とはいえ私のサイトが二位に顔を出したのだから驚きとしか言いようがない。別に八百長を仕掛けた覚えもないので、素直に嬉しく受け取ることとする。

どうかこれからも気楽にお付き合い下さらんことを!



八百長相撲 白鵬の言やよし

2011-02-10 23:06:01 | Weblog
昨日テレビで横綱白鵬の記者会見の模様を観た。八百長に関与したことや見聞きしたことがあるかと聞かれて、「それはないということしか言えないじゃないですか」と答えていた。日本語として実に正しい。その上、たったこれだけの文字数に、白鵬がモンゴルから日本にやって来て相撲界に身を投じ、今日の大横綱にまで登り詰めるまでの人生のすべてが凝縮されていることに、私は深い感銘を受けた。どれだけ深い含蓄があるのかは、他の人の言葉と比べてみれば分かる。

昨日のお昼の「ワイドスクランブル」に相撲親方の元女将が出ていて、八百長のことは一切知らないというようなことを言っていた。これが本当のことだったとすると、この方は相撲親方の女将としては失格である。八百長を当然悪いことだと考えているのだろうから、そういう悪に子どものような弟子が染まらないように、日ごろから身の回りには目を向けて、折りあるごとに厳しい躾をしなくてはいけない立場にあるはずである。親方はさておいても、女将が「八百長は悪いことだから絶対にしてはならない」と弟子たちに教え込まないことには、八百長が悪ということすら弟子たちは覚りようがないではないか。

相撲親方の元女将がそれほど脳天気であったとは思えない。そんなことで横綱二人を生んだ相撲部屋を切り回していけるはずがない。この元女将も「私としてはないとしか言いようがありません」と言えば、さすが、紫式部か清少納言か、はたまた和泉式部の再来か、と褒め称えることも出来たのに、出てきたのは「知りません」という実に浅薄な一言であったのである。これでもって白鵬の才気縦横ぶりがうかがい知れよう。これでは日本人、形無しだな、と思っていたところに、追い打ちをかけるように次の読売新聞の記事が目に入ってきた。

「認めた力士がいるのだから…」白鵬が発言補足

 大相撲の八百長問題について、横綱白鵬(宮城野部屋)が「『ない』ということしか言えない」と明確に否定をしなかったことについて、日本相撲協会の放駒理事長(元大関魁傑)は10日、「認めた力士がいるのだから、そうとしか言えないじゃないか、という趣旨だった」と補足した。

 特別調査委員会(座長=伊藤滋・早大特命教授)から報告を受けたもの。

 白鵬は、9日の朝稽古の後、この問題について初めて口を開き、自身が八百長にかかわったり、見聞きしたことはないかと聞かれた際、あいまいに答えたために、波紋を呼んでいた。同日夜、全関取を対象とした聞き取り調査で、調査委が横綱から話を聞いていたため、確認が取れた。同委員会からは「(モンゴル人であるため)言葉のハンデがある」との説明もあったという
(2011年2月10日20時23分 読売新聞)

元女将と同じく、過去に「八百長はなかった」と発言している放駒理事長の茶々はともかく、「(モンゴル人であるため)言葉のハンデがある」発言に至っては臍で茶を沸かすようなものだ。この委員会のメンバーこそ日本語の言い回しを三顧の礼でもって白鵬に教えて貰うべきなのである。

「相撲に八百長はつきもの」という日本人の常識を、立場上口にすることが出来なかった人も、八百長メールの発覚でその態度を貫くことは最早出来なくなってしまった。その反動かどうか、今度は八百長相撲の実態を徹底的に明らかにすると息巻いている。アホなことである。かりに解明の努力を推し進めていったとしても、行き着く先が誰かの書いた筋書き止まりであることは、常識のある人間が少し考えればすぐに分かることである。こういう無駄な努力はすべきではない。ではどうすればよいのか。「相撲に八百長はつきもの」を認めた上で、相撲協会を新しい興行主催団体に改変し、伝統興行の復興すなわち相撲ルネサンスを断行せばよいのである。その一つの選択肢を私は八百長相撲を興行に取り入れたらよいのではで示したつもりである。

トヨタ車の急加速は電子制御システムの欠陥にあらず―称賛すべき米国政府の姿勢

2011-02-09 15:44:43 | Weblog
すでに日本のメディアでも報道されているが、米運輸省がトヨタ車が急加速して制御不能になり事故を起こした問題で、電子制御系に欠陥がなかったことを最終報告書で公表した。The New York Timesは次のように伝える。

Electronic Flaws Did Not Cause Toyota Problems, U.S. Says

After dissecting Toyota’s engine control software and bathing its microchips in every type of radiation engineers could think of, federal investigators found no evidence that the company’s cars are susceptible to sudden acceleration from electronic failures, the government said Tuesday. (中略)

 “The jury is back,” said Ray LaHood, the transportation secretary. “The verdict is in. There is no electronic-based cause for unintended high-speed acceleration in Toyotas. Period.”


ではなぜ「意図しない急加速」が生じたかというと、すでにトヨタ車「意図していない急加速」問題の顛末は? WSJの記事とNYTの社説で紹介したように、ブレーキを踏んだつもりが実はアクセルを誤って踏んだ運転ミスであったのである。

この報告を8日に発表したラフード米運輸長官は、この急加速問題が生じたときには、その後撤回したものの、「リコール対象のトヨタ車の持ち主は、もし何か問題があれば直ちに運転することを止めて車をディーラーに持ち込むべし」と議会証言した人物である。その同じ人が今回はテレビで、娘に車を買うことを相談されたのでトヨタ車は安全だからそれを買うように勧めた、というまでに態度が変わったのである。そのように言えた裏にはとにかく徹底的な調査があったからで、いろいろと圧力があったのではと想像するが、公正さを貫いた調査機関がまず素晴らしい。

In a statement, the highway agency said that NASA engineers had evaluated the electronic circuitry in Toyota vehicles and analyzed more than 280,000 lines of software code for any potential flaws that could initiate unintended acceleration.


さらに最初から可能性が指摘されていたが、フロアマットが(移動して?)アクセルを押さえつけた事例は一件しか見つかっておらず、また踏み込んだアクセルが元に戻らなくなったとか、戻り方が遅くなったという事例が一件もなかったというのである。急加速のすべての原因は「運転ミス」とするきわめて明快な結論であった。それにもまして、ラフード長官が述べていることであるが、この問題が最初に議会で取り上げられたときに一人たりとも「運転ミス」を口にする人がいなかった状況から出発して、「運転ミス」を全面的に認めるに至った問題処理の経緯に、日本より遙かに成熟した米国社会の底力を感じた。

トヨタは少なくとも米国では今年末までに「ブレーキ・オーバーライド・システム」を全車種の標準装備とするようであるが、トヨタの業績回復に結びつくことになるのであろうか。


過去ログ
トヨタ車「意図していない急加速」問題の顛末は? WSJの記事とNYTの社説
二件の暴走事件 過ちをするのが人間?
Corvetteを運転できる暴走プリウスのドライバーSikes氏が
サンディエゴで暴走プリウスの怪
Smith夫妻の2007Lexus 350 ESは今どこに?
トヨタ 米公聴会で浮かび上がった問題点 日本では大丈夫?
「ブレーキ優先装置」または「ブレーキ・オーバーライド・システム」とは何のこと?



「キムチベーコンの卵丼」の美味かったこと

2011-02-08 20:37:53 | Weblog
日経夕刊に小泉武夫さんの「食あれば楽あり」という欄がある。今日の記事はベーコンの美味しい食べ方で、「ベーコンのお茶漬け」、「ベーコンとキャベツのスープ」、それに「キムチベーコンの卵丼」が紹介されていた。これがその卵丼の作り方、味わい方である。


ここまで美味しいそうに書かれたら、読むだけで唾が湧いてくる。数日前大阪の鶴橋で買ってきたポッサムキムチが幸い一回分だけ残っていることでもあるしベーコンもあるので、さっそく作ることにした。このポッサムキムチは牡蠣、貝柱、イカに魚肉など海鮮類の入っているのが特徴で、さらに各種の野菜に果実に木の実など素材の種類がとても多く、それだけに実にまろやかな旨味を醸し出している。生の海鮮類を別に取り出して、残りを適当な大きさに刻んだ。またベーコンはちょうどブロックがあったので5ミリ幅の薄切りにし、さらに角切りにした。調味料は一切使わず、キムチの漬け汁に湯を少し足してだし汁代わりとした。最後は卵とじの上に海鮮類を戻して出来上がり、5分もかからなかった。


食べ出すと驚いたことに小泉さんの書いた通りにことが進んだ。違うのは一口食べることに「美味い」という言葉が飛び出ることである。10回くらい声に出したか、「もう分かった」と妻が言う。実はキムチ、彼女の好みではないので、不断から遠慮しながら買ってくるのである。食べ終わってここぞとばかり「ああ美味かった」で締めくくった。

名古屋市長に河村たかし氏、名古屋市議会は解散 ついでに地方議会廃止の先魁を

2011-02-06 23:03:34 | 社会・政治
今日行われた愛知県知事選、河村たかし前市長の辞職に伴う出直し名古屋市長選、さらに同市議会解散の賛否を問う住民投票で、河村たかし氏の完勝が確定した。

名古屋トリプル投票 河村・大村氏が当選、市議会は解散

 名古屋市長選、愛知県知事選、名古屋市議会の解散の是非を問う住民投票が6日、投開票された。市長選では地域政党「減税日本」代表の河村たかし氏(62)が再選を果たし、知事選では同党推薦の大村秀章氏(50)が初当選。河村氏が仕掛けて実現した住民投票は賛成多数で、政令指定市で初めてリコールが成立し、即日解散された。4月の統一地方選を前に、支援した候補が惨敗した民主、自民の2大政党には大きな打撃となった。
(asahi.com 2011年2月6日22時8分)

これに続く次の記事が、トリプル投票が行われるようになった経緯を簡単にまとめている。

 河村氏は、公約の市民税の10%恒久減税が民主、自民が多数を占める市議会に否決されたため、任期を2年以上残して1月に辞職し、出直し市長選に臨んだ。さらに市議報酬の半減をめぐって対立を深めた河村氏はリコール運動を主導し、住民投票実施にこぎつけた。

総理大臣と違い地方自治体の首長は住民の直接投票で選ばれる。ところがこの首長が公約を実行しようとしても、議会が反対にまわると公約を実現出来なくなる。地方議員も住民の直接投票で選ばれるのであるから、首長選挙で示された民意が議員選挙にも反映されてしかるべきだと思いたいが、現実には議会で首長への反対勢力が大半を占め、いわゆる「ねじれ現象」を生むことが珍しくない。選挙の時期がずれることも「ねじれ現象」の一因であろうが、それよりも住民が異なる判断基準を首長選挙と議員選挙に適用するせいではないかと思っている。

「ねじれ現象」の生じる原因はさておいても、現実に「ねじれ現象」が生じたことが今回のトリプル投票を引き起こしたことは確かなのであって、考えてみれば無駄なことである。今回は河村たかし氏という異色のキャラクターが、市議報酬の半減という施策を打ち出すことによって、既得権益擁護に走る市会議員の姿を住民に見せつけたのがよかった。住民が代表として選んだつもりの議員が、私利私欲の虜になってしまっていたのである。その是非を住民に問うたことが今回の結果をもたらしたと言えよう。

私はかって面白い宮崎県知事選挙の結果で地方自治体議会不要論を次のように唱えたことがある。

私は地方自治体の今のような議会は不要であると思っている。もし住民に何か積極的な意向があれば、県庁とか市役所などに直接に申し入れをすればよい。とりまとめ役は必ず現れる。それもボランティアとして。私的な口利きと自分の選挙運動を除くと、現行の議員が生き生きとして働くような仕事が一体どこにあるのだろう。

県行政の是非をチェックする機能は、これは人間社会である以上必要である。議会の機能をチェックに一元化すればよい。議員は県民有権者のなかから、たとえば裁判員制度のように無作為に選んでもいいが、ボランティアのなかから選挙民が選んでもよい。ただし人数は現在の議員数の十分の一以下とする。いずれにせよ議員は無報酬で、交通費のような必要経費のみを実費支給すればよい。議会の開会は夜とか週末にする。

これは4年前のことであるので細かいところは修正の余地がある。第一にチェック機関を「議会」と呼ぶと誤解があるだろうから名称自体を変えた方がよいであろう。その他多々あろうが基本姿勢は今も変わらない。

もし3月13日に予定されている名古屋市議選で河村氏の「減税日本」が過半数を制すれば「ねじれ現象」は確かに解消するが、逆にそのような翼賛議会は存在する必要がない。まさに税金の無駄遣いである。今回の結果は地方議会無用論を大きく力づけるものであった。だから次ぎに河村氏に期待することは名古屋市議会の廃止で、それこそ全国自治体を席捲する先魁となっていただきたいものである。

八百長相撲を興行に取り入れたらよいのでは

2011-02-05 14:26:39 | Weblog
今回の八百長相撲について影響力のありそうな人の発言で引っかかることがある。まずは次の発言である。

NHK会長「これまでとは次元が違う」 相撲八百長問題

 「土俵の中で起きた重大な問題だ。これまでとは次元が違う」。3日の記者会見で、NHKの松本正之新会長は、大相撲の八百長問題に厳しい姿勢を示し、11日のNHK福祉大相撲の中止を発表した。JR東海副会長から招かれ、就任10日目。初めての定例会見だった。
(asahi.com 2011年2月3日23時5分)
そして同じくasahi.comから。

土俵の外は、厳しい風が吹いている。

 協会を監督する文科省。高木義明大臣は4日の記者会見で「最優先すべきなのは全容解明。春場所の開催は調査状況をふまえたうえで判断すべきだ」と発言した。力士らへの調査が不十分なら、開催中止も検討するべきだとの考えを示唆した。

 「場所を開催するかしないかの権限は文科省にない」というのが、文科省の基本姿勢だ。公益法人である相撲協会の運営に問題があれば、監督官庁の文科省には、行政指導をする権限がある。ただ、スポーツの試合を中止させるといった指導は前例がない。

 それでも今回、文科省で厳しい見方が出ているのは、八百長が野球賭博と違い、「相撲自身にかかわる問題」(鈴木寛副大臣)だからだ。
(2011年2月5日5時33分)

これまでとは次元が違うとか「相撲自身にかかわる問題」とはかなりトーンが高いが、要は大相撲ではあってはならない八百長が行われた、と憤っているのであろう。でもこの認識は「相撲に八百長はつきもの」という日本人の常識とは大きくかけ離れていると言わざるを得ない。そういう発言をされる前に、せめて新田一郎著「相撲の歴史」(講談社学術文庫)に目を通して、大相撲の成り立ちについての理解を深められるべきであったと思う。

ここに名前の出た鈴木寛副大臣とは異なり、昔の政府高官にはなかなかさばけた人がいたようである。「相撲の歴史」に次のような記述がある。

 欧米流の近代国家建設を課題とした明治新政府の旗ふりのもとで、欧米文化の急速な流入がもたらした「脱亜入欧」の社会気運は、相撲界を激しくゆるがした。旧来のさまざまな風俗慣習が、文明開化の妨げとなる前近代的な旧弊として指弾され、社会から駆逐されてゆくという趨勢のなかで、相撲界は大きな危機を迎えたのである。
 たとえば断髪令・廃刀令に代表される旧俗の改廃は、そうした日本的な風俗に密着した様式性を重要な要素とする「故実」に支えられた相撲興行にとっては、存亡に拘わる危機であったといってもよかろう。幸いにも新政府部内に相撲に対する理解者が比較的多かったため、断髪令などは相撲界への適用をまぬかれたが、この時代、相撲への風当たりには相当に厳しいものがあった。
(277-278ページ)

正しくは「大相撲に八百長は文化であるから・・・」と鈴木副大臣は言うべきであったのである。現にどの国語辞書にも「八百長」の説明がちゃんと出ているのがその証拠である。しかも「八百長」の語自体が相撲界から起こっているのである。

「八百長」の語は、明治初年、相撲会所の実力者伊勢ノ海のもとへ出入りしていた八百屋の長兵衛(通称八百長)なる者が、囲碁の達者でありながら伊勢ノ海の機嫌をとるためにわざと負けていたことに由来するという。
(354ページ)

勝負そのものに対する見方が時代とともに変わってきたことも「相撲の歴史」に述べられている。

 相撲協会が公式の制度として個人優勝者を表彰するのは、大正15(1926)年にときの皇太子(後の昭和天皇)の台覧相撲の際の下賜金をもって東宮杯(現在の天皇杯)を作製し、これを幕内優勝者に授与することとして以来である。
 個人優勝と団体優勝との差異はあれ、こうした優勝制度が制定されたことは、力士たちの、またそれぞれの贔屓客の、勝敗に対する意識に、大きな変化をもたらした。優勝を争うという明確な目標が設定されたことによって、従来とは段違いの「勝敗へのこだわり」が生まれ、いきおい土俵上の取り組みも、勝敗を争う厳しさを増してゆく。(中略)

 取り直し・不戦勝といった制度も、個人優勝制度の制定とそれに伴う競技ルールの変更が、大相撲の性格を大きく変容させたのであった。そこにはあるいは、近代になって西洋から導入された「スポーツ」観念の影響も、あったかもしれない。
(289-290ページ)

近代になって西洋から導入された「スポーツ」観念の影響のおかげで、松本NHK会長や鈴木副大臣の発言を不思議と思わない国民が多いのかもしれないが、こういう人たちも大相撲の成り立ちを理解すると見方が変わってくるのではないかと思う。

軍人が幅をきかせていた戦前、相撲協会の会長・理事長に軍人を戴く習いがあり、戦時下のナショナリズムの高揚が追い風となって相撲人気が高まった。「国策」の一環として演出された面もあったようである。そういえば戦争中、私が通っていた朝鮮の京城公立三坂国民学校には立派な土俵があって、そこに大関名寄岩関一行を迎えたことがある。そしてその3、4年前になるが、双葉山が69連勝への記録を伸ばしているときの映像に、「国民精神総動員」の大きな垂れ幕を見ることが出来る。この双葉山を「相撲の歴史」は次のように的確に評している。

 双葉山が偉大な強豪力士であったことは疑いない。だた、双葉山の偉大さがその精神性のゆえをもって語られ、それを尺度として他の力士をも評価しようという傾向が、いまなお跡を絶たないことは、相撲にとって、また双葉山自身にとっても、むしろ不幸なことであると思う。
(298ページ)

八百長排除もその精神性重視の延長にあることは疑いない。しかし大相撲の本質はそんなものではない。

 相撲は、ときに「武道」という装飾をまといながらも、非常に早い時期から、実践的な闘技でも、信仰心を伴う孤独な修業の道でもなく、観客の存在を前提とした完勝に耐える技芸として成立し、洗練されてきたものである。中世には相撲節(すまいのせち)に由緒を求めた奉納技芸として、江戸幕府のもとでは故実に荘厳された勧進興行として、また近代には「日本的」なるもとを象徴する大衆娯楽として、相撲はそのときどきの社会情勢によって人々の支持を求めてさまざまに装飾を変えてきた。そうした、「興行としての相撲の歴史」を一貫するものは、「相撲道」などではない。あえて求めるならば、「相撲」の原義としての「格闘」であり、格闘を競技化し様式化した、娯楽としての相撲の姿であるに違いない。
(298-299ページ)

また財団法人としての相撲協会のある種の特質が次のように語られている。

 相撲協会は文部省(原文のまま)の管轄下にある財団法人である。相撲の指導普及を目的として認可された公益法人なのであって、本場所を興行し収益をあげることは、その目的達成のための手段として認められ、その目的の公益性を理由に、税制上その他さまざまな点で、営利私企業と異なる利便を与えられているのである。ところが一方で相撲興行は、そもそも相撲社会に生きる多くの人々の生活維持の手段なのであり、営利と無関係のものではありえない。財団法人の形が採られたのは、戦前戦中の「相撲道」が「武士道ノ精神」を体現した「国技」として、天皇の庇護、国家の保護のもとに維持されるべき、特殊な位置づけを与えられたことの証なのであった
(335-336ページ)

建前としての「相撲の指導普及」を国が必要としなくなった昨今、国が相撲協会を公益法人として認定するには国民的合意が得られるとは考えにくいし、また相撲協会も既得権利にしがみつくあまり、営利事業との非整合性という矛盾を何時までも抱え込むのは賢明とは言えない。

大麻とか野球賭博とか八百長など、最近の一連の不祥事の内容はそれぞれ異なるが、その結果として相撲協会の公益法人性が問われるようになった。ちょうど良い機会である。「国技」という呪縛から自らを解放し、政府の監督から離れ、ファンに親しまれる娯楽として大相撲を国民の間に定着させていけばよいではないか。そこで呼び物の一つとして八百長を興行の目玉とすることを提案したい。

毎日何組か八百長相撲をさせるのである。指示を受けた力士は芸の限り力の限りを尽くして芸術の域まで高めた八百長を行う。一方、観客はどれが八百長試合かを見破るのである。勝負の終わった瞬間に携帯メールで投票する。投票すれば課金されるし、的中すれば配当金を受け取る。一方、八百長を見破られなかった力士はその「芸術点」によるが報奨金を受け取る。どの程度の割合で八百長を組むのか、また横綱は別格で対象にならないとか、こまごましたゲーム作りや技術的なことは専門家が考えていけばよいのであって、要は八百長も興行の対象にしてしまうのである。参加者は「国技館」に行く必要はない。何時どこからでも携帯メールで投票するのである。これで大相撲の復活・隆盛は間違いなしと思うがいかがであろうか。もしこの案が日の目を見るようなことにでもなれば、この提案者へのご挨拶をどうかお忘れなきように。

おまけ 「双葉山の69連勝




八百長相撲を文科省に垂れこんだ警察当局の正義とは  追記あり

2011-02-03 23:38:37 | 放言
相撲に八百長がつきものという思い込みは、昔から多くの日本人にあるのではなかろうか。少なくとも私はそうである。五分の星で千秋楽を迎えた力士が勝ち越すと、それも角番大関だととくに、何かやり取りがあったのではと勝手に勘ぐってしまうのである。それも大相撲の楽しみ方の一つで、力士仲間の互助精神と受け取ればそれだけのことなのである。八百長をより芸術的にやってくれれば娯楽としては上々なのである。私は悪役アメリカ人プロレスラーを徹底的にやっつけた力道山にしびれてしまったプロレス世代でもあるので、八百長で盛り上がるのを単純に否定する気にはならないのである。

そうかと言ってすべての力士が八百長に参加しているとは私は思わない。物事には100%確かと言うことはあり得ないから、八百長をする力士がいる反面、絶対に八百長はしないだろうな、いや、してほしくないと思う力士も大勢いるのである。白鵬はもちろんその後者である。八百長があってこそこれまで続いてきた大相撲であるから、われわれが長年観戦した大相撲で八百長が皆無という場所は皆無であったと言ってよかろう。そういう大相撲を楽しむ人は楽しんで来たのである。極論かも知れないが大相撲に八百長はすでに文化として定着していると考える方が素直であろう。なぜそれを素直に認めないのだろう。

大相撲についてはこれまでも私なりの考えを次のブログで述べてきたが、私は大相撲が日本独特の格闘技であるとは思うものの、本質は興行であってその意味ではプロレスととくに変わるものでもなし、娯楽の一種であると思っている。もともと大相撲を「国技」と言うのはいろんな思惑がらみの僭称にすぎず、その経緯を二番目のブログで紹介した。その目で見ると「国技」と言うのは呪文なのである。そう思ってみると今回の警察当局のやりかたが少々腑に落ちない。

日本相撲協会を「相撲特区」にすべし
相撲は国技にあらず?
朝青龍問題 日本相撲協会は『皇民化教育』を廃すべし

この問題が浮かび上がった経緯をasahi.comは次のように伝える。

 大相撲の野球賭博事件の捜査で警視庁が力士らの携帯電話のメールを調べる中で、相撲の取組で八百長が行われていたことをうかがわせる内容のメールが見つかっていたことがわかった。昨年の3月場所と5月場所の取組で八百長が行われたとみられる内容で、勝ち星を数十万円で売買していたととれるメールも含まれているという。

 警察当局は、日本相撲協会の監督官庁の文部科学省に連絡。文科省は2日、協会に対し外部の有識者でつくる協会内の委員会で調査し、結果を報告するよう求めた。協会は同日午後、東京・両国の国技館で緊急理事会を開き、対応の協議を始めた。(中略)

 八百長自体は犯罪に当たらず、刑事事件として立件される可能性は低いとみられる。
(2011年2月2日15時0分)

消したはずの携帯電話メールが復元されて、これまで裁判でも無いことになっていた八百長相撲の実態が明らかになったこと自体は、そこまで解析技術が進んでいるのかという意味では面白い。しかし具体的な証拠が挙がらないからこそ皆があると思い込んで、それなりに楽しんでいた八百長にこんな証拠を突きつけられるのは、知りたくないことを無理に知らされるようなものである。裁判では八百長が無いことになったのだからそのままにしておけばよいものを、私に言わせると今回の警察当局のやったことは、サンタクロースの正体がお父さんお母さんであると無理に子どもに吹き込んだようなものである。

報道では八百長自体は犯罪にあたらずとのことである。犯罪行為でないのに職務上知り得た情報を警察当局は一体どのような判断に基づいて文科省に通報したのだろう。警察庁の安藤隆春長官は3日の記者会見で、八百長疑惑を文部科学省に情報提供したことについて「公益性が高い事項と判断した」と述べている。しかし世の中には知らなくて良いことが沢山あると信じている私のような人間には、まったく要らざるお節介というものである。他にもやり方があっただろうに、直接文科省へとはどうもやりかたが薄汚い。

これからしばらくヒステリックな人々の動きが見られそうである。人間観察を楽しむこととしよう。


追記(2月4日)

《五分の星で千秋楽を迎えた力士が勝ち越すと、それも角番大関だととくに、何かやり取りがあったのではと勝手に勘ぐってしまうのである》と述べたことに関連して、次のような記事が現れた。

7勝7敗なら千秋楽の勝率75% 八百長、統計で証明?

 角界を揺るがす八百長疑惑。日本相撲協会の放駒理事長は2日の会見で「過去には一切なかった」と述べたが、11年間の星取表を調べ上げ、八百長の存在を統計的に示した2002年の学術論文が改めて注目を集めている。

 米シカゴ大のスティーブン・レビット教授(経済学)らは1989年から2000年までの十両以上の取組3万2千回以上を調べた。7勝7敗で迎えた力士の千秋楽での勝率は75%にもなった。

 勝ち越しをかけた一番で勝率が上がるのは八百長ではなく、力士が必死になるからという説明もあり得るが、同じ相手と次の場所以降で対戦したときの勝率は4割程度に下がっていた。

 教授らは、わざと負けることで借りを返したと分析。ただ、統計的には返し切れたとは言えず、残る分は金銭で埋めたのでは、とした。 (中略)

 今回、八百長の存在が明らかになったことについて、教授は2日、米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)に「驚いた、とは言えない」とコメントした。
(asahi.com 2011年2月4日14時6分)



野口雨情作詞・藤井清水作曲「河原柳」をスコアメーカーFX5 Proで

2011-02-02 18:44:19 | My Song
スコアメーカーのことは以前に楽譜作成ソフト「Finale2010」に熱中で書いたことがある。要するに楽譜をスキャナーで読み込んで、それをPCの音源で演奏可能な楽譜に変換してくれるソフトなのである。昨年9月頃にバージョンアップの案内が来ていたが「Finale2010」もあることだし、とバージョンアップを決めかねていた。それが1月31日の申し込み締め切り直前になって、半ば衝動的に12000円を送金してしまったのである。音符をいちいち手で入力する手間が省けるのが何よりも便利で、その上今回は繰り返して演奏する際に、演奏回数ごとに、指定した音符や記号、発想標語などの演奏条件の設定が出来るというのである。私はピアノ演奏を歌の伴奏に使うのが主な目的なので、これまで1番と2番で強弱やフェルマータの有無の違いがあれば、1番と2番の楽譜をつなぎ合わせて、異なる指定をしていた。予想通りなら手間が省けて有難い。それに新にVSTi音源に対応するようになったので、伴奏にいろんな楽器を組み合わせることも楽しめそうなのである。

新しいパッケージが昨日届いたのでさっそくインストールして、今勉強している「河原柳」を取り込むことにした。複雑な楽譜であるが認識の精度が上がっているようで、手直しの手間が少なくなっていることを実感した。出来上がりの1ページ目が次の通りである。


この「河原柳」という曲はVictorの出している「我らのテナー 藤原義江 全集」で聴くことができるが、野口雨情の詩に藤井清水(きよみ、1989-1944)が作曲したもので、なんだか不思議な風情がある。河原柳とは猫柳の異名で、早春に川辺で穂の出る姿を歌っているのであろうか。今日は久しぶりにすこし暖かさが戻り春の気配を感じたので、嬉しさついでについ歌ってしまった。





今さら小沢問題でもあるまいが

2011-02-01 23:49:28 | 社会・政治
小沢一郎民主党元代表が政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で東京地裁に強制起訴された。これに対して朝日朝刊に元中学校校長藤原和博さんの「小沢さんなんて関心外」という次のような記事が出た。

 世の中では、小沢さんの問題なんてもう関心外でしょう。小沢さんがやった仕事って何ですか。票とカネで軍団をまとめた。チルドレンを大量当選させた政権交代の立役者。そんな功績は民主党への期待とともにとっくにかすんでいる。今や代議制そのものが信用されず、人々の声を直接聞いて動く首長らに支持が集まる時代です。利益代表が集まって多数派工作で物事を動かす「古いルール」の権化だった人が起訴されても、関心が薄いのは当然です。

この意見にはまったく賛成。私も1年前は政局を面白くしたか小沢さん?で《政治家のふりをした利殖家にはそろそろ政界からお引き取りいただこう》と意見を述べたことがあるが、もはやそこまでコミットする気さえ起こらない。小沢さんは「無罪判決を獲得する」と意気込んでいるようであるが、無罪であろうとなかろうと、国民の多くは彼にそっぽ向いている。その意を受けて、政治家がどのように動くのか、国民はただそれのみを注目している。