日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

筑波大学「長論文」から逃げ出した共著者に問われる研究者倫理

2010-07-07 16:29:15 | 学問・教育・研究
筑波大学「豆まきデータ」騒ぎ 問われるのは科学者としての姿勢を書いていて、問題の「長論文」の顛末が少々気になったものだから調べてみたところ、意外な事実が分かった。Physical Review Letters掲載論文には元来27名が共著者として名前を連ねていたが、なんとそのうち24名がこの論文から名前を取り下げていたのである。


下部の説明文を読むと、共著者から名前取り下げの要求があったのでそのようにした、と受け取れる。ジャーナル側のコメントのようであるが、ジャーナル側がこの事態をどのように考えたのかはこれからは読み取れない。残りの三名はこの論文が基本的に信頼出来ることを断言している、との説明が加えられているが、ジャーナルとしても頭を抱え込んだことだろう。この申し出が今年の2月23日に受理されて公開されたのが4月22日である。長さんが第一審で敗訴したのが4月19日だから、この共著者名取り下げの事実が判決に影響を及ぼしたのかどうか、微妙なところである。

そしてさらに新しい発見があった。この論文の訂正?版がこの6月1日に受理されて、25日に公開されているのである。


最初に発表された論文のタイトルに「Erratum:」なる言葉が被された見慣れない表題になっている。論文内容を見ることが出来ないので、どのように変わったのか分からない。二転三転、このように不様な論文を載せるとは「Physical Review Letters」の度量がよほど大きいのか、長さんの粘りに引かざるを得なくなったのか、ジャーナル側にもいろんな事情があったのだろう。今後、このような事態にどう対処すべきなのか、ジャーナル側でも当然検討を始めていることだろう。いったん論文を受理してしまった以上、もし審査過程に不備なり間違いがあったことがその後判明したとすると、それはジャーナル側の弱みになるからだ。長さん側とジャーナル側のせめぎ合いの結果、このような形で折り合いが付いたような気がする。政治的決着で、科学とは関係のないレベルでの話であろう。

ところで私がここで取り上げたかったのは、「長論文」から逃げ出した24名の共著者のことなのである。私は当初この程度の論文に共著者が多いのは、巨大装置?を使っての実験だから、装置を造り上げ、整備したり運転するのに必要とされる技術者までが共著者に含まれているのかと勝手に思い込んでいた。しかし今回論文を見直していて、論文の共著者名の最後に「GAMMA 10 Group」という名称のあることに気がついた。おそらくこの「GAMMA 10 Group」が装置の保守点検や運転に携わっていたのではなかろうか。そう考えると個人名で記載されているすべての共著者は歴とした研究者であると受け取るのが素直であろう。

では24名の研究者がなぜ最初の「長論文」に名を連ね、そして今回、なぜ共著者名を取り下げたのか、それを私は知りたいが、現時点では一切何も分からない。はっきりしているのはその事実が残されたということだけである。その事実だけでものを言うのであるが、なんとも情けない人たちである。これまで共著者に名前を連ねて論文を一つ稼いだといい気になっていたのに、なんだかやばそうになるとあたふたと逃げ出す。卑怯であり卑劣ではないか、というのが私の思いなのである。いいかげんな気持ちで共著者になるから、いいかげんな気持ちで共著者から逃げ出す。研究者失格である。私はこれまでも論文に名を連ねる資格などのことを、論文に名を連ねる資格のない教授とはを始めとしていくつかの小文で述べているのでここでは繰り返さないが、論文に名を載せて始めて研究者としてスタートするのであり、論文を出し続けることで研究者の地位を維持することが出来る。それをチャランポランにするようでは研究者失格である。

この逃げ出した共著者が、なぜ最初の「長論文」に名を連ね、そして今回、なぜ共著者名を取り下げたのか、その経緯を詳らかに説明して誰もが納得出来る形で身の証しを立て得た場合のみ、私も指弾を撤回したいと思う。逃げ出した共著者に一片の良心があれば、沈黙で済ますことは出来ないはずである。




韓国スター・パク・ヨンハさん自殺の波紋

2010-07-06 23:54:33 | Weblog
今日は朝鮮語のクラスがあった。一人の女性が入ってくると「大変だったね」と声をかける人がいる。どうしたことかと思ったら韓国スター自殺のことらしい。その女性、Aさんとするが、はいつもと違って部屋の中なのに黒いサングラスをかけている。それが韓国スター自殺とどう繋がるのかが分からないが、話が交わされるのを聞いているうちに合点がいくようになった。

朝鮮語クラスが12時に終わると、そのあと多いときは10人を超えるが食事を一緒にしてお喋りをする。ちょうど一週間前のこと、そのAさんがハングルで書いた文章を先生に見せて添削を受けていたので、私が「それ何?」と聞いたら、ファンレターと言うことだった。三日後の金曜日、神戸国際会館である韓国スターのコンサートに行くので、その時に手渡すとのことだった。韓国スターの名前は聞いたものの私は覚える気が無いので聞き流したが、それがパク・ヨンハさんだったのである。

添削をして貰った次の日、子どもを学校に送り出してファンレターを清書しようとした矢先にパクさん自殺のニュースに気付き、その一瞬、すべてが凍り付いてしまったそうである。それからはパソコンに張り付いて流れてくるインターネット情報を丹念に集めたが、インターネットを切るとパクさんとのつながりが完全に切れてしまうのが恐くて、パソコンの電源を切れなかったとくどく。それからは三日三晩泣き明かし、子どもがいるときには腫れた瞼を隠すためにサングラスをかけていたとか。食事は作っても自分は食べる気にならず、絶食でダイエッタになったけれど周りから言われてようやくお粥さんを少し口にしだしたと言う。今日の昼も行きつけの「スッカラ・チョッカラ」で、昼食では一番値の張る1200円のアワビ粥を注文しながら、ほとんど残す始末であった。

日本女性が韓国スターに熱を上げる話はある程度見聞きしていたが、ここまで取り乱した姿を目にして言葉を失ってしまった。そういえばAさんがかって、自分はいつもパスポートを肌身離さず持っていて、多分そのパクさんのことであろう、もし誘われたら二つ返事でどこまでもついて行んだから、と言っていたことを思いだした。ちなみにAさんは有夫の身で二児の母親ある。その旦那さんは悲嘆に暮れているAさんに「だいじょうか」と優しく声をかけてくれる、とか言っては又めそめそする。もう私には何が何だかさっぱりわけが分からない。

パクさんの葬儀には熱烈な日本女性ファンが200人?も押し寄せて、棺か霊柩車に縋るかして大変だったそうである。Aさんもインターネットでそういう映像が流されたのだろうか、棺の中の納まったパクさんの姿などをプリントアウトしていて、それを回覧しているのである。これも情熱というのであろうか、クレイジーと一言で片付けたらそれまでなのかも知れないが、実はAさんは私も加わっている生野コリアンタウン探検隊の一員なので、邪険な言葉を投げかけるわけにはいかないのである。それにしてもここまで熱狂する日本女性のパワーには恐れ入った。何かよい使い道がないものか、私の取り組むべき新しい課題に取り上げることとしよう。


筑波大学「豆まきデータ」騒ぎ 問われるのは科学者としての姿勢

2010-07-04 23:04:09 | 学問・教育・研究
昨夜は楽しみにしている韓国歴史ドラマ「朱蒙」が午後7時に始まるので、それまでに食事を終えておこうといつもより早めに食卓に坐った。そして4チャンネル毎日テレビにスイッチを入れたお陰でTBS系列報道特集「科学は裁けるのか… 解雇された世界が認める筑波大元教授の主張は」を始めから終わりまで観ることが出来た。

筑波大学が「本学教員が発表した論文における不適切なデータ解析について」なる文書を2008年3月に公表したことでこの問題が世間に知られるようになった。実験データ解析が問題の焦点の一つになっていることから、現役時代に分野は異なるものの私もデータ解析に取り組んでいたので、その立場から筑波大プラズマ研 不適切なデータ解析についてなる意見をブログに載せたところ、意外な反響を呼ぶこととなった。私が問題となる実験データのことを「豆まきデータ」と表現したところ、この言葉が私の知らない間に関係者の間に飛び回っているようなのである。その辺の事情を「豆まきデータ」と揶揄した債務者とは私のこと?で質してみたが、答えは戻ってこなかった。ところが昨夜の番組で、ナレーターが『大学側の言う「豆まきデータ」・・・』と少なくとも2回は言ったので、どうも筑波大学が裁判関係の書類のなかで「豆まきデータ」なる言葉を使ったのではないかと見当をつけた。この言葉を使っていただいたこと自体ある意味では光栄であるが、私は「豆まきデータ」ではデータ解析に値しないから測定を繰り返してデータ精度を上げるべきだ、との積極的提言への取っかかりとして用いていたのである。しかし察するに原告側からは揶揄と受け取られた使い方をされたようで、その意味では残念である。

私にはこの「豆まきデータ」騒ぎが、『研究論文の実験データ改ざんを理由に懲戒解雇』と世間に報道されているような実験データ改ざんに当たるのかどうか、マスメディアを通じて入る情報だけでは判断出来ないので最初から態度を保留している。私の関心事は秋の珍事? 報道特集NEXT「大学教授はなぜ解雇された」の波紋に述べたことに尽きるので、ここにその部分を再掲する。

私が問題にしているのはデータの解析方法ではなくて、あくまでもデータ収集の手段なのである。同じ測定を繰り返し積算してデータの精度を上げる、これが実験科学者の鉄則であるからだ。

しかしが昨夜の報道番組で取り上げられたのはあくまでも「豆まきデータ」の処理を巡っての話で、それに耳を傾けているうちに私は問われるべきなのはデータ解析の妥当性というよりは、科学者としての姿勢であるよう気がしだした。昨年10月に放映された前回の番組もそうであったが、原告と被告の主張をそれぞれ依怙贔屓無く報じて是非の判断を視聴者に委ねるというのものではなく、あくまでも原告側に肩入れした報道なのである。一般向けのプロパガンダとしてはそれなりの出来であるが手法自体は古くさい。お見受けするところ実験現場からはすでに引退しているが、肩書きのあるいわゆる権威者を登場させて原告側の業績を称揚させるだけで終わっていたからである。ついでにノーベル賞学者を登場させればよかったのに、そこまでは力が及ばなかったようである。しかし私が注目したのは、「豆まきデータ」の取り扱いについて二、三の研究者の意見を紹介していたところで、それぞれ考えさせられた。

最初は一人の研究者のコメントである。「豆まきデータ」を両横から押して時間軸を圧縮すると、左端では何点かが上部に集中しているように見え、右端ではそれよりも下部に何点かが集中しているように見える。だからプロットが減少するのは明らか、というような発言であった。横軸を縮めようと縦軸を縮めようと「豆まきデータ」の本質が変わるわけではないから、データの散らばりをどう受け取るのかその人の主観を述べただけのことである。もし学生がこういうことを言ったとしたら、データの特徴をよく読み取ったと褒める指導者は一人もいないだろう。しかしこの方からは、少なくともこの「豆まきデータ」からある傾向を掴もうと努力する姿勢は窺われるので、この点は納得出来た。データから学ぶという実験科学者の基本姿勢は失われていないように思ったからである。ところがこれと対照的なのが同じく「豆まきデータ」から出発して、異なる解析手法によっても論文に示されたのと同じフィッティング結果が得られたと主張した別のお二人であった。

研究者が予断を持って実験するのは当たり前のこと、と言わんばかりに「豆まきデータ」を原告論文と同じ数式モデルにフィッティングさせると、解析方法が異なっているにもかかわらず原告論文と同じ形の関数が導かれたと言うのである。すなわち原告論文のデータ解析の妥当性を主張したつもりなのであろう。横軸を圧縮した例では少なくとも「豆まきデータ」に基づいて何らかの傾向を見つけようとの姿勢があったが、この例では最初から実験モデルありき、で解析を進めたのである。真摯な実験科学者なら実験データからまず学ぼうとするだろう。もし得られたのが「豆まきデータ」のように何が何やらわけの分からないデータであれば、測定を繰り返しデーターを積算して、それこそ見ただけでどのような傾向にあるのか、ときには関数の形さえ判断出来るところまでデータの精密度を上げようとするだろう。

一方、データを説明するある数式モデルを最初から持っておれば、そのデータがいかに乱雑であってもその数式モデルのパラメータは導かれる。ただ「豆まきデータ」から出発する以上、フィッティング曲線の「豆まきデータ」に対する適合度はかなり程度が低いことであろう。だからこういう試みも出来る。原告論文の数式モデルの代わりに、この「豆まきデータ」を楕円関数にフィットさせることを学生に課題として与えたら、100人が100人とも、たとえ異なった解析ソフトを使っても「豆まきデータ」にベストフィットする同じ楕円関数を導くことであろう。さて、原告論文の関数、そしてここで導かれた楕円関数をそれぞれ生「豆まきデータ」と比べてどちらのほうがもっともらしいフィッティング曲線となることだろう。こいうお遊びが出来るのも「豆まきデータ」を使うからこそであって、実験が正しくてデータ精密度が高いと自ずから楕円曲線の可能性は否定されてしまう筈ある。

私はすでに「論文不正あった」解雇認める=筑波大元教授敗訴で思うことで次のように述べている。

私は当初、このような杜撰なデータをなぜPhysical Review Lettersの査読者が見逃したのかが不審であったが、この論文そのものを目にして謎が解けた。査読者が生の「豆まきデータ」を目にはしていなかったのである。筑波大学が公開した資料2説明資料にのみに「豆まきデータ」から論文に掲載された図が導かれる経緯が出ていたのである。これでは査読者が不審を抱きようがない。

実はこの記事を書くに先立って、④の報道特集の映像がYoutubeで公開されていることを知ったのでそれを見てみた。長さんの言い分を全面に後押しせんばかりの一方的な報道姿勢で、科学のゆがめられたワイドショー化の現状がよく分かる映像である。そのなかで長さんを支持する世界の名だたる?核融合研究者の長さんに好意的なコメントばかりが紹介されていたが、私ならその一人ひとりに「豆まきデータ」を直接示して、あなたならこのデータをどのように扱いますか、と問いただす。彼らがほんとうに世界の名だたる核融合研究者であるなら、言葉を詰まらせるはずだ。

実験データから学ぶのではなく、すでに頭に描いている数式モデルをデータに当てはめる。このような場合もあることを完全に否定はしないが、私はそこまで自然に対して傲慢ではない。あの乱雑な「豆まきデータ」でエイ・ヤーッと一刀両断、あらかじめ頭に描いている数式モデルのパラメーターを決めてしまうのは見方によれば極めて剛胆である。それに引き替え、同じ測定を繰り返しデータを積算してその精密度を上げるべきだという私の意見は重箱の隅をほじくっているように見えるだろう。しかし生データとそれぞれのフィッティング曲線との適合度を比較すると、精密度の高いデータを使ったものほどより優れた適合度を与えることになり、それだけ説得力に重みが増す。

実験データそのものに多くを語らせることが出来ると、『データからこのような数式モデルが導かれてそのパラメータはかくかくしかじかである』と言うことが出来る。しかし一方、『得られたデータがこの数式モデルで表されると仮定してそのパラメータを求めるとかくかくしかじかになった』と言うので満足するのであれば、「豆まきデータ」を用いて、そのようにすればよいのである。要するに「仮定」で満足出来るかいなかで解析データに対する要求度が大きく異なるのである。ただ科学者は「仮定」を実証するのが仕事である。後者の例のように、「仮定」が前提となっているのに、あたかもそれを実証したかのように振る舞うとこれは人を欺くことになる。実験データいかんに関わらず、あらかじめ頭の中にある数式モデルをデータ解析に持ち出すことは、その時点で後者の道を歩み始めたことになる。その意味で「豆まきデータ」にどう立ち向かうかが自ずと科学者としての姿勢を示すことになる。そのことを考えさせたこと一つで、この報道番組は無駄ではなかった。


日本相撲協会を「相撲特区」にすべし

2010-07-02 17:50:40 | 放言
今やマスメディアで大相撲・賭博問題がかまびすしい。何やかや騒がれながらも結局名古屋場所は開かれそうで、やはり銭勘定第一なのであろう。勧進相撲-おあしを取って見せる相撲-が大相撲の起こりであるからには至極もっともな成り行きで不思議とするに当たらない。そう思ってみると今の騒ぎは私の目には極めて異常に映る。

かれこれ3年ほど前になるが、相撲は国技にあらず?なる一文を認めたことがある。その中で「鳶魚江戸文庫4 相撲の話」(中公文庫)から次のような引用を行った。

この本の巻尾に山本博文氏が「相撲取りの生活」という一文を寄せており、そのなかに以下の文章があった。肝腎なところはもともとは新田一郎氏の文章のようであり、少々長いが引用させていただく。

《 相撲が「国技」になったという事実はない。それではなぜ現在相撲が「国技」だと称されているのであろうか。
 「国技」としての相撲は、明治四十二年(1909》五月、両国元町に落成した相撲の常設館が開館したとき、「国技館」と命名されたことに始まる。名称は直前まで決まらず、開館式のための小説家江見水蔭の起草した披露文に「相撲は日本の国技なり」という言葉があり、年寄尾車(をぐるま)がそれに着目して「国技館」の名称を提案したという(新田一郎『相撲の歴史』山川出版社)。
 つまり、相撲が「国技」だというのは、全くの美称であり、僭称でもあるのである。
 しかし、昭和天皇が相撲好きで、(中略)中日に国技館に赴き、相撲を見ることが慣例になっていた。このことが、相撲を「国技」と称しても誰も不思議に思わないという思考構造を生んだのだと思われる。(中略)
 それにしても「国技館」という名称に釣られて、無責任に相撲を国技だと称するマスコミは、少し問題があるのではなかろうか。このような架空の言説が、実体を生むことになる。(後略)》

論旨が実に単純明快、だから私は素直に納得した。とくに赤色で強調した部分に注目していただこう。言葉をかえれば「国技」なる言葉に重みをつけんがために、相撲協会が昭和天皇を上手に利用しただけのことなのである。この大相撲の権威付けには前例がある。「鳶魚江戸文庫4 相撲の話」によると寛政三(1791)年、江戸城吹上御庭で行われた十一代将軍家斉の上覧相撲がそれである。中入りの休憩を挟んで全八十二組の取り組みが行われ結びの一番は東西の両横綱小野川喜三郎と谷風梶之助の取り組みであった。長い間幕府から胡乱な目で見られ、相撲取りと「通り者」と同一視されていた当時、この上覧相撲が相撲に伝統の権威を付与することになったとされる。権威付けを必要とする体質が相撲の世界にあったのである。

「通り者」とはいわゆる無頼者のことである。だからこそ幕府から胡乱な目で見られていた。「鳶魚江戸文庫4 相撲の話」には元禄以来新しい相撲術が行われて、それまでの相撲が大変化するようになった、と述べて、それに引き続き次のような話がある。

それ以前の模様は、『色道大鏡』の「悪性」というところに、
  風呂相撲芝居兵法男だて三味蕎麦切りにばくち大酒
と書いてある。始末にならぬ悪性という中に、相撲が入っているというほど、厄介なものだったので、相撲の禁止ということも、この大厄介のためなのです。

とある。『色道大鏡』とは藤本箕山という人が書いたもので、延宝6(1678)年に16巻が成立、貞享5(1688)年以降に18巻成立したものである。この人は家督を継ぐが財産をすベて遊郭通いにつぎ込んだという粋人で、この書は諸国の遊里の風俗・習慣を記した江戸時代の評判記なのである。面白いことにこの『色道大鏡』の復刻版が最近出版されて、その一部を話題のGoogleブックスで見ることが出来るが、「悪性」は次のように説明されている。

悪性(あくしょう) 悪人(あくにん)のみをさしていふ詞(ことば)にあらず、當道(たうだう)にても、いたづらなる者をいふ。悪性(あくせう)を題する哥(うた)、
 風呂すまふ芝居兵法おとこだて
 しゃみそばきりにばくち大酒
此哥にて、此心をしるべし。

「いたづらなる者」とは「徒ら者」で、「岩波古語辞典」によれば「無用の者、怠け者(lazybonesこと私もこの範疇に入る)」に始まり、「不心得者、ろくでなし、ならず者」と説明が続く。これで分かるように相撲取りはその当時の人の目にもばくち打ちと同じように映っていたのである。『色道大鏡』の出たあとの元禄時代(1688-1703)を境に相撲術が大きく変化したとしてもこの「本性」が大きく変わることはなく、だからこそ上覧相撲の行われた後代の寛政三(1791)年にあっても、相撲取りは依然として「通り者」と見られていたのであろう。少々回りくどいことを述べたが、要するに歴史的には相撲取りはばくち打ちと切っても切れない関係にあったのであり、その伝統が今にも引き継がれていると思えば、今回のことも相撲取りが時代が変わったせいで野球賭博に手を出しただけのことで、何も驚くにあたらない、と言いたいのである。賭博があってこその相撲社会なのである。賭博を知らない人間がいかにも知ったかぶりの物言いで恐縮であるが、これが相撲社会についての私なりの受け取りようなのである。いいも悪いも昔からのものを引き継ぐ、伝統を守るとはそういうことなんだろうと思う。

私の感覚で言うとパチンコも賭博である。ばくちとは新明解国語辞典によると『金品をかけて、さいころ、トランプ、花札などの勝負事をすること。』なのであるが、パチンコはさいころの代わりにパチンコ台を使っているだけのことで、金品をかけているのとはまったく同じである。そのパチンコが1995年の過去最高といわれる30兆円以上の売り上げ高より減少傾向にあると言われながらも、2008年に24兆円超の売り上げを依然と誇っているところを見ると、賭博・ばくちの行為自体が排除すべき社会悪なのではなく、隠れて賭博・ばくちをやられると、税金を取り損ねるから悪いと言っているだけだろうと私は思ってしまう。だからこそその昔から『風呂相撲芝居兵法男だて三味蕎麦切りにばくち大酒』のように相撲もばくちも同列に見なされているのであろう。だから私は今でも共存すればよいと思っているが、問題にするとすればその共存あり方であろう。私は日本相撲協会を「相撲特区」にしてしまえばよいと思う。

やり方はその道の専門家が智慧を出せばよいのであって、大相撲が開かれている間はその場所に出かければあらゆるばくちを大ぴらに楽しめるようにすればよい。大相撲だけでなく、地方巡業でも、またそれぞれの相撲部屋でも、そこに行けば好きなばくちを楽しめるようにするのである。頭にちょんまげを結っている姿を見つけたら後をつけていく。すると必ずばくちが自由にやれる場所に行き着く。もちろん税金はたっぷりと徴収する。刑法を改正するのかどうか、またしないといけないのかどうか、私には分からないが、ある種の治外法権圏にすればよいのである。

そして「相撲特区」の極め付きは、相撲取りの手に入るあらゆる収入を無税にするのである。今日のasahi.comにも

 さらに表向きには収入として表れない、祝儀や小遣いが懐へ入ってくる。それでも昔に比べれば、不景気でタニマチからの金銭の授与は少なくなったという。十数年前には人気力士に1億円を渡し、床山にも2千万円以上をポンと渡した後援者がいたという。もちろん、税金の申告はされていない。

なんて記事が出てた。タニマチの大盤振る舞いも伝統の一つであったのに、ご祝儀を申告しないと脱税扱いされるようななったのだから、たまったものじゃない。タニマチのご祝儀を寄付金控除扱いにすればますます太っ腹のタニマチが現れ、相撲取りに否応なしに「土俵には金が埋まっている」ことを叩き込むことであろう。金で釣ることになるが、それに誘われて強い日本人力士が増えてくるのではないかと大いに期待するのである。私は以前に朝青龍問題 日本相撲協会は『皇民化教育』を廃すべし


大相撲が日本人力士だけでやっていけるのか。日本相撲協会が乾坤一擲の勝負にでる気構えがあるのなら、その再生の秘策を伝授するに私はやぶさかではない。

と述べたことがある。その再生の秘策として私が心に描いていたのが「相撲特区」における相撲取りのタックス・ヘイブン化であった。賭博問題で相撲協会が大揺れに揺れている今こそ、生き残りをかけてそれこそ乾坤一擲の勝負に打って出るチャンスであろうと嗾ける次第である。





楽天社内「公用語を英語に」 全社員対象、とは面白いが・・・

2010-07-01 21:41:42 | Weblog
楽天社内「公用語を英語に」 全社員対象、世界企業宣言

 ネット通販大手の楽天は30日の国際戦略説明会で、2012年度末までに英語を「グループの公用語」とする方針を表明した。全正社員約6千人が英語で意思疎通できるようにする。同社は海外展開を加速しており、三木谷浩史会長兼社長は「日本企業をやめ、世界企業になる」と宣言した。

 楽天は今年、幹部会議での発表や会議資料を英語にするなど、社内の「英語化」を進めている。これまでも英会話学校と提携して社員の習得を支援しており、今後は英語力を人事評価の項目にするという。
(asahi.com 2010年7月1日1時39分)

日本語に加えて英語も公用語にするのか、英語だけを公用語にするのか、その辺りのことが分からないし、一私企業がその企業内であるにせよ、日本国内で英語を使えないというか苦手な社員に不利益をもたらすような形で、このような取り決めをしてよいものやらどうやら、考え出すといろんな疑念も生じるが、一つの試みとしては面白いと思う。その一方で、私は必要に応じて英語を使うのは当たり前という環境に身を置いていたので、今さらこんなことがニュースになるなんて、という思いもある。

大学・研究所などで研究活動の活発なところほど国際交流も盛んである。しかし半世紀前は日本人が外国に出かけるのが普通で、外国人が日本にやって来て、それも滞在して研究活動に参加するのは稀であった。それがいつの間にか日本国内で外国人研究者の数も増え、国際共通語としての英語によるコミュニケーションが常態となっているのが現状であろう。仕事の最中に英語でやり取りするのはもちろんとして、研究室などで研究報告をするような場でもその中に外国人がおれば言葉は自然と英語に切り替わるし、さらには日常会話でも意識せずに英語が流れる。研究者の世界では外国人でも日本に来るからには日本語を習得してから来るべきだなんていう偏狭な考えはもともとない。あるのはその外国人を利用して英語をブラッシュアップしようとという前向きの姿勢であった。

私は戦後間もない昭和22年に中学校、昭和25年に高校に入学したが、客観的に見てもそんなに優秀な英語教師がいたとは思われない時代であった。それでも塾などに通って課外に英語を学ぶこともなく、学校英語だけで米国に留学して、恥をかきながらの実戦英語を学んだことが、その後の英語によるコミュニケーション力を支えたのだと思う。有難いことにそのお陰で現在でも日本語・英語を特に意識しない。だから私のブログではたとえば外国の新聞報道とか本からの引用も英文そのもので、とくに翻訳文を添えたりはしない。これまでの英語に対する姿勢がそのまま自然に出ているだけなのである。

それぞれ目指すところがあって英語力を必要とする企業では、社員にその必要性を覚らせることが第一であろう。そして必要なときはお互いが自然と英語でコミュニケートする。それさえ出来れば何も職場から日本語を排除することはなかろうと思う。しかしこのご時世である。別の解決法もあるのではなかろうか。もし頭で考えたことがスイッチ一つで英語や中国語や、ありとあらゆる言葉になって胸元の小型スピーカーから飛び出す。日本人のスピーカーから英語が飛び出し、それに答える米国人のスピーカーからは日本語が飛び出す。誰かこのような究極の?翻訳機を開発して三木谷浩史会長兼社長の鼻を明かしてやったらどうだろうと思ったりもする。