大学院に関することに昨日書いたばかりに、つい自分の昔のことを思い出した。
私は学生時代、ホラ吹きだったのだろうか。というのは大学の教養時代に入っていた合唱団の追い出しコンパでプレゼントされた仲間からの寄せ書きに、次のようなメッセージがあったからである。
ゆくゆくはノーベル賞を狙うぞ、とでもホラを吹いていたのだろうか。しかしそんなに客気に駆られた言葉を生来慎ましやかな私が気安く口にするはずがない。ホラとノーベル賞は別のことだろう。というのも、もう一人別の人が次のように書いてくれているのである。
合唱団の追い出しコンパでこんなに「ノーベル賞」が出て来るのはどうも場違いである。いずれにせよ、私が口にしていたのでないのなら、考えられることはただ一つ、栴檀は双葉より芳しで、その頃から私は未来のノーベル賞学者の趣を漂わせていたに違いない。そのせいかどうか、学部に進んでも就職は論外で大学院に行くのが自分の定められた道だと思い込んでいた。やはり心に秘かに期するものがあって、研究者を目指していたのであろう。
誰に相談することもなしに自分の進路を決めたが、親には釘をさされた。家から通えるところならいいが、仕送りする余裕はないから下宿は駄目、という訳である。一家は朝鮮からの引き揚げで父は普通の勤め人、まだ下には妹一人と弟が三人いる。当然のことである。早く働いて仕送りをするように云われなかっただけでも有難いことであった。
大学院ではアルバイトは一切せずに勉強に研究に精を出そうと思った。もし奨学金が貰えるのならそれで何とかやっていけそうである。当時私が目指していたコースでは奨学金は二人ぐらいしか当たらず、大学院入試の成績でだいたい決まるようなことが云われていた。これなら勉強すれば済む話である。ところがある問題が起きた。
同じく大学院を目指していた仲間の一人がある提案をしたのである。皆が奨学金を欲しいのだから、受取人は二人でもそのお金をプールして皆で平等に分けよう、というのである。云いだしたのが親友であっただけに困ったことになったと思った。奨学金の額は忘れたが、それだけあればアルバイトをせずにやっていけると思ったのに、そんなことをすると否応なしにアルバイトをせざるを得ない。それに返済時が厄介である。大学院で貸与を受けた奨学金は、何年か例えば大学に奉職すると返還が免除されるが、その条件を満たさなければ返還しないといけない。だから下手すると人の借りた分を返さないといけなくなる場合もある。どう考えてもおかしい。共倒れになるようなことは止めようとの私の意見への賛同者が幸い多くて、この分配案は消えてしまった。
結果的に云うとこの友人は大学院を断念して、わが国最大手の製薬会社に就職し定年まで勤めた。経済的には私より遙かに恵まれた生活を送っているはずだ。ところでこの奨学金を全員で平等に分配する方式を私の何年か下のクラスが実行したのである。少しは経済的にもゆとりのある年代になっていたからなのだろうか。ただ返還の事務に手を取られたとは後で聞いたような気がする。
大学院博士課程を修了した私の同期生は、それぞれが紆余曲折を経たものの全員が大学に勤務することが出来た。博士の就職先と云えば大学しかなく、研究生活を続けることが極めて厳しい時代であっただけに、大学院に進学を決めるには皆真剣であったし、選んだ以上は初志を貫徹するのにお互いが切磋琢磨しあった。入試の面接でアルバイトをせずにやっていけるか、と覚悟の程を問われたのを思い出す。私の判断は間違っていなかったのである。
近年職のない博士がゴロゴロとか、豊かさの象徴と喜ぶより先に、人生あなた任せの脳天気さ加減を叱咤したくなる。
間もなくノーベル賞発表の時期である。昔の歌仲間を喜ばせたいが、もはや名前も忘れさられていることだろう。
私は学生時代、ホラ吹きだったのだろうか。というのは大学の教養時代に入っていた合唱団の追い出しコンパでプレゼントされた仲間からの寄せ書きに、次のようなメッセージがあったからである。
ゆくゆくはノーベル賞を狙うぞ、とでもホラを吹いていたのだろうか。しかしそんなに客気に駆られた言葉を生来慎ましやかな私が気安く口にするはずがない。ホラとノーベル賞は別のことだろう。というのも、もう一人別の人が次のように書いてくれているのである。
合唱団の追い出しコンパでこんなに「ノーベル賞」が出て来るのはどうも場違いである。いずれにせよ、私が口にしていたのでないのなら、考えられることはただ一つ、栴檀は双葉より芳しで、その頃から私は未来のノーベル賞学者の趣を漂わせていたに違いない。そのせいかどうか、学部に進んでも就職は論外で大学院に行くのが自分の定められた道だと思い込んでいた。やはり心に秘かに期するものがあって、研究者を目指していたのであろう。
誰に相談することもなしに自分の進路を決めたが、親には釘をさされた。家から通えるところならいいが、仕送りする余裕はないから下宿は駄目、という訳である。一家は朝鮮からの引き揚げで父は普通の勤め人、まだ下には妹一人と弟が三人いる。当然のことである。早く働いて仕送りをするように云われなかっただけでも有難いことであった。
大学院ではアルバイトは一切せずに勉強に研究に精を出そうと思った。もし奨学金が貰えるのならそれで何とかやっていけそうである。当時私が目指していたコースでは奨学金は二人ぐらいしか当たらず、大学院入試の成績でだいたい決まるようなことが云われていた。これなら勉強すれば済む話である。ところがある問題が起きた。
同じく大学院を目指していた仲間の一人がある提案をしたのである。皆が奨学金を欲しいのだから、受取人は二人でもそのお金をプールして皆で平等に分けよう、というのである。云いだしたのが親友であっただけに困ったことになったと思った。奨学金の額は忘れたが、それだけあればアルバイトをせずにやっていけると思ったのに、そんなことをすると否応なしにアルバイトをせざるを得ない。それに返済時が厄介である。大学院で貸与を受けた奨学金は、何年か例えば大学に奉職すると返還が免除されるが、その条件を満たさなければ返還しないといけない。だから下手すると人の借りた分を返さないといけなくなる場合もある。どう考えてもおかしい。共倒れになるようなことは止めようとの私の意見への賛同者が幸い多くて、この分配案は消えてしまった。
結果的に云うとこの友人は大学院を断念して、わが国最大手の製薬会社に就職し定年まで勤めた。経済的には私より遙かに恵まれた生活を送っているはずだ。ところでこの奨学金を全員で平等に分配する方式を私の何年か下のクラスが実行したのである。少しは経済的にもゆとりのある年代になっていたからなのだろうか。ただ返還の事務に手を取られたとは後で聞いたような気がする。
大学院博士課程を修了した私の同期生は、それぞれが紆余曲折を経たものの全員が大学に勤務することが出来た。博士の就職先と云えば大学しかなく、研究生活を続けることが極めて厳しい時代であっただけに、大学院に進学を決めるには皆真剣であったし、選んだ以上は初志を貫徹するのにお互いが切磋琢磨しあった。入試の面接でアルバイトをせずにやっていけるか、と覚悟の程を問われたのを思い出す。私の判断は間違っていなかったのである。
近年職のない博士がゴロゴロとか、豊かさの象徴と喜ぶより先に、人生あなた任せの脳天気さ加減を叱咤したくなる。
間もなくノーベル賞発表の時期である。昔の歌仲間を喜ばせたいが、もはや名前も忘れさられていることだろう。