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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

ノーベル医学生理学賞が日本に来ないのはなぜ?

2006-10-04 17:42:56 | 学問・教育・研究
今年のノーベル医学生理学賞受賞者が発表された。また日本人が選にもれた。過去の受賞者に利根川進さんがおられるが、これは外国で為された仕事によるものである。だから日本人としての資質の優秀性を顕示していただいたという意味では嬉しいけれど、日本人の業績としてわれわれが手放しに喜べるものではなかった。外国が与えることの出来た研究環境を、なぜ日本が利根川さんに提供できなかったのか、それを考えるべきなのである。そして、これは利根川さんだけに限った問題ではないのである。

もう10年も前になろうか、さる新聞社から電話がかかってきた。まもなくノーベル賞受賞者の発表があるが、有望視されている日本人がいるので、その方のことを聞かせて欲しい、という趣旨であった。自分でなくてほっとした(冗談です!)ものの、誰のことか直ぐに思い当たる人がいなかったが、名前を聞いて興奮してしまった。なんと旧知の増井禎夫さんだったのである。

増井さんとの出会いは40年まえに遡る。1966年の秋、私の留学先であったエール大学の学長が、外国からの留学生一同を歓迎パーティに招待してくださった。私も妻と出席したが、その帰り道で着物姿が艶やかなご婦人が目に飛び込んできた。パーティ席上では出席者の多かったこともあって気がつかなかったが、このご夫人もカップルでちゃんと連れ合いが居られた。初めて出会った日本人に嬉しくなって挨拶を交わし、そして住所、電話番号などを交換したのである。

増井さんは甲南大学にお勤めでしかも生物学がご専門、私も名前だけであるにせよ生物学科の卒業生である。そしてお互いに四人家族で外国暮らしを始めた関西人同士ということで、増井さんのほうが少し年上であったが、親密なお付き合いが始まるのに時間はかからなかった。その当時の個人的な思い出話を始めるとキリがないので、それはさておく。増井さんは結局日本に帰国されることなく、外国での生活を選ばれて、現在はカナダのトロント市にお住まいである。私たちは二年間のアメリカ生活を終えて帰国後、しばらく続いた音信が途絶えてしまった。それが10年ほどの空白をおいてある日復活した。それは奥様が伝手を頼って私共の所在を探り当ててくださったのである。増井さんはトロントに、私は京都に移ってしまっていた。それを機会に家族の交流が甦り今日に至っている。最近では2003年、ご夫妻が拙宅に来られたことがある。



新聞社から電話がかかってきたのは、増井さんと私のその様な関係をどこからか聞きこんで、若き頃の増井さんを私に語らせるのが目的であった。しかしその年に朗報を聞くことはなかった。それからは10月が近づくと毎年のように新聞社から電話がかかってきた。1998年に増井さんがLeland H. Hartwell、Paul M. Nurseの両博士と共にアルバート・ラスカー賞を受賞されたことが、ノーベル賞への期待にますます拍車をかけた。というのも過去ラスカー賞の受賞者の50%がノーベル医学生理学賞を受賞するという実績があったからである。しかし2001年のノーベル医学生理学賞の受賞者にラスカー賞を受賞した他の二人の名前はあったのに、増井さんの名前だけがなかった。

増井さんに一別以来お目にかかったのは1985年頃だったと思う。私が京都にいた時のことで、夫婦四人で再会を喜び合った。その様なときでも増井さんは自然と仕事の話しに入っていかれる。エール大学時代の時からそうで、奥様と妻、増井さんと私、というように二組に分かれて話しに熱中するのが常だった。増井さんの「卵成熟促進因子」の発見は今でこそ有名であるが、まだその当時どれぐらいの専門家が評価していただろうか。私は門外漢であったが、増井さんならではのお仕事と思い、たまたまその当時私が編集委員長をしていたある学会誌の編集会議の席上で、増井さんに総説を書いていただくことを提案したことがある。私の説明が至らなかったのであろうが、編集委員の賛成を頂くに至らなかった思い出がある。

増井さんならでは、というのはそれなりの私の心証があったからである。増井さんは本当に仕事の虫だった。私も仕事に熱中することでは人後に落ちないつもりであったが、増井さんには兜を脱いだ。私はアメリカ生活を満喫せんものと、週末になったら遠出のドライブを楽しんでいた。増井さんにはその週末がなかったのではなかろうか。なんせ運転免許書をお持ちでないのだから、まずその様な誘惑からは自由である。お宅に呼ばれた折りでも、奥様がやきもきされていても知らぬが仏で、仕方なしというような風情で研究室から戻ってこられる。一時の団欒を終えた後も研究室に戻られることもあった。見事なまでに仕事一筋の生き様を体現しておられた。

その増井さんにとって最大の転機は、与えられた一年間の留学期間が終わり、甲南大学に戻らずにエール大学での研究生活の道を選択されたときであろうと思う。その間の事情をその当時は具にお聞きしたが、私が今云えることは、先行きの不安よりも研究を選ばれたということのみである。後年増井さんはこのように述懐されている。

《マーカートの研究室では最初、ペンギンの発生に関係する酵素の分析を手伝ったが、一つ論文ができたところで、「君の好きなことをやりなさい」と言われた。ニ、三アイディアをもっていくと、日本でもできる安上がりの仕事にしたらどうかと言う。とても現実的な対応だ。夢は夢、その中から現実性の高いものを選んでいくのが本当の選択だと教えられた。それで、若い時からの夢である核と細胞質の相互作用が、卵の成熟の時にどのように起きるかをテーマにすることにした。これだったら、材料はカエル。あとはガラス管と顕微鏡とリンガ一液があればできる。しかも、たった一つの卵細胞が一つの方向に変化していくのを追っていけばよいのだから、系としても簡単だった。》(「細胞と人間のサイエンス」より)

強調は私が行ったが、これこそ私が研究とは斯くあるべきだと思う真髄であるからだ。

指導者は何時かは自分の下にいる若い人に「君の好きなことをやりなさい」と云わなければならない。キリがいいのは新博士誕生の折であろう。ここで私は繰り返すが、ノーベル賞に値する偉大な業績はあくまでも一人の人間の発想から生まれるということである。そしてそれを生み出すのが20代後半から30代にかけての若き研究者である。その有為の若者の自由な発想を仮にも抑えるようなことがあれば、それは指導者として『不作為』の罪を犯すことになるのだ。

そして独立した研究者はテーマとしては自分が本当にやりたいこと、それも一人でもやっていけるテーマを選ぶべきなのである。自分で納得するテーマが一つも見あたらなければ、研究者の道を選ぶべきではない。

ここに国の若い人にたいする支援がとても重要になる。今回の阪大杉野事件で明らかになったことであるが、杉野教授を代表研究者とする五人の研究グループの「真核生物染色体DNA複製フォークの分子ダイナミズム」という研究課題に対して、平成15年度から19年度の5年間にわたり総額8千6百30万円の研究費が与えられていた。国はそれだけの研究費を出せるようになったと良い方に受け取ろう。それは大いに結構である。ただ私はその与え方を変えるべきだと思う。

まずこのようにシニアの研究代表者に一括して研究費を支給するというやり方が、ノーベル医学生理学賞に値する業績を、これまで一つたりとも生み出してこなかったという事実をわれわれは認識しないといけない。厳然とした『負』の証明が既になされているのだ。確かにペーパーは生産されただろうと思う。その中身が問題なのである。これだけの研究費を集められる代表者といえば、それなりのキャリアーのある人だろう。教授、助教授クラスであろうが、私がこれまで再度取り上げてきた「実験も出来ない教授」が殆どではなかろうか(私の本心はそうでないことを願っているのである!)。この「実験も出来ない教授」もかってはバリバリの研究者であったはずである。そのバリバリの時に、自分で自由になる研究費があれば、とっくの昔に素晴らしい仕事を完成させていた可能性は極めて高い。研究費がやって来るのが時期はずれだったとも考えられる。自分一人で研究を創造的に進められなくなったら、教育者として出直せばいいのに、やはり若いときに果たせなかった夢を追い続ける業からは解き放されないのだろうか。

私はそのシニア研究者にまとめて研究費を配分するシステムでは創造的な科学は生まれないと思う。私は独り立ちしたときに年間たとえ100万円でも自分で自由に使える研究費が欲しいと渇望した。私はそこまでは至らないものの、自分で自由になる研究費をあるていど与えられたことがその後の私を育ててくれたと思っている。私の知らないところで、私の何かを認めてくださった方がおられたのである。

私は新博士で研究生活を続けたいと思う人には、無条件で年間300万円ほどの研究費を使わせたらいいと思う。それも3年間の保証付きで。生活費も含めるとしても年間600万円あれば御の字だろう。生命科学系全体で毎年500名程度を考えると、定常的には年間90億円あれば済むことである。ジェット戦闘機一機の値段で十分にまかなえる。しかもこれは予算の純増にはならない。シニアを特別扱いすることもなくなるから、そちらで大幅の削減が可能になる。これが私の研究費の支給方法を変えるという中身である。

今年のノーベル医学生理学賞は「RNA干渉」という現象の発見者二人に行ったが、その発見は1998年のことだったという。まだ10年も経っていない。それぐらいその意義の評価のテンポが速まったということであろう。私は真摯に提案しているつもりであるが、たとえ騙されたと思われてもいい、この方式を実行してみることである。10年後にはノーベル賞クラスの真の研究者が日本で輩出していること間違い無しである。

増井さんを出汁(ダシ)にして、またまた熱を上げてしまった。しかし増井さんなら心から同感してくださることと私は確信している。

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