今回の日本滞在中、初めて沖縄を訪れることができた。
太平洋戦争中、多くの犠牲を払わされ、さらに戦後も米軍基地のしわ寄せをくわされているこの土地をこれまで訪れていなかった事に、僕は日本人としてなにか後ろめたさのようなものをもち続けてきた。別に沖縄に来たからといって、それで気が済むなどとは思ってはいなかったが、土地の人たちの話しを聞き、戦跡、そして現存する米軍基地を訪れることによって、正直なところ僕の沖縄に対する感情は逆に一層複雑なものになってしまったうようだ。
訪れた土地のひとつ、読谷村のチビリガマ(洞窟)の内部には風化して茶色に変色した人骨がまだいくつも残っていた。侵攻する米軍から逃れ、点在するガマに身を隠していた地元民たちのうち83人が自ら命を絶った。案内してくれた知花昌一さんは、僕ら内地からきた無知な訪問者たちを相手に実に丁寧に当時の様子を説明してくれた。1987年の沖縄国体で、戦前の軍国主義を象徴する日の丸を焼いたのが彼である。
母親が自らの赤子の顔を身体に押し付け窒息死させたり、首の頸動脈を切って血が何メートルも吹きだしながらもなかなか死にきれなかった人々の様子など、語り部である知花さんの話しは凄惨を極めた。
「ここでおこったことは『集団自決』ではありません。『強制死』です」
彼はきっぱりと言った。
米兵に追われ、されには日本軍からも捨て石として見捨てられた島民の多くは、投降することも許されずにいわば「強制的な自決」を強いられたのだ。
3ヶ月足らず沖縄戦での日本側犠牲者は18万人以上。戦後、沖縄が本土に復帰されたとき、沖縄の人々はこう思ったという。
「これで日本に戻れる。もう米国領土でなくなるのだから、基地もなくなる」
しかしその期待は裏切られた。さらに引き続く本土による沖縄「捨て石」政策によって現在も彼らは裏切り続けられている。県民にあれほどの期待を持たせた鳩山内閣の失脚によって、沖縄人の怒りはもう頂点に達しているんだ、そんな言葉が県民たちの口から何度も溢れでた。
今回、撮影取材ではなく、写真学校の講師という立場でこの地を訪れた僕は、限られた沖縄の人々のごく一面に触れたに過ぎない。しかし、仮に綿密な取材をおこなっていたとしても、この沖縄問題に関して僕に何ができるのか、はっきりとした答えなど見いだせなかったろう。沖縄をとりまく情勢はあまりに複雑だ。
「沖縄の歴史を、そして現実を正しく知ること」
これは「本土の若者たちに何ができるか?」という問いに対しての、伊江島の反戦平和資料館の謝花悦子館長の答えだが、まさにその通りだと思う。自戒を込めて言わせてもらえば、広島、長崎の陰に隠れてしまって、沖縄の歴史をあまりに知らない本土の人間が多すぎるのだ。
無知なことによって、意識せずとも加害者になっている。それが本土に住む人々の罪だ。こんなことをあらためて思い知らされた。
(写真:チビリガマ内に残った、風化した人骨と空き瓶)
(もっと写真を見る:http://www.kunitakahashi.com/blog/2010/09/05/okinawa-scars-of-war/)
太平洋戦争中、多くの犠牲を払わされ、さらに戦後も米軍基地のしわ寄せをくわされているこの土地をこれまで訪れていなかった事に、僕は日本人としてなにか後ろめたさのようなものをもち続けてきた。別に沖縄に来たからといって、それで気が済むなどとは思ってはいなかったが、土地の人たちの話しを聞き、戦跡、そして現存する米軍基地を訪れることによって、正直なところ僕の沖縄に対する感情は逆に一層複雑なものになってしまったうようだ。
訪れた土地のひとつ、読谷村のチビリガマ(洞窟)の内部には風化して茶色に変色した人骨がまだいくつも残っていた。侵攻する米軍から逃れ、点在するガマに身を隠していた地元民たちのうち83人が自ら命を絶った。案内してくれた知花昌一さんは、僕ら内地からきた無知な訪問者たちを相手に実に丁寧に当時の様子を説明してくれた。1987年の沖縄国体で、戦前の軍国主義を象徴する日の丸を焼いたのが彼である。
母親が自らの赤子の顔を身体に押し付け窒息死させたり、首の頸動脈を切って血が何メートルも吹きだしながらもなかなか死にきれなかった人々の様子など、語り部である知花さんの話しは凄惨を極めた。
「ここでおこったことは『集団自決』ではありません。『強制死』です」
彼はきっぱりと言った。
米兵に追われ、されには日本軍からも捨て石として見捨てられた島民の多くは、投降することも許されずにいわば「強制的な自決」を強いられたのだ。
3ヶ月足らず沖縄戦での日本側犠牲者は18万人以上。戦後、沖縄が本土に復帰されたとき、沖縄の人々はこう思ったという。
「これで日本に戻れる。もう米国領土でなくなるのだから、基地もなくなる」
しかしその期待は裏切られた。さらに引き続く本土による沖縄「捨て石」政策によって現在も彼らは裏切り続けられている。県民にあれほどの期待を持たせた鳩山内閣の失脚によって、沖縄人の怒りはもう頂点に達しているんだ、そんな言葉が県民たちの口から何度も溢れでた。
今回、撮影取材ではなく、写真学校の講師という立場でこの地を訪れた僕は、限られた沖縄の人々のごく一面に触れたに過ぎない。しかし、仮に綿密な取材をおこなっていたとしても、この沖縄問題に関して僕に何ができるのか、はっきりとした答えなど見いだせなかったろう。沖縄をとりまく情勢はあまりに複雑だ。
「沖縄の歴史を、そして現実を正しく知ること」
これは「本土の若者たちに何ができるか?」という問いに対しての、伊江島の反戦平和資料館の謝花悦子館長の答えだが、まさにその通りだと思う。自戒を込めて言わせてもらえば、広島、長崎の陰に隠れてしまって、沖縄の歴史をあまりに知らない本土の人間が多すぎるのだ。
無知なことによって、意識せずとも加害者になっている。それが本土に住む人々の罪だ。こんなことをあらためて思い知らされた。
(写真:チビリガマ内に残った、風化した人骨と空き瓶)
(もっと写真を見る:http://www.kunitakahashi.com/blog/2010/09/05/okinawa-scars-of-war/)
無知による加害者・・・まさにその言葉が私に当てはまります。
鳩山内閣がなぜ基地問題に触れた時あれほどまで日本が揺れたのか、今やっと理解することができました。
そして、やっぱり無理です。解決できませんでした。ごめんなさい。では済まされない問題であることも。
武力で解決はできない
武器なき話し合いを私たちも心がけねばなりませんね。
失礼します。