先日アップしたブログにいろいろコメントをいただいたが、自分なりにまた考えてみた。
ホームレスの人たちにはその日の行動を自分で決める自由がある、という意見がある。
表面的な日常の行動だけを考えれてみれば、ホームレスのおっちゃん達のほうが「気楽さ」はあるかも知れない。しかしそれは、「自由」などといえるものなのだろうか?
「気楽さ」と「自由」は同じではない。「自由」というのは「幸せなこと」であると僕は思う。
10年前の新宿ダンボール村を取材したときもそうだったが、おっちゃん達と話をし、少しばかりの時間を共有した僕には、彼らが「自由」を楽しんでいるとはとても思えなかった。
多くの人が誤解、または見落としているのは、ホームレスの人達のほとんどが、そうなりたくてなった訳ではないという根本的な点だ。
ホームレス問題には高度成長期からの日本の経済構造が深く関わっている。ここはブログなのでその仕組みは詳しくは書かないけれど、いまホームレスになっているおっちゃん達の多くは60年代、70年代の建築業界でバリバリ仕事をして、戦後の日本を作り上げてきた職人たちだ。
そういう人達が、いま社会の底辺に貶められてしまっている。そして彼らを否応なくそういう環境に追い詰めたのは、現代の日本の歪んだ経済社会構造に他ならない。
彼らが気ままにみえるのは、どうにもならない現実のなかで、這い上がることを「あきらめて」しまったからだ。あがいても抜け出せないと思い知らされたからには、あとは現状の中でいかに楽に生きるかを考えるしかないだろう。多くのおっちゃん達は、はじめからテントのなかで生活したくてそれを選んだわけではない。
どれだけの人が、問題の原因を深く考えようとしているだろうか。単に自分とは関係のない世界に住んでいる人達という感覚で、現実から眼を背けているのではないだろうか?
「明日は我が身」となる可能性だって、少なくはないと思う。
それに気づいたとき、おっちゃん達の生活を、簡単に「自由に見える」などと言い捨てることができるのか。。。
(1996年新宿ダンボール村の取材についてはジャーナル参照
http://kuniphoto.com/ps_jh_story.htm )
ホームレスの人たちにはその日の行動を自分で決める自由がある、という意見がある。
表面的な日常の行動だけを考えれてみれば、ホームレスのおっちゃん達のほうが「気楽さ」はあるかも知れない。しかしそれは、「自由」などといえるものなのだろうか?
「気楽さ」と「自由」は同じではない。「自由」というのは「幸せなこと」であると僕は思う。
10年前の新宿ダンボール村を取材したときもそうだったが、おっちゃん達と話をし、少しばかりの時間を共有した僕には、彼らが「自由」を楽しんでいるとはとても思えなかった。
多くの人が誤解、または見落としているのは、ホームレスの人達のほとんどが、そうなりたくてなった訳ではないという根本的な点だ。
ホームレス問題には高度成長期からの日本の経済構造が深く関わっている。ここはブログなのでその仕組みは詳しくは書かないけれど、いまホームレスになっているおっちゃん達の多くは60年代、70年代の建築業界でバリバリ仕事をして、戦後の日本を作り上げてきた職人たちだ。
そういう人達が、いま社会の底辺に貶められてしまっている。そして彼らを否応なくそういう環境に追い詰めたのは、現代の日本の歪んだ経済社会構造に他ならない。
彼らが気ままにみえるのは、どうにもならない現実のなかで、這い上がることを「あきらめて」しまったからだ。あがいても抜け出せないと思い知らされたからには、あとは現状の中でいかに楽に生きるかを考えるしかないだろう。多くのおっちゃん達は、はじめからテントのなかで生活したくてそれを選んだわけではない。
どれだけの人が、問題の原因を深く考えようとしているだろうか。単に自分とは関係のない世界に住んでいる人達という感覚で、現実から眼を背けているのではないだろうか?
「明日は我が身」となる可能性だって、少なくはないと思う。
それに気づいたとき、おっちゃん達の生活を、簡単に「自由に見える」などと言い捨てることができるのか。。。
(1996年新宿ダンボール村の取材についてはジャーナル参照
http://kuniphoto.com/ps_jh_story.htm )
私の知り合いでもホームレスの取材とかをしていた人が何人かいて、彼らもそう言ってました。リストラにあったり、会社が倒産したり、つらい仕事をしていてふっと家に帰りたくなくなってそのままホームレスになってしまった人もいるそうです。
今の世の中、本当に誰がいつそのような状態になってもおかしくない現実があります。
何年か前の長銀のことにしてもそうです。
半分、お役所的な存在の長銀がつぶれるなんて!
東大出のエリート社員が突然職を失う。
自分の身にそんなことが降りかかるとは、思っても見なかったと知り合いの人は言っていました。
サラリーマンの世界でも、昔は許された失敗も今は許されず首にされた人も何人か知っています。だから、“明日は我が身”というのは、心の奥底でみんな考えているような気がします。
今の日本は、バランスが崩れてきているのかもしれませんね。
今回はお会い出来なくて残念でした
「フォトエッセイ」見ました。相変わらず何でも綺麗に撮るな~って感心してます
「勝ち組み・負け組み」私の解釈は「預金残高(財産)のある人が「勝ち組み」無い人が「負け組み」です
タイトルに精神的なものが含まれてるとは到底思えません。精神的な「勝ち負け」は個人の心の中で自分で判断するものですよね。他人の心の中を他人が判定する事は出来ません。お金持ってても「不幸」な人は一杯いるはずです。ホームレスのおじさん達は「金銭的な負け組」である事は間違いないと思います。
但し私はこう思います。「死ぬ覚悟」があるならホームレスから脱却する方法はいくらだってあるはずだ。とも。ある程度空き缶やダンボール集めたり何かしてちょっと小銭集めて、家賃の要らない公共の場所で何とか日々しのげてれば、これ以上望まなければ生きていけてる。そんな人がホームレスの中の大半だとすれば、命削って働きまくってお金稼いでる人から見たら「負け組み」って言いたくなるんじゃないかな。何の責任も持たない生活って・・・
ちなみに「勝ち組み」の写真は・・・何だかどれもちと違う
ぼくはフォトジャーナリストとして食っていきたいと考えている駆け出しのカメラマンです。
学生の頃、東京・新宿を歩きまわってホームレスのひとたちの姿を撮影していました。
撮りながら、いつも感じていたのはぼくが、いつこの立場になってもおかしくはないということでした。
ホームレスに関しては、ちょっと極端な意見だと思います。社会で働いている人がみな、命削って働きまくってると思いますか?大部分はそれなりにバランス保ってそこそこ楽しんでやってると思います。そういう平凡な雇用な機会さえもおっちゃん達からは奪われてしまっているのです。
ちょっと見方はずれてしまいますが、「命削って」という意味では、病気や寒さなどで、一人路上やテントのなかで死んでいくホームレスは相当数います。スライドショーのなかで取り上げた竹本さんのちかくのテント群では、昨年5人亡くなったといってました。「何の責任も持たない生活」とはいちがいにはいえないでしょう。
ひさびさに、このブログに来てみました。
トリビューンのエッセイは残念ながら、ちゃんと開けませんでした。
細かいつっこみですが、表参道ヒルズの一番高いアイスは、1300円ではなくて2300円ですよ(笑)。あそこは取材して、都市の再開発について、小さな記事書きました。
表参道といえば数年前まで、久坊という自称「浮浪者とかホームレスとか世間ではいろんな言い方があるけど、やっぱり浮浪者」なおじちゃんが、路上で人形をつくって売ったり(買う人見たことないけど)、詩を書いたりしていて、何度かお話したのを思い出します。
久坊は19歳で戦争から帰って「旅の人生」に決めたのだそうです。橋の下とか数箇所に布団や荷物があるとのことでした。とっても話のおもしろい方で、写真を撮らせてもらったら、「そんなに、ばちばち撮らずに、ピューリッツァー賞をねらって数枚だけ撮れ」とか、当時まだあそこに建っていた同潤会アパートの寂れた公園を指して、「再開発問題の象徴として、あれを撮れ」とか言われました。最近はもう見かけなくなってしまって、思い出すと心配というか寂しいというか…。
群れるのが嫌いだと言っていましたが、久坊のように選んで家のない生活をする人は、とっても珍しいのでしょうね。
彼らが住む場所には、やはり似た人たちがまた舞い戻ってくるのです。邦さんが書かれているように、万博時その場所は活気に満ちていたと言われています。
彼らのために動く人もそこで生まれ育ち、今は食事を配給したりしています。彼女が彼らについて語った時、貧しいことより人しての誇りを失ったことの方が深刻なことだ、と語っていました。
そしてブルーシートで暮らしている方の中には、少なからずバブル時にかなりお金を手にしていたと言うことも、関係者なら誰でもが知っている事実でもあります。
私が見たのは、そういった生活をしていて、親子で知的障害の人でした。女性も子供も多分いると思います。ただ女性は、自分だけの食べ物のためには、働けるし、子供には福祉施設がある分、見えない可能\性がありますが。
住所が不明で未成年の知的障害を持った十\代の子が、体をお金にかえて誰にも知られずに生きていたと言うことが数年前に起こった事件でした。
どうして”おっちゃん”は働けないのですか。