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「強烈すぎるので外してほしい。。。」
あるグループ写真展への出展が決まり、選考の対象として僕の選んだ十数点を主催者に送ったのだが、その中の一点に対して、こんな意見が出ているそうだ。写真は、砲弾をうけ、手を引きちぎられたリベリアの少女ムスが病院に運ばれていくところを撮ったものだ。
「またか。。。」この話を聞いた時、正直いって少々うんざりした。
この写真の展示に対して、このような意見がでたのは、もう何度目になるだろうか。。。もう2年近くも前に、僕の個展を最初に企画してくれた仙台のグループのときから始まって、「戦争が終わっても」の出版のときも同じ議論になったし、そしてまた今回もだ。(ちなみに、「戦争が終わっても」の時は、児童書出版物という特殊事情もあり、この写真のトリミングについて不本意ながら妥協せざるをえなかった)
「写真展に来てくれた人から苦情がくる」とか、「これを見た子供の気分が悪くなるかも知れない」という理由から、一部の保守的で心配性の大人たちがこのムスの写真を展示することに難色を示す。しかし、これまで全国8都市以上でこの写真を展示してきたが、そんな苦情は一件もよせられたことはないし、子供達はこの写真をみて気分が悪くなるどころか、しっかりと現実をみて僕に多くの感想を送ってきてくれた。
大人たちが思っている程子供達はやわではないし、こんな写真でもしっかり受け止める力をもっているんだなあと僕は感心したくらいだ。
「臭いものには蓋をする」ではないけれど、強烈すぎるなどといった訳の分からない理由だけで、現実から眼を背けるその姿勢に憤りを感じてしまう。オブラートに包んだような写真だけをみせて、人の心が動かせるのか?そんな写真の多くは、人々が展示会場を去り、雑踏に身を投じたとたんに忘れ去られてしまうのではないだろうか?
確かにこの写真はショッキングだと思う。2年半前に、このムスの姿を眼の前にしたときの衝撃を、僕は一生忘れないだろう。しかし僕は、写真をみてくれた人に、それと同じ衝撃を受けて欲しいと思う。そして、あのショックで眼を大きく見開いたムスの顔をずっと忘れないでいて欲しいと思う。なぜなら、それが「現実」だから。
僕は下手物趣味ではないし、衝撃的な写真ばかりが必要だといっているわけではない。ただ、ムスのあの姿には、そのショッキングさを超えて人の心に訴える強い力があると思うし、平和にぬくぬくと暮らしている僕らには、その非情で残酷な現実を直視する義務があるのではないだろうか。
あるグループ写真展への出展が決まり、選考の対象として僕の選んだ十数点を主催者に送ったのだが、その中の一点に対して、こんな意見が出ているそうだ。写真は、砲弾をうけ、手を引きちぎられたリベリアの少女ムスが病院に運ばれていくところを撮ったものだ。
「またか。。。」この話を聞いた時、正直いって少々うんざりした。
この写真の展示に対して、このような意見がでたのは、もう何度目になるだろうか。。。もう2年近くも前に、僕の個展を最初に企画してくれた仙台のグループのときから始まって、「戦争が終わっても」の出版のときも同じ議論になったし、そしてまた今回もだ。(ちなみに、「戦争が終わっても」の時は、児童書出版物という特殊事情もあり、この写真のトリミングについて不本意ながら妥協せざるをえなかった)
「写真展に来てくれた人から苦情がくる」とか、「これを見た子供の気分が悪くなるかも知れない」という理由から、一部の保守的で心配性の大人たちがこのムスの写真を展示することに難色を示す。しかし、これまで全国8都市以上でこの写真を展示してきたが、そんな苦情は一件もよせられたことはないし、子供達はこの写真をみて気分が悪くなるどころか、しっかりと現実をみて僕に多くの感想を送ってきてくれた。
大人たちが思っている程子供達はやわではないし、こんな写真でもしっかり受け止める力をもっているんだなあと僕は感心したくらいだ。
「臭いものには蓋をする」ではないけれど、強烈すぎるなどといった訳の分からない理由だけで、現実から眼を背けるその姿勢に憤りを感じてしまう。オブラートに包んだような写真だけをみせて、人の心が動かせるのか?そんな写真の多くは、人々が展示会場を去り、雑踏に身を投じたとたんに忘れ去られてしまうのではないだろうか?
確かにこの写真はショッキングだと思う。2年半前に、このムスの姿を眼の前にしたときの衝撃を、僕は一生忘れないだろう。しかし僕は、写真をみてくれた人に、それと同じ衝撃を受けて欲しいと思う。そして、あのショックで眼を大きく見開いたムスの顔をずっと忘れないでいて欲しいと思う。なぜなら、それが「現実」だから。
僕は下手物趣味ではないし、衝撃的な写真ばかりが必要だといっているわけではない。ただ、ムスのあの姿には、そのショッキングさを超えて人の心に訴える強い力があると思うし、平和にぬくぬくと暮らしている僕らには、その非情で残酷な現実を直視する義務があるのではないだろうか。
小学校では、担当の教師と話し合った上、写真の代わりに写真集を置きました。
以下は、そのときの子どもの感想のひとつです。
「片うでの少女もいんしょうにのこって、片うでをうしなっているのに元気でいるってすごいと思いました。」
詳細は、以下のトラバ先にアップしています。
この写真を展示するに当たって、私が留意したことは、必ず翌年、翌々年のムスちゃんの姿も見てもらうことでした。
それは、血を流しているムスちゃんの姿よりも、片腕の生活を強いる戦争の現実を現していると思ったからです。
強烈過ぎる写真が見られない人がいるのは確かです。
「恐い」「見たくない」あるいは、「気持ち悪い」。
見ることができない人に、どうしても「見ろ」とは言いません。
しかし、そこで問題であるには、「こんなことは見なかったことにしよう」「無かったことにしたい、と思うこと」だと考えています。
つらい、恐い、見たくない現実から、目をそらすだけではなく、その存在自体まで否定する。
それは、将来にとって大変危険であり、写真を撮った人、撮られた人にとっては、最も悲しい結末ではないかと思っています。
受けて欲しいと思う
久々に心が震えました。
以前、当時勤務していた学習塾における写真展で、
8歳の売春婦の写真を展示した過去の自分を思い出しました。
行動していない今の自分を気持ちよく痛感しました。
有難うございます。
私もやっぱり顔を少しゆがめてしまうけれど。自分を重ねて痛くなってしまうから。
でも、その後のムスちゃんのストーリーがあるから、救われます。感動するのです。
何にせよ、写真展を開く方たちととことん話してくださいね。
その通りですよね。私は無知なので難しい事は何一つ分かりませんが、新しい朝を迎える為にも直視する必要性を感じますね。