昨夜から写真学校時代のボストンの友人が訪ねてくるはずだったのだが、急にシカゴ行きが延期になったと連絡があった。彼とは2年程会ってなかったので、残念だ。
今日は休日。たまっていた雑用や、コンテストに応募する写真の最終チェックをして過ごす。
写真コンテストには、主なものとして「世界報道写真コンテスト」、「ピクチャーズ・オブ・ザ・イヤー・コンテスト」、「全米報道写真家協会年間コンテスト」があるが、それに地域的なもの、ここ中西部では「イリノイ報道写真家協会年間コンテスト」を加えた4つに僕は毎年応募することにしている。
基本的には同じ写真を応募するのだが、それぞれのコンテストによる規格やルールが違うので、準備に結構時間がかかるのだ。現在ではすべてデジタル画像で応募するが、写真の解像度、サイズから、応募写真の通し番号の付け方にいたるまで、それぞれのコンテストで全く違う。すべて統一してくれればこちらとしては本当に楽なのに、組み写真も含めて結構な数を応募する僕は、そういう事務的なことでえらい時間を浪費することになる。
そんなわけでこの時期はいつもコンテストの準備に追われることになるのだが、昨年末から石油プロジェクトのために出張が多くなることがわかっていた僕は、今回は早めにコンテストの準備を始めていた。おかげで新年の第1週を過ぎた頃には大方の整理もついて、今は余裕をかましながら最終チェックの段階にはいっている、というわけだ。
コンテストというのは、やはり審査員達の好みが大きく結果を左右するので、それぞれのコンテストで入賞する作品は随分変わってくる。万人の意見が一致する程の凄い写真でない限り、入賞は予想できないし、そういう意味ではコンテストなど水物に過ぎない。
ただ、僕ら写真家にとって、入賞すれば作品とともに自分の名前を知ってもらういい機会にはなる。写真が世界に配信されるAP通信やロイターなどの通信社、もしくはニューヨーク・タイムスやニューズウィーク、タイム・マガジンといった大メディア媒体で仕事をしていない限り、自分の写真が全米、または世界規模で発表されることなどそうそうあることではない。だからコンテストに入賞すれば、広きにわたるカメラマンや編集者のコミュニティーの間で、作品と名前が認知されることになるし、毎年入賞者として名前がでるような常連になれば、「こいつはいいカメラマンだ」と認められて箔がつき、次の職場にステップアップするときの有力な実績ともなるわけだ。
アメリカのコンテストは賞金に関しては涙が出る程みみっちいので、入賞したところで小遣いにもならぬほどの額しかもらえないのだが、まあ賞をとれれば気分的にも嬉しいし、それに越したことはない。だが、そういう対外的な理由以外に、コンテストに応募することは僕にとってまた別の重要な意味がある。
コンテストは、前年一年間の自分の写真を冷静に振り返って見直すことができる絶好の機会なのだ。
これはこういう風に撮るべきだったとか、あの取材では何が欠けていたとか、応募準備のための写真整理をしながら反省する。
イラクから始まり、リベリア、アフガニスタン、ニューオリンズのハリケーン、そして石油プロジェクト(この写真は来年に持ち越し)と続いた昨年は、忙しく飛び回っていたわりには、自分で本当に納得のいくような写真は撮れなかったような気がする。
単に仕事をこなすという意味では十分に撮れているのかも知れないが、自分のなかから充実感の湧き出てくるようなものが撮れなかった。だから、今回のコンテストには、心底自信を持って応募できる写真は一点もない。
入賞するしないに関わらず、自分が本当に好きになれる写真のない年というのは、悔しいものだ。
「今年はもっといいのを撮らないといかんなあ。。。」
なんだか良く分からないのだけれど、ちょっとした焦りにも似たような気持ちで、1月を過ごしている。
今日は休日。たまっていた雑用や、コンテストに応募する写真の最終チェックをして過ごす。
写真コンテストには、主なものとして「世界報道写真コンテスト」、「ピクチャーズ・オブ・ザ・イヤー・コンテスト」、「全米報道写真家協会年間コンテスト」があるが、それに地域的なもの、ここ中西部では「イリノイ報道写真家協会年間コンテスト」を加えた4つに僕は毎年応募することにしている。
基本的には同じ写真を応募するのだが、それぞれのコンテストによる規格やルールが違うので、準備に結構時間がかかるのだ。現在ではすべてデジタル画像で応募するが、写真の解像度、サイズから、応募写真の通し番号の付け方にいたるまで、それぞれのコンテストで全く違う。すべて統一してくれればこちらとしては本当に楽なのに、組み写真も含めて結構な数を応募する僕は、そういう事務的なことでえらい時間を浪費することになる。
そんなわけでこの時期はいつもコンテストの準備に追われることになるのだが、昨年末から石油プロジェクトのために出張が多くなることがわかっていた僕は、今回は早めにコンテストの準備を始めていた。おかげで新年の第1週を過ぎた頃には大方の整理もついて、今は余裕をかましながら最終チェックの段階にはいっている、というわけだ。
コンテストというのは、やはり審査員達の好みが大きく結果を左右するので、それぞれのコンテストで入賞する作品は随分変わってくる。万人の意見が一致する程の凄い写真でない限り、入賞は予想できないし、そういう意味ではコンテストなど水物に過ぎない。
ただ、僕ら写真家にとって、入賞すれば作品とともに自分の名前を知ってもらういい機会にはなる。写真が世界に配信されるAP通信やロイターなどの通信社、もしくはニューヨーク・タイムスやニューズウィーク、タイム・マガジンといった大メディア媒体で仕事をしていない限り、自分の写真が全米、または世界規模で発表されることなどそうそうあることではない。だからコンテストに入賞すれば、広きにわたるカメラマンや編集者のコミュニティーの間で、作品と名前が認知されることになるし、毎年入賞者として名前がでるような常連になれば、「こいつはいいカメラマンだ」と認められて箔がつき、次の職場にステップアップするときの有力な実績ともなるわけだ。
アメリカのコンテストは賞金に関しては涙が出る程みみっちいので、入賞したところで小遣いにもならぬほどの額しかもらえないのだが、まあ賞をとれれば気分的にも嬉しいし、それに越したことはない。だが、そういう対外的な理由以外に、コンテストに応募することは僕にとってまた別の重要な意味がある。
コンテストは、前年一年間の自分の写真を冷静に振り返って見直すことができる絶好の機会なのだ。
これはこういう風に撮るべきだったとか、あの取材では何が欠けていたとか、応募準備のための写真整理をしながら反省する。
イラクから始まり、リベリア、アフガニスタン、ニューオリンズのハリケーン、そして石油プロジェクト(この写真は来年に持ち越し)と続いた昨年は、忙しく飛び回っていたわりには、自分で本当に納得のいくような写真は撮れなかったような気がする。
単に仕事をこなすという意味では十分に撮れているのかも知れないが、自分のなかから充実感の湧き出てくるようなものが撮れなかった。だから、今回のコンテストには、心底自信を持って応募できる写真は一点もない。
入賞するしないに関わらず、自分が本当に好きになれる写真のない年というのは、悔しいものだ。
「今年はもっといいのを撮らないといかんなあ。。。」
なんだか良く分からないのだけれど、ちょっとした焦りにも似たような気持ちで、1月を過ごしている。
児童権利に関するNPOで活動していて、お写真を拝見させていただきました。私はジャーナリストになるのが夢でしたので、その点でもとても惹かれました。
早速、「戦争が終っても」を探しにこれから図書館と本屋さんに赴いてみようと思います。
まして、世界規模になれば、いったい何人の?
ご紹介の報道写真コンテストがあることも良く知りませんでした。
高橋さんの今年のご活躍を、心から応援しています。
今テレビでも放送されているフィギュアスケートの得点を見ていても、はてな?のことがよくありますもの。書の世界でも同じです。コンペで落ちてしまった場合の理由が、「たまたま決める人(企業の担当者など)がこれが好きだと言ったから。」は、よくあることです。
だから、結果がダメでも、そう落込むことはないけれど、(でも悔しいけれど)自分が自分の作品を納得しているかどうかなのです。果たして私は私の作品が好きかな?クライアントに合わせてしまって、納得していないかな? うーむ、むむむ。ということがあります。
写真のコンテストの場合は、どういう写真がよしとされるのですか?
題材? 構図? メッセージ性? 感動?
一年間の自分の仕事について客観的な視点で振り返る機会があるっていいな、と思いました。写真について何も知らないので、軽々しく言っていたら申し訳ないなと思いながら、呑気なことばを伝えたくなりました。
一つ、興味本位からの質問です。「高橋さんの中から充実感の湧き出てくるようなもの」、ってどんなものなのですか?(別に返事はご放念くださって構わないのですが、上記のような言葉を見ると、私がワクワクしてしまうのです)
たとえ、どこにいて、どんな仕事をしていても、プロだろうが、社会人1年目だろうが、同じようなことを感じることはあるんだな~と、何故か妙に…妙に、へぇ~…と思いました。
高橋さんのブログを読みながら、充実感というのは、他者からの評価からくるものではなく、自分の自分に対する評価や、自分自身の自分自身に対する納得からくるんだな~と思いました。
今回のブログを読んで、私は、今年2006年のテーマを「充実」と「挑戦」に設定しようと思いました。そして、どうやったら、今年の年末に「今年は何も思い残すことはない!」と言えるか、考えながら、日々を過ごそうと思いました。