ベルリンの壁が崩れたとき、私はアウグスブルクのクルーク夫人の家にいた。クリスマス休暇を彼女の家で過ごすことになっていて、マンチェスターからやってきた。テレビでは連日、壁を破壊する民衆の映像が流れていた。その年の6月に私はベルリンを訪れていた。まだ壁があった頃の西ベルリンだ。壁はベルリンの街をほぼ南北に走っていて、その中央あたりにはブランデンブルク門や旧国会議事堂があった。その壁の近くに「壁の博物館」というものがあった。東側から西側へ逃げてきた人々がどのような手段に拠ったかということの見本市のような展示だった。必ずしも東ベルリンから西ベルリンということではなしに、東側という政治体制からの逃亡の展示だ。そのなかで、直近の失敗事例も紹介されていた。記憶が定かでないのだが、確かその年の3月20何日かだったと思う。ハンガリーとオーストリアの国境を越えようとして30何歳だかの男性が射殺されたという記録があった。あれから何年もが過ぎて、時々その殺された人のことを思う。彼は果たして不幸だったのか、幸福だったのか、と。彼は西側への脱出を年末まで待っていれば、命を落とすこともなかったし、そもそも「脱出」も必要ではなかったかもしれない。しかし、彼は西側での生活に夢を抱いたままその生涯を閉じることができた。もちろん、無事にオーストリアに着いていれば、あるいは夢に抱いていた以上の愉快な日々があったかもしれない。ただ、確かな事は、彼が西側へ逃亡を企てたことで亡くなってしまったことが幸か不幸かということは本人以外には断ずることができないということだ。
タブッキの「時は老をいそぐ」を読んでいて、ベルリンの壁の博物館での記憶が蘇ってきた。この作品に登場するのは、旧東ドイツの元諜報部員、国連平和維持軍に従軍していて劣化ウラン弾に被爆して療養中のイタリア兵、ハンガリー動乱で対峙した元ハンガリー軍の軍人と元ソ連軍人、ルーマニアでファシスト政権時代にもチャウシェスク政権時代にも弾圧を受けて今はテル・アビブの老人ホームで余生を送るユダヤ系ルーマニア人あるいはルーマニア系ユダヤ人、そういう人たちだ。
今、自分はそういう人たちの物語を、人生ってのはわからないもんだなぁ、と他人事のように感じながら読んでいる。しかし、そんな劇的なことが自分に起こらないとも限らないのである。仮に去年の地震がもっと巨大で日本列島がどうにかなってしまったとしたら、今頃自分はどこでどうなっているのか想像もつかない。数奇な運命、などという文学的な表現では言い尽くせないような奇妙な経験をしているかもしれないのである。自分の努力と才覚でどうにかなることもあれば、どうにもならないこともある。要するに、人生は最後まで生きてみないとわからないのである。
「世の中でいちばん当然のものなんて存在しないし、物事というのは、考えて、望みさえすれば自分の望んだように存在するものだし、そうすれば物事は自分で導くことができる、そうしないと物事のほうに主導権を握られてしまう。」(「円」『時は老いをいそぐ』19頁)
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時は老いをいそぐ |
アントニオ・タブッキ | |
河出書房新社 |