goo blog サービス終了のお知らせ 

熊本熊的日常

日常生活についての雑記

時は老いをいそぐ

2012年07月09日 | Weblog

ベルリンの壁が崩れたとき、私はアウグスブルクのクルーク夫人の家にいた。クリスマス休暇を彼女の家で過ごすことになっていて、マンチェスターからやってきた。テレビでは連日、壁を破壊する民衆の映像が流れていた。その年の6月に私はベルリンを訪れていた。まだ壁があった頃の西ベルリンだ。壁はベルリンの街をほぼ南北に走っていて、その中央あたりにはブランデンブルク門や旧国会議事堂があった。その壁の近くに「壁の博物館」というものがあった。東側から西側へ逃げてきた人々がどのような手段に拠ったかということの見本市のような展示だった。必ずしも東ベルリンから西ベルリンということではなしに、東側という政治体制からの逃亡の展示だ。そのなかで、直近の失敗事例も紹介されていた。記憶が定かでないのだが、確かその年の3月20何日かだったと思う。ハンガリーとオーストリアの国境を越えようとして30何歳だかの男性が射殺されたという記録があった。あれから何年もが過ぎて、時々その殺された人のことを思う。彼は果たして不幸だったのか、幸福だったのか、と。彼は西側への脱出を年末まで待っていれば、命を落とすこともなかったし、そもそも「脱出」も必要ではなかったかもしれない。しかし、彼は西側での生活に夢を抱いたままその生涯を閉じることができた。もちろん、無事にオーストリアに着いていれば、あるいは夢に抱いていた以上の愉快な日々があったかもしれない。ただ、確かな事は、彼が西側へ逃亡を企てたことで亡くなってしまったことが幸か不幸かということは本人以外には断ずることができないということだ。

タブッキの「時は老をいそぐ」を読んでいて、ベルリンの壁の博物館での記憶が蘇ってきた。この作品に登場するのは、旧東ドイツの元諜報部員、国連平和維持軍に従軍していて劣化ウラン弾に被爆して療養中のイタリア兵、ハンガリー動乱で対峙した元ハンガリー軍の軍人と元ソ連軍人、ルーマニアでファシスト政権時代にもチャウシェスク政権時代にも弾圧を受けて今はテル・アビブの老人ホームで余生を送るユダヤ系ルーマニア人あるいはルーマニア系ユダヤ人、そういう人たちだ。

今、自分はそういう人たちの物語を、人生ってのはわからないもんだなぁ、と他人事のように感じながら読んでいる。しかし、そんな劇的なことが自分に起こらないとも限らないのである。仮に去年の地震がもっと巨大で日本列島がどうにかなってしまったとしたら、今頃自分はどこでどうなっているのか想像もつかない。数奇な運命、などという文学的な表現では言い尽くせないような奇妙な経験をしているかもしれないのである。自分の努力と才覚でどうにかなることもあれば、どうにもならないこともある。要するに、人生は最後まで生きてみないとわからないのである。

「世の中でいちばん当然のものなんて存在しないし、物事というのは、考えて、望みさえすれば自分の望んだように存在するものだし、そうすれば物事は自分で導くことができる、そうしないと物事のほうに主導権を握られてしまう。」(「円」『時は老いをいそぐ』19頁)

時は老いをいそぐ
アントニオ・タブッキ
河出書房新社

I'm sorry

2012年07月08日 | Weblog

子供と一緒に森美術館で開催中の「アラブ・エキスプレス展」を観てきた。この展覧会に限らず、近頃の現代アートの展示を観ていつも感じるのは、英語の「art」と日本語の「美術」や「芸術」は同じものではないということだ。「芸」のほうは、その表現技法に芸術家の発想や技量の独自性があるので、それを「芸」と呼ぶことはできるだろう。しかし、あまり押し付けがましく作家の自我や作家の眼を通した「現実」を主張されても、そこにあざとさを感じることはあっても「美」は感じられない。アラブの「アート」は、自分たちが置かれた「悲惨」な日常を闇雲に「表現」しているだけにしか見えなかった。

人は生まれることを選べない。生を与えられたら、それを全うするよりほかにどうしょうもない。戦争状態の場所に生を受けたら、そこで生きるよりほかにどうしようもないのである。それを変えたいと思うなら、その社会を変えるか、自分が生活の場とする社会を替えるよりほかに選択肢があるだろうか。「アート」という形で不条理を告発するのも「社会を変える」行為ではある。しかし、そこから何か豊かなものが生まれるだろうか?他者を糾弾する手段でしかないのなら、それは「アート」に名を借りた政治にしか見えない。政治が美しい、政治を考えると心が解放されるというのなら、それを「アート」と呼ぶのに何の不足もない。アラブという土地で生活をしたことがないので何とも言えないのだが、権力に対して暴力で向かい合う限り、それは双方の消耗戦にしかならないように思われる。つまり、どちらも相手を否定していながら、傍目にはどちらのやっていることも同じではないかと思うのである。あの展示会場にあった作品群が醸し出していた緊張感は、彼らが権力の側に立ったときに、今の権力側と同じように被支配層に向き合うことを示唆しているように見える。

展示作品のなかにイラク人作家の手になる「I’m sorry」というインスタレーションがある。アメリカの街を歩いていて、その土地の人たちと話をしているとき、「どこから来たのか」と尋ねられることがあるという。そのときにイラクからだというと、多くの人が「I’m sorry」と言うのだそうだ。大量破壊兵器を保有しているとの名目で軍隊が乗り込んでみたものの、結局はそういうものが発見できず、その戦争の後遺症で未だに政情が混乱を続けている。当のイラク人にとってみれば、いまさら謝ってもらったところでどうにもならないことだし、目の前の市井の米国人はそもそも自分たちイラクの人間の生活とは関係の無い人々なのだから、そこで「I’m sorry」と言われても当惑するだけなのだという。その当惑困惑を表現したのがこの作品なのである。確かに深い。戦争とはなにか、国民とは何者か、というようなことを雄弁に問うている。観る者に深く物事を考えさせるという点では確かに「芸術」なのかもしれない。

その後、サントリー美術館で開催中の紅型展を眺めて、なんともほっとした気分になった。もちろん、沖縄なのに雪にたわむ竹の画とか、沖縄には無い春夏秋冬の風物の絵柄といったものには、そうした絵柄の服を身にまとって、自分たちのステイタスを誇るいやらしさがある。「贅を尽くす」とか「豪華絢爛」というものの向こう側に透けて見えるグロテスクは、人間の虚栄心に拠るのかもしれない。しかし、使う人の生活を豊かにしようとの思いで作られたものが持つものと、誰かを糾弾しようと作られたものとは、同じ無機物であっても、なぜか同じ佇まいには感じられない。21_21の手仕事展に並んでいたものに至っては、妙に親近感を覚えた。結局、美しいというのは、人に緊張感を引き起こすのではなく、人の心を弛緩させるものなのではないかと思うのである。


perhaps the happiest year of my life

2012年07月07日 | Weblog

日本民藝館で開催中のバーナード・リーチ展を観てきた。予約しておいた記念講座「バーナード・リーチの人と作品:柳宗悦との交流を中心に」(お茶の水女子大学准教授 鈴木禎宏)も受講する。講義はリーチの生涯を概観するもので、改めて人生は出会いによって造られるとの思いを強くした。講義の趣旨の所為もあるかもしれないが、リーチの場合は柳との出会いが大きいものだったようだ。彼の自叙伝「Beyond East and West」のなかで我孫子時代を振り返ってこう記しているらしい。

“In this way began perhaps the happiest year of my life.”

仮に自分が今これから死ぬとして、これまでの50年間を振り返ったときに「the happiest year」と呼ぶことのできる時があっただろうかと打沈んでしまう。自分のわずかばかりの断片的な知識だけでこんなことを書くのは僭越あるいは無謀であることは重々承知しているが、彼の「happiest」の意味するところは、生涯を賭けるに足る生活の軸を手にしたということなのではなかろうか。結果として英国陶芸界の重鎮になったということもあるかもしれないが、おそらく彼は陶芸とそれにかかわる人々との出会いによって、その生涯を貫く価値観の基軸を手にしたということについて「happiest」だと言っているような気がする。例えば、リーチと柳が出会うのは1909年。富本憲吉、浜田庄司、河井寛次郎といった「白樺」やその後の民芸運動の中心人物たちとも20世紀初めのこの時期に出会い、1920年に浜田を伴って帰国して、セント・アイヴスに築窯する。その後の第二次世界大戦では英国と日本は互いに敵国となるも、そうした困難を超えて、まさに「beyond East and West」の交流が続き、そこから様々な成果が生み出されていくのである。自分のなかに基軸が無ければ時代を覆う皮相な世論に翻弄されて自分の人生を生きるというような実感はとても持つことができなかっただろうし、そこに「happy」など生まれるはずもないだろう。人は経験を超えて発想することはできない。人の経験というのは結局のところは他者との出会いの蓄積なのではないかと思う。


交代

2012年07月05日 | Weblog

2003年10月以来使ってきたシェーバーが壊れてしまい、勤め帰りに量販店に立ち寄って新しいのを買ってきた。売り場で困ったのはどれを選んだらよいかわからないことだ。店の方でそれなりに絞って品揃えをしているのだろうが、それでもメーカー数もそれぞれの機種数もかなりなもので、何か自分のなかにシェーバーに関するこだわりのようなものがないと選びようがない。すぐに思いつく基準としては、替え刃がどこでも手に入る、手入れが簡単、くらいのものだ。店頭では手書きのPOPなどもあって一応商品の特徴らしきものは訴えかけられている。しかし、ざっと売り場を一回りして、「スタンダード」というカテゴリーの「売上1位」というのを選んだ。おそらく、実際に売れているというよりも、メーカーからのインセンティブが相対的に大きいということなのだろう。

自分にこだわりがないと、ものを選ぶのに困惑する。逆に、こだわりがあれば、その尺度に従って選ぶので比較的楽に決まる。例えば、カメラは比較的簡単に決まる。まずはコンパクト。一眼レフというのは邪魔になるというのもあるが、あまり自由に撮りたいものが撮りたいように撮れるというのは面白くないと思うのである。なんでもそうだろうが、自分がやりたいことがあって、そこに諸々の制約がある。その諸々をどうやって克服したり、諦めたりするか、諦めるとしたらどのような代替を考えるか、というような工夫のあれこれに楽しさがある。とは言っても、譲れないところもある。カメラの場合、私はシャッターを切ってから画像が取り込まれるまでの時間が限りなくゼロでないと嫌だ。その点、デジタル一眼はあまりそこを気にする必要はなさそうだが、コンパクトはニコンやキヤノンといったメジャーの製品でも、よくこれで商品化に踏み切ったと首を傾げたくなるようなものがある。いや、最近はチェックしていないので「あった」というベきだ。結局、そこが決め手になってリコーのGR Digitalを使うようになり、現在はGR Digital IIIを使っている。たいへん使いやすく、困ったときにメーカーサポートも感じが良いので、次も同じシリーズにしようと思っているのだが、やはりカメラ本来の光学性能にも関心が出てくる。その点もリコーには満足だが、いろいろ他社製品への好奇心も増してくるものだ。そして、このブログにも書いたかもしれないが、昨年の終わり頃にライカのX1を購入したのである。

このライカは、さすがに素晴らしい画を撮ることができる。しかし、扱いが容易ではない。ぱっ、と取り出して、さっ、と構えて、さくっ、と撮る、というようなわけにはいかないのである。オートモードも当然に搭載されてはいるが、それで撮っていては、せっかくのレンズが活きない。かといって、まごまごしていると被写体がどこかへ行ってしまう。私は車を殆ど運転しないので本当にそうなのかは知らないが、所謂高級車、フェラーリとかマセラティとかランボルギーニといった車を扱うのと、大衆車を運転するのが全く違うのに似ているのではなかろうか。ライカはそういうカメラだと思う。

で、シェーバーだが早速使ってみると、今まで使っていたのと違って静かで、速くて、きれいに剃ることができる。買い替えで思い出したが、そろそろケータイもそういう時期のようだ。なんとなくバッテリーの持ちが悪くなってきた。昔に比べるとバッテリーも安くなったようだが、既に一回交換しているので、そろそろ丸ごと交換も考える時期かもしれない。


お好み焼きを食べながら

2012年07月04日 | Weblog

このところ毎日のように昼にお好み焼きを食べている。職場近くに、少なくとも3軒のお好み焼き屋があって、それぞれに個性あるお好み焼きを出している。今日は今まで行ったことのない店にしようと思い、トルコ料理屋に行ってみた。特に何も考えずに頼んだランチセットがギョズレメだった。これもお好み焼きのようなもので、メインの具材はさすがにキャベツではなく、チーズだ。ピザのようなガレットのような、そういう食べ物である。ふと、粉を水に溶いたものを焼いて具材を併せるという料理は世界のあちこちにあるなと思った。朝鮮半島ではチヂミ、インドではチャパティ、フランスではガレット(クレープ)。自分が食べたことのあるものだけでもこれだけあるのだから、きっともっとたくさんあるにちがいない。

とすると、粉を溶いて焼くという、人の発想は民族や文化を超えて共通だ。違うのは何と併せるかということだ。食材が与えられたときに、それをどう加工・調理するかというところの民族や文化の差異をもたらすのは、自然環境を除くと他にどのようなものがあるだろうか。


少し焦る

2012年07月03日 | Weblog

陶芸は、天地30センチほどの壷が2つ制作途上にある。片方は既に素焼きから上がり釉薬を掛けている。先週掛けた飴釉が薄かったので、今日は外側だけ再度掛け、そこに鉄赤と黒釉を散らして本焼きに出した。酸化焼成の予定である。もうひとつのほうは、先週削ったのだが、まだ土が柔らかかったのでひっくり返すことができず、一週間置いて今日、底を削る予定だったのだが、まだ柔らかく、来週に持ち越しとなった。それで時間が中途半端に余ったので、久しぶりに茶碗を挽いてみた。土練りまではなんということもなく進み、轆轤にセットしていざ挽き始めると感覚が思い出せない。どうしたっけかなと思いながら、小さめの丼鉢のようなものができあがった。まだ土が残っていたので、引き続いて茶碗を挽き、こちらはなんとかそれらしくなった。感覚が抜け落ちるというのは初めてのことだったので、これはマズイことになったと対策を思案している。


「お話ししましょう」

2012年07月02日 | Weblog

諸々の審査が終わり、婚活が始まった。システムはだいたい想像がつくと思うので説明は省くが、お相手候補の簡単なプロフィールが届き、それをみて相手に「お話ししましょう」というメッセージを送る。相手が受諾すれば2人用の掲示板が立ち上がり、そこでやりとりが行われる。この段階で、相手の個人情報の肝心なところは伏せられているので、「お話し」の段階でどうこうなるわけではない。それほどたくさんの候補者がいるわけではないし、掲示板のやりとりには150字という制限もあるので、そう時間を取られるようなこともない。掲示板から先となると、お互いにいろいろ事情もあるだろうから、慎重になるのは理解できる。しかし、掲示板を立てるくらいは気楽に受けてもよいのではないかと思うのだが、そういうわけにはいかないらしい。当然、私のほうにも「お話ししましょう」が届く。これは全て「OK」で返し、掲示板を立てている。

私の場合、対象を自分と同い年から10歳下までに設定してある。身も蓋もない言い方をすれば、「イイ歳」だ。それでも「未婚」というのが思いの外多くて驚いている。当然、恋愛のひとつやふたつくらいは経験して、あいにく縁を結ぶことなく齢を重ねてしまったということなのだろう。ただ、自分がこれまでに職場などで目にしていた高齢未婚者にはある種の共通点がある。今回、婚活を始めた理由のひとつには、こういう連中と同類とはみられたくないという思いもある。敢えて「共通点」の内容には触れないが、その共通性に対する漠然とした思いは、これからしばらく続くであろう婚活を通じて確信に変わるのではないかとの予感を覚えている。

例えば、仮にほぼ同条件の相手が2人いたとする。プロフィールも容姿も甲乙つけがたい2人だ。ただ、片方は未婚でもう片方はバツイチだとする。私は、まずバツイチの人と話をしてみたい。それは何故かというと、…