熊本熊的日常

日常生活についての雑記

孫帰る

2012年07月28日 | Weblog

横浜にぎわい座で落語会のダブル。13時半から談笑の独演会、18時から落語教育委員会。寄席も一度にたくさんの噺を聞くところだが、独演会や落語会となるとひとつひとつのネタ、ひとりひとりの受け持ち時間が長くなるので、寄席とは全く違った重みというか内容になる。落語はもちろん噺家の話芸だが、生身の人間が演じるのだから、そこにその場における関係性の表れとして噺家の口演を通じてその瞬間の時代とか文化といった全てが凝縮されて表現されている、と大袈裟な物言いもできなくはないだろう。何度注意されても口演中に客席で携帯電話の着信音が鳴るのも、自分では満足に扱うことの出来ない道具を持たないと生活できないという現実とか、不特定多数が上手い事折り合いを付けていこうとすればどうしてもマナーが不可欠だという人としての常識が理解できない畜生が人間界に紛れ込んでいるという現実とか、その場にそぐわない奴でも木戸銭さえ払えば入り込んでしまうという現実といったものを象徴していると見ることもできる。そう考えれば口演中の携帯着信音も鑑賞対象の一部になる。ちなみに、今日は談笑の「芝浜」のはじめのほうで、口演中に電話で話をはじめたお婆さんがいた。それを、しょうがねぇな、とは思いながらも風景の一部としてやりすごす演者も他の観客も今の時代の何事かを物語っている。

ところで喬太郎の「孫帰る」のような噺を聴くと、落語はいいなぁとつくづく思う。人の先入観とか習慣を微妙にずらしたりひっくり返したりするところの面白さ、それを目の当たりにすることで自分のモノの見方が刺激されることの快感、といったものが落語の笑いのなかにあるように思う。ただ人を蔑んだような馬鹿笑いが世の中には蔓延しているし、そういうことにしか笑えない奴が多いのも現実ではある。落語がそうした馬鹿話と一線を画すのは、「孫帰る」のような人の心の奥深いところを、そっと撫でるようなところから起こる笑いにある。落語がもともとは法談だったことのDNAのようなものの表れがこうした新作にもあるのではないだろうか。「孫帰る」では、その孫がじいちゃんとの会話のなかで、この噺の真実を明らかにするくだりがある。そこを潮に会場全体の空気が一変する。たちまち水を打ったようになり、それまでとは別世界が現出する。何の舞台装置もなく、口演だけで、会場という無定形のものが生き物のように様相を変える。その真っ只中に身を置いていることの幸福のようなものは、ほかの演芸ではなかなか無いのではなかろうか。この水を打ったようななかで携帯が鳴ったら、鳴らした奴は即刻死刑だ。

 立川談笑 独演会

笑二 「唐茄子屋」
談笑 いろいろ小咄、「紙入れ」
(仲入り)
談笑 「芝浜」

開演 13時30分
終演 15時40分


落語教育委員会
古今亭菊六(9月21日に古今亭文菊を襲名し真打昇進予定) 「猿後家」
喜多八 「千両みかん」
(仲入り)
喬太郎 「おーい中村君」で終るのかと思いきや「孫帰る」
歌武蔵 「皿屋敷」

開演 18時00分
終演 20時25分

いずれも会場は横浜にぎわい座