熊本熊的日常

日常生活についての雑記

バベルの塔

2009年02月10日 | Weblog
外国人記者団のプレスツアーの取材を受ける精密板金業者で、その取材に同席させていただく機会を得た。取材時間は1時間半。最初の1時間が会社側からのプレゼンと質疑応答で残り30分が工場見学。

この会社では、航空機や鉄道車両の座席に使われる金属板の加工という仕事の一方で、そこで培った技術やノウハウを応用して自社ブランドのカバンなどを製造・販売している。今回のプレスツアーの関心も、その自社ブランド事業にあった。会社側からは自社ブランド誕生の経緯や全社のなかでの位置づけのような説明があり、記者側からは事業環境や業績面に関する質問が多かった。この質疑応答がかみ合わない。当事者同士はそれぞれにフラストレーションが溜まっているようにも見え、それが傍目には面白くもあった。

マスメディアというのは文字媒体であれ映像音声媒体であれ、限られた面積と時間のなかで伝えたいことを的確に表現しなければならない。そのためには情報を可能な限り単純化し、読者や視聴者に要求するリテラシーを軽減しなければならない。だからマスメディアが流す情報は規格化されている。記者は取材内容をその規格に合うように加工し、それに多少の脚色を付けていかにも独自性があるかのような記事内容に作り上げるのである。結果として、どの媒体も事実の断片に情緒的な文言を付しただけの似たり寄ったりの内容を配信することになる。媒体に物珍しさがあるうちは、それでも商売になるのだが、中身の無いものが市場経済のなかで売れ続けるはずはない。新聞雑誌の購読者が減少し、テレビの視聴率が傾向として低下するのは当然なのである。断っておくが、マスコミを批判しているわけではない。単に産業の内容を大雑把に要約しただけのことだ。

そうした情報の規格化に有効なのが数字である。情報の骨格である5W1Hは、その殆どの要素を数字あるいは数字的記号で表現することが可能だ。例えばある会社やその製品を紹介する記事には、いつからどのような目的で始めて、その事業規模がどのような推移を辿ったかということ、より具体的にはどれほどの売上と利益があるのかという情報が不可欠なのである。書き手に当該事業や製品に関するそこそこの知識があれば、手持ちの情報に取材で得た感触を数値化して記事規格を満足させるという芸当ができるだろうが、業界紙ならいざしらず、一般紙の記者にそのような匠の技など期待すべくも無い。

そんなことを知ってか知らずか、今日の取材に答える社長の口からは一切数字が語られない。社長の立場にしてみれば、数字なんかどうでもよいのだろう。はじめに自分の思いがあり、数字はそれにたまたまついてくるもの、という感覚なのかもしれない。そういう人を相手に取材をするなら、それなりに質問を変えればよさそうなものだが、自分のなかに決まりきった取材フォーマットしかないと、それができない。要するに記者として勉強不足なのである。俗に「30倍の法則」というものがある。例えばA4版1枚の記事を書こうと思えば、30枚書くことができるだけの情報量が必要だというのである。これは情報収集の側にも当てはまることで、1つの意味のある情報を得ようと思えば、その30倍の周辺情報を事前に仕入れておかないといけないのである。

記者側の質問を聞いていて彼等が収集したい情報はよくわかった。事業環境の概況、殊に昨今の景気後退の影響とその対応策、順調な事業とその内容、今後の展望と戦略、といったことだろう。

部品事業は常に顧客からの過酷なコスト削減と納期短縮の要求に晒されている。その顧客が、そのまた顧客から同じ要求を受けている。市場経済のなかで事業を維持拡大しようと思えば、際限なく低コスト短納期が要求されるのは当然のことだ。それが市場での価値の源泉なのだから。しかし、コスト削減や納期短縮を継続するというのは容易なことではない。事業情報の適時開示を義務付けられている上場企業ですら、殊に部品系事業者は個別事業の利益情報は開示しないものである。部品系事業者に対し、計数情報を過度に求めないというのは、多少なりとも市場経済と当該産業についての知識があれば常識的にわかることだろう。限られた取材時間は有効に使いたいものである。

展望とか戦略というのも、一応聞いておく程度のものである。そもそも戦略というのは組織内部に秘めておくものであり、それを明かしてしまったら戦略にはならないだろう。自分がどのような手を指すか事前申告をしながら将棋をする人はいないだろうし、手持ちの札を表にしてポーカーをする人もいないだろう。

誰にでもわかる、とうのは誰もわからないということだと思う。マスメディアは誰にでもわかる情報を売ることを商売にしている。そこに高度な技術やノウハウが求められるからこそ、彼等に存在価値がある。そもそも無理なことをしようとしているのだから、たいへんな仕事だと思う。

今日同席させていただいた取材の席で、そうした記者団からの質問に対し社長の受け答えに振れがないのを見ていて気持ちがよかった。そこに経験を重ねることで得た確信のようなものが感じられた所為かもしれない。