熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「徒然草」

2008年12月24日 | Weblog
14世紀に書かれたものだが、そこに宿る感性や知性は現代においても全く違和感なく感じ取ることができる。人間の発想というものはそれほど変化しないものらしい。作者である卜部兼好は、その生年も没年もはっきりとわかっていないそうだが、朝廷に仕え、そこそこ出世した後に30歳前後で遁世者となったという。30歳で遁世とは早熟な人のようにも思われるが佐藤義清が遁世して西行法師と称するようになったのは23歳の時なので、当時としては驚くほどのことでもなかったのだろう。

「徒然草」の底流にあるのは、仏教的な無常観とそれに基づくミニマリズム的思想だ。ミニマリズムというのは「足るを知る」という考え方と言ってもよいだろう。

人はいつの世でも名利を求めるものであるようだ。そうした欲望があるからこそ、身を立て名を揚げんがために粉骨砕身する人が現れ、それが時に時代を変えるような創造あるいは破壊を生み出し、歴史が刻まれてきたのである。しかし、自分の外にあるものを追い求めている限り、欲望というものは永久に満足されるものではない。そこに邪心が生じ、不正をしてでも名なり利なりを得ようとする者も現れる。そうした世俗の姿を醜いと感じ、そこから距離を置こうとする価値観も同時に現れるのだろう。

兼好は、おそらく、名利を求めた時代もあっただろう。そして、人のむき出しの欲望というものの醜さを目の当たりにしたこともあったのだろう。だからこそ、遁世という道を選んだのだと思う。平凡だけしか知らない人間には名利も遁世も語ることができない。物事の表しか見たことが無い人に、裏の世界を想像することはできないし、極端を知らない人に中庸を語ることはできない。

「遁世」というと仙人のような浮世離れした生活を思い浮かべてしまうが、思いの外、波瀾万丈があったのだろう。結局、知恵というのは、思い悩み、決断を下して行動を起こし、その結果を受容して思考や発想が深くなる、という過程を経て身につけるものだろう。解釈ばかりしていて自分で行動を起こさないのでは、いつまで経っても経験することができないから、思考が深くならない。

読み始めたのは5月だが、今ごろになって漸く読み終えた。本文自体は長いものではないのだが、古文なので注釈と本文を行ったり来たりしながら読んでいるうちに時間が経ってしまった。第十八段については5月4日付「幸福な生活」にも書いている。

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