人の話は聞くものだとつくづく思う。同時に自分の物事の把握の浅薄さを猛省する。ひろしま美術館に「かなりすごい作品」がいくつもあることを友人から聞いていた。私はそれがこの国の地方都市にありがちな箱物行政のひとつだと思っていた。今日、実際にひろしま美術館を訪れてみると、なるほど小規模ながらもよくぞ集めたと思うような作品が並んでいる。但し、蒐集に筋が無い、良く言えば総花的、悪く言えば野暮なコレクションで、まるで美術の教科書のように思われた。上野の国立西洋美術館のミニチュアのような、といえば伝わるだろうか。当然、この作品群を見れば、誰が蒐集したのだろうかと素朴に疑問が湧く。そしてこの美術館の背景を知れば、野暮だの筋が無いなどという自分の見方を赤面しながら引っ込めることになる。これは教科書のようで良いのである。それを意図したのだから。
やはりこの美術館の端緒も原爆だ。この美術館は広島銀行の創業百周年事業として時の頭取であった井藤勲雄氏がつくったものだそうだ。井藤氏は地方銀行にありがちな創業一族出身ではない。普通の行員から出世した人だ。並の銀行員と違うのは、頭取にまでなるほどの人なのだからいくらでもあるだろうが、原爆を体験し九死に一生を得たことは何にも代え難い経験だろう。既に広島は何度も空襲を受けており、井藤氏は原爆投下時には家族を温品に疎開させ、たまたま前日に広島から温品の家族のもとに来て、8月6日の朝は温品から広島市内にある勤務先の芸備銀行本店へ出勤するところだったという。朝、玄関でゲートルを巻いているとき、閃光が走ったのだそうだ。近くの火薬庫が爆発したと思い、咄嗟に近くにいた我が子2人を抱いて蔵の陰に身を隠した直後、爆風に襲われた。私は原爆の惨状は勿論経験していないので、不用意なことを書くわけにはいかない。しかし、文字通りの焦土にあって、残された者に課されたものの重さはどうしたって想像のできるものではない。井藤氏はその残された一人なのである。そこで見た惨状に何を思ったのか、何を考えたのか。当時の芸備銀行には450名の行員がいて、原爆で144名が死亡、33名が重傷、生存した行員の大部分が負傷しており、焼け残った日銀広島支店の建物を借りて2日後の8月8日午前10時に営業を再開した時点で勤務可能な行員は25名だったという。たとえ本人が無事であっても当時の広島で生活をしていれば家族の誰かしかがどうにかなっていたであろうし、そうなれば勤めどころではなかったはずだ。去年の3月11日は東京でも震度5強を記録したが、あの程度のことで精神的にショックを受けて出勤できなくなった奴が現に私の身近に複数存在した。それを思えば、爆心地から半径500メートル以内での即死および即日死による死亡率が90パーセントを超え、写真で見ても生存者がいること自体が想像できないような状況で、被爆2日後に450名の行員のうち25名が出勤して業務を再開したということが驚異的なことだ。芸備銀行本店が鎮火したのは9月10日だったそうだ。どのような建物であったのか知らないが、銀行の本店になっていた建築物が1ヶ月以上燻り続けるほどの状況で、生き残った人々は文字通り必死で活動したのである。
その必死のなか、必死であればこそ、美術品が人の心にとって大きな意味を持つことを井藤氏は身を以て知ったという。陣中見舞いに訪れた友人が持参した南画に心癒され、出勤途上に原爆ドームの近くで見つけた夾竹桃の花に感動したのだそうだ。広島銀行が絵画を購入するようになったのは井藤氏の前任の橋本龍一氏が頭取の時代からで、副頭取として橋本氏に付いて画廊を訪れていたという。井藤氏が頭取に就任後、最初に銀行として購入したのがルノアールの作品。それをきっかけに絵画の蒐集が本格化し、ひろしま美術館の所蔵作品の原型を構成するに至る。井藤氏は、はじめは自分が気に入ったものを購入していたらしいが、ロビンソン・コレクションがまとまって入ってからは、個人としての好き嫌いではなく、美術史を踏まえて系統立てて蒐集するようになったそうだ。しかし、蒐集の範囲はピカソまで。つまり、自分が楽しむことができるものは市民の多くも楽しく眺めることができるだろうということなのである。蒐集は自分のためでもなければ銀行のためでもなく、市民のため、広島を訪れる人のためなのだ。そういうコレクションを持つので、ひろしま美術館は教科書のような美術館なのである。
それで、今日観た作品のことだが、確かにどれも「かなりすごい」ものばかりだった。一番印象に残ったのはピカソの「酒場の二人の女」だ。何がどうというのではない。存在感というか、目にしたときのパンチ力だ。ピカソの作品はどれも惹き付けられてしまう。次はセザンヌ、かな。「酒場の二人の女」に描かれているのは、たぶん商売女系だ。歳を重ねてみて改めて思うのだが、所謂「いい人」風の奴にろくなのはいない。自分のことを自分で決めるという人としての基本ができないようなのが多く、話をするとたいがいはがっかりさせられる。いい歳をして人生の節目となるようなことを決めるのに、親だの親戚だのがどうこうということを言われると、心底馬鹿じゃないかと思ってしまう。商売女系も大抵はそれ未満の阿呆なのだが、この絵に描かれているオネエサンたちは、多少は話の通じる人たちであるような気を起こさせる。ピカソの手にかかると、そんなふうに人物が見えるのである。
ひろしま美術館を出て福屋八丁堀本店へ向かう。昨日、しゃもじ制作者の三好さんと電話で連絡がついて、今日午前11時に福屋の入口で待ち合わせて受け渡しをすることになったのである。私にしては珍しく、少し時間に余裕を見て待ち合わせの10分前に福屋に着いたのだが、三好さんご夫妻は既にお待ちだった。受け渡しだけで終わるはずもなく、20分ほどいろいろ楽しい立ち話をさせていただいた。これが縁になって、これからお付き合いが始まると楽しいことになるだろう。また、そういう交遊関係を築くことができるような内実のある人間にならないといけないと思う。ものづくりの当事者というのは、少なくとも私の知る限りの人たちは皆、本人がそれとは意識している様子もなく、私の心に響く言葉を語る。その度に、それに返すことのできない自分を歯がゆく感じる。やはり今回失業したことを転機に自分の生活をまともな方向へ持っていかないといけないとの思いを新たにした。
一旦宿に戻って、ひろしま美術館の図録と三好さんのしゃもじを部屋に置いた後、県立美術館へ行く。企画展は伝統工芸展だ。去年、日本橋三越で観たものが巡回しているものだが、何故か初めて目にする印象のあるものが少なくなく、改めて自分の眼のいい加減さを思い知る。常設のほうは、広島県に縁のある作家の作品を中心に展示してあるほか、県に縁の人から寄贈された作品もある。ちょうどボランティアによるギャラリートークがあったので、ご一緒させていただいだ。参加者が私を含め2人だけだったので、一方的に説明を伺うというよりも、作品を前にあれこれ会話を楽しむというものになり、午後2時に始まって、終了は午後4時だった。おかげさまで、初めての土地をひとりで訪れたのに、楽しい会話の記憶が詰まった1日になった。
明日は午前9時過ぎの新幹線で大阪へ発つ。
瓦礫の果てに紅い花~ヒロシマに美術館をプレゼントした男の物語~(仮) | |
長谷川 智恵子 | |
WAVE出版 |