熊本熊的日常

日常生活についての雑記

心地よい距離

2012年04月04日 | Weblog

新しい就職先で勤務が始まってから何人かの人たちに挨拶状を出すつもりでいるのだが、このブログを読んで私の就職のことを知り、声をかけてくれる人がいる。大変嬉しく、また、ありがたいことでもある。今日はそんなひとりであるかつての同僚と黒澤で昼食を共にした。ちょっと落ち着いて食事をするのに良い場所だが、相手があって来るところであって、ひとりでふらりと立ち寄るタイプの店ではない。職場が霞ヶ関にあった頃はここは自分の昼食圏内の辺縁で月に一度くらいの割合で来ていたが、別の職場に移ってからは年に一度くらいになってしまった。

会食を終えて一人になり、国立演芸場で寄席でも聴こうかとも思ったのだが、今週は金曜土曜連続で落語会に出かけることになっているので、今日は美術館へ出かけることにした。銀座線で上野に出ると、平日昼間だというのに妙に人が多い。上野の山に登ってみれば、お花見の人たちが集まっていることに気がついた。桜というのは不思議なもので、日本人の間では今時分の時候の挨拶に必ずといってよいほどに言及される。ソメイヨシノの淡い色の花が咲き乱れている様子を眺めると妙に嬉しくなるものだ。その散りっぷりも見事で、花が終わると一斉に落花して直に若葉が木を覆う。このあたりの潔さのようなものに惹かれる。

国立西洋美術館での企画展はユベール・ロベール。一体誰だろうと思ったら、普段は常設本館2階の新館側の壁に廃墟をモチーフにした大型の作品2点が掛かっている作家だった。フラゴナールと同時代の人で、言われてみればそういう空気があるようにも感じられる。その展示の最後のほうに皿に描かれた油彩が3点並んでいる。彼は画家として宮廷に出入りしていたため、フランス革命で投獄され、獄中でそうした作品を残したという。これが売れたのだそうだ。油彩が描かれていれば皿としては使えないが、装飾としては確かに文字通りの絵皿だ。彼の時代は廃墟がモチーフとして流行したのだそうだが、時間の経過や物事の栄枯盛衰の象徴としても面白い題材だ。傍目に「面白い」と見えても、それ自体は本来の存在価値を失っているというのは、廃墟に限ったことではあるまい。だから廃墟の画というのは、単なる風景ではなく見る人に何事かを問いかける普遍性を帯びている、と見ることもできるのではないだろうか。

東京藝術大学大学美術館にも足を運んでみる。本館は休館中だが陳列館で大西博の回顧展を開催している。大西は私と同世代だが昨年3月に亡くなっている。勿論、面識はない。いつものように同世代人に妙に興味を覚える習性の赴くままにあれこれ想像を巡らせているだけのことだ。琵琶湖で釣りをしていて水に落ちて溺死したのだが、きっかけはあの大震災だったのかもしれない。東京藝術大学の准教授であったのだから東京かその周辺で暮らしていただろう。震災とそれに続く原発事故の影響を憂い、妻と子供たちを妻の実家があるドイツへ避難させて単身生活を始めた矢先の事故だったという。趣味が釣りで、おそらく、家族を避難させて一息ついて、好きな釣りに出かけて災難に遭った、ということではなかったか。私も離婚して単身なので好き勝手にふらふらしているが、家族と一緒に暮らしていればそうそう遊んでもいられない、と思う。

それで大西の作品だが、今回初めてみた。彼はラピスラズリからウルトラマリンブルーを精製する技術を研究しており、その道では世界の第一人者だそうだ。ウルトラマリンブルーといえばフェルメールで、大西の「水景」シリーズをみるとフェルメール作品の空気感がウルトラマリンブルーに拠るところが大きいことが了解されるだろう。

芸大美術館を出たとき、既に午後4時を回っていた。今日は外出したついでに夕食をkif kifで頂くことにしようと思っていたので、それまでの時間潰しに閉館時間の遅い美術館を訪れることにした。鴬谷から山手線に乗って新橋で下車。電通ビルの地下にあるアド・ミュージアムに行く。

アド・ミュージアムでは企画展として「学生広告賞展」が開催されている。面白かったのは中国大学生広告芸術祭学院賞のコーナーに並んでいた作品だ。なんとなく「中国」というと高度成長期の日本のように収益のためなら環境破壊など気にしないかのような印象があるのだが、そこに並ぶ作品の背後にある知性や感性はそうした野蛮なものとはほど遠い良識溢れるもののように感じられる。同じ人間なのだから当然なのだが、中国の人も環境問題に関心を払っているということを知って驚く自分に驚いた。学生の作品全体について共通しているのは、多少うるさいと感じられることだ。確かに広告というのは伝えたいことを広く適切に伝達するメディアである。伝えたいことが多ければそれ相応に記号を散りばめなければならないと考えるのは当然だと思う。しかし、一度に伝えることができることというのは知れている。確かに不特定多数を対象とする広告は受け手のリテラシーが一定していないので球数を増やして伝達確率をある程度確保するという発想は理解できないわけではない。ただ、そうなると広告の持つ美しさのようなものが犠牲にならざるを得なくなり、受け手の感性に対するインパクトは減衰する。広報と広告とは一文字の違いだが全く異質のものだと思う。意味内容だけを表明して伝えるなら意匠は不要だろう。意味内容とその背後にある感性や知性を相手の感性や知性に直接訴えるために意匠やコピーが必要なのである。人は経験を超えて発想することはできない。意匠もコピーも結局は作り手がどれだけ意識的に生活というものをしてきたかというところが出来映えに現れるのではないだろうか。となると学生の作品が得てして稚拙になるのは仕方が無いとろこもある。ただ、広告は商売道具なので「仕方が無い」とは言っていられない。「広告」であるからには妥協は許されないのである。特に今の日本は国全体が萎縮しつつあるように見える。そうしたなかで広告のヒットを飛ばすのは至難だが、だからこそ、そこで働く人々は「勤め人」ではなく「クリエイター」と呼ばれる価値があるということなのだろう。

新橋から都営浅草線と三田線を乗り継いでkif kifへ行く。店に着いたのは外食での夕食には少し早い午後6時過ぎということもあり、私以外に客はいなかった。おかげで原さんと少し話すこともできた。冒頭にも書いたように、原さんからも「就職おめでとうございます」と声をかけられて嬉しかった。今日は原さんのおすすめに従い、以下の料理を注文する。デザートは自分で選んだ。

 牛スジとオニオンのグラタンスープ
 仔羊のクスクス
 八角アイスクリーム

クスクスのことは原さんのブログに書いてある通りだ。北アフリカには行ったことがないので、果たして自分が作るものが本当にモロッコやその周辺で食べられているものなのかどうかわからない、とおっしゃっていたが、私は「本場の」というのは単なる幻想だと思う。なかにはその土地のどこへ行っても同じものが出てくるというような料理があるのかもしれないが、文化というものが個人のレベルで全く同じということはあり得ないのだから、料理も然りなのではないかと思うのである。よく「おふくろの味」などというが、それが端的にステレオタイプの不在を語っている。みそ汁とかご飯というような一見シンプルでどこの家庭でも食卓にのぼっているものほど、その家庭の個性が現れているものだし、ましてや味付けの余地が大きくなる惣菜類ともなれば「本場」で括ることのできるようなものなど無いのではなかろうか。原さんがフランスでの修行時代にモロッコ人の同僚から伝授されたというクスクスは、それはそれとして「本場」のものなのだと思う。尤も、本職の料理人の世界ともなると、やはり標準というものが必要なのかもしれないが。

ところで、クスクスに付いてくるソーセージだが、いかにもイスラム風という感じがする。私はマンチェスターに留学していたときに夏休みとクリスマス休暇を利用してアウグスブルクでホームステイをしていた。通算すると3ヶ月間、3家族のお世話になった。そのうち2家族は世帯主どうしが姉妹なので実質的には3ヶ月間2家族とも言える。そのなかで、レジー・ナウマンさんのお宅はビールの醸造とソーセージの製造を家業にしていて、ビールとソーセージについてはいろいろ蘊蓄を聞かされた。ただ、ナウマンさんはドイツ語しか話さないし、私はドイツ語が不自由だったので、その蘊蓄がおそらく半分も伝わっていないのが残念だ。結論から言えば、ソーセージというのは加工食品だが、肉のもとになる牛や豚はつぶす時期によって脂肪の乗りも肉質も微妙に違うので、加工食品といえども種類によって旬というものが違うのだという。ソーセージの種類というのは数多あり、いろいろ聞き食べたのだが、今記憶に残っているのはバイスヴルストという牛の脳味噌を主原料にした白いソーセージのことだけだ。なぜそれだけ覚えているかというと、それが「一番旨い」と言われてお宅に滞在中は毎日のように食べ、マンチェスターに戻るときにはお土産に持たされて茹で加減について言い聞かされていたほどだからだ。そのアウグスブルク、正確にはその南にあるボービンゲン(Bobingen)という村で一月近く毎日のように食べた様々なソーセージの味と、今日のクスクスに付いてきたkif kifホームメイドのソーセージとは異質なものなのである。どちらがどうということではなく、どちらもそれぞれに旨いということだ。ちなみに、今日のソーセージもどこか懐かしい味だと感じたのだが、これを書いていてマンチェスターで住んでいた学生寮の近くにあるパキスタン人が経営しているケバブーハウスのソーセージに似ているかもしれない。その店も食材は手作り品だった。


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