熊本熊的日常

日常生活についての雑記

型紙がKATAGAMIになるということ

2012年04月20日 | Weblog

ルーチンだけの仕事からルーチンの無い仕事になると、不慣れということもあってなにかと気疲れがする。正式入社後最初の週を終えたが、この日が来るのが実に長く感じられた。

そんな夜は美術館にでも立ち寄ってから家路に就くことにしようと思い、三菱一号館美術館で開催中の「KATAGAMI Style」を観てきた。染め物に使う型紙を美術品として捉えるという見方は、民芸に通じるところもあるかもしれないが、使用している当事者からは生まれない発想だろう。なぜなら、型紙は消耗品であり、染め物という最終形に至る道程の一部でしかないからだ。ある体系があって、その一部だけを取り出して云々するというのは個々のパーツの機能を単独で評価する西洋風の発想のように感じる。

今年はオリンピックが開催されるが、チーム制のスポーツで日本発祥というものがあるだろうか?チームという有機的機能を有した集団においては個々の構成員がそれぞれに固有の役割を担うことが要請されている。それが細分化され専門化されているがゆえに、期待される機能に対する実現度合いというかなり明確な尺度が存在することになり、その尺度によって優劣が評価される。よく「あの人は優秀だ」とか「よくできる人」というような言葉を耳にするが、「できる」というからには「何が」ということが当然に想定されており、それはつまり単純化専門化されたことについての評価ということだろう。ちなみに、「よくできる人」というのと似た言葉で「よくできた人」というのがある。「る」と「た」という一文字の違いなのだが、意味は全く違う。日本語は難しいものだ。

それで型紙だが、あれを額に収めて飾るというような発想はやはりその文化の外の人ならではのものだろう。逆に、この国には別の世界の人が見れば「芸術」や「美術」と感じることができるようなものを、日常の職業として当たり前に拵えていた人たちが当たり前に存在していたということだ。それは我々が生まれ持った文化であり、その文化のなかで生きている自分自身の一部がそこに語られているということでもある。他人に評価されるからどうこう、というのではなしに、いいものを作って次の工程の人に渡し、最終的に立派なものに仕上がってみんなに喜んでもらおうという、生活の自然のようなものあってこそ後代に残るものができたはずだ、と思うのである。他人に迷惑をかけない、他人に喜んでもらう、そういう素朴な思いで自分にできることを黙々と続けていく。また、そうやってできあがったものを大事に使う人がいる。そういう社会に生まれたことは誠にありがたいことだと思う。いいものを観たな、そう思って美術館を後にした。

この美術館の建物のなかにカフェがある。ここでナポリタンスパゲッティをいただいてから家路に就いた。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。