熊本熊的日常

日常生活についての雑記

善意依存硬直組織

2009年02月06日 | Weblog
かつて「システム化の誤謬」と呼べるような事態があちこちで見られた。企業の業務を合理化するためにITシステムを導入したら、そのシステムによって業務が却って煩雑になってしまった、というようなことである。

帰国して間もなく1ヶ月が過ぎようとしているのに、勤務先での事務手続きが未だに完了していない。経費の精算や文具の購入などをウエッブ上で行うことになっているのだが、人事上のデータは東京勤務なのに、こうした周辺業務のデータがロンドン勤務時代のまま変更されていないのである。周辺業務については、ひとつひとつ「本当に必要なのか」ということを吟味し、個々に変更の申請を出すのだそうだ。

社員用のウエッブ画面を開くと画面を埋め尽くすほどの多数のメニューが現れる。つまり、それだけ個々の作業や手続きが細分化されているということだ。全体に共通する人事情報などの大元のデータは各サブシステム間で共有されていて然るべきだと思うのだが、そうではないらしい。それぞれのサブシステムに個別の管理者がおり、ひとつひとつを変更するのにそれぞれに申請が要求される。これを社内では「グローバルシステム」と呼ぶ。

巨大システムといえば、身近なものは金融機関や政府関係のものがある。誰しも経験があるだろうが、今は地方自治体や国家機関の窓口の対応は懇切丁寧である。「お役所仕事」という言葉があるが、今は民間企業以上に個別の事情に応じて柔軟に対応してもらえるようになっている。まだ妙な手続きが無いわけではないが、官公庁の仕事の実体は「お役所仕事」という言葉の内実から、少なくとも利用者にとっては良い方向に乖離しつつあるのではなかろうか。

その昔、私が社会人になった頃は、社内のそれぞれの部門に生き字引のような人がいて、厄介な問題が生じても、そういう人の助言や奔走で丸く収まるというようなことが多かった。それがシステム化だの合理化だので、そうした暗黙知の塊のような人々が職場から淘汰されてしまい、決められたことを杓子定規に実行するだけのマニュアル人間が残される結果となった。しかも、雇用がこれほど不安定になれば、自分の評価に関係のないことには関与しないという姿勢が蔓延するのは当然だろう。なにか困ったことが生じた時、それは専らその事態周辺の人々の善意に期待するしかない、というのが現状であるように感じられる。

私のこの職場での仕事にしてもそうである。作業量の変動や休日の並びによっては、作業の流れに滞りが生じてしまうことがままある。そういう場合、本来は休みであるはずの人が自発的に出社したり自宅からシステムにアクセスしたりして仕事をこなし、滞りの発生を回避している。それはその人の善意に拠るものであって、そうしなければならない責任も義理もない。

少なくとも、自分の身の回りには未だに「システム化の誤謬」とも言えるような事態が存在している。このようなことは過去の勤務先では経験をしたことがない。これは単にシステムの問題ではなく、組織の仕組みや管理に根ざした問題であることは容易に想像がつくが、現象面としてはこうした個別の事象に端的に現れるのだろう。かつて企業再生の仕事に従事していた時に、破綻した企業をいくつか見てきたが、そうしたところでもマネジメントの不在というのは共通した特徴であった。企業とは利潤獲得を目的とした仕組みである。社員の間で共有されている目的もなければ、企業活動を円滑に動かす仕組みもないというのでは、いくら資本の注入を受けたところで、企業は存在できるはずがない。

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