熊本熊的日常

日常生活についての雑記

過去の過ち

2013年12月21日 | Weblog

インドの婚礼についての講演会を聴講した。婚礼という儀式を綿密に観察することによって、それぞれの文化において「自己」を規定するものがかなり違いがあることを知り、驚いた。もちろん、人間の発想には文化や民族を超えた普遍的な部分もあるのだが、自分と同じように誰もが考えることというのは思いの外限定されているのではないだろうか。

講演のテーマはインド西部のラージャスターン地方の婚礼だ。インドに限らず南アジアの婚礼は盛大なことで知られている。「婚礼」はいつから始まっていつ終るのか、という定義をせずに日本や欧米と同じように考えることはできない。というのは、婚約の儀式から婚礼の儀式まで10年以上かけることも珍しいことではなく、しかもそれほど時間をかけても当人同士は婚礼の儀式のときが初対面ということも当たり前にあるのだという。

日本国憲法の第24条には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」とある。この前提として個人というものが「合意」の主体として存在していなければ、ここで言われている「婚礼」が意味を成さない。第13条には「すべて国民は、個人として尊重される。」とあり、いわゆる「基本的人権」というものが当然に保障されるべき存在として規定されている。しかし、その「個人」すなわち「私」というものが果たして誰にとっても同じものとして認識されているのか、ということはそもそも問われていない。よく「自己の確立」とか「自意識」とか「自我」という言葉は見聞きするが、そこを深く追求した議論というものは聞いたことがない。そもそも確たるものがあるわけではないので議論のしようが無いのだが、なんとなく「自己」とか「自我」ということで納得されてしまっているのではないだろうか。哲学や精神分析といった領域が教養の領域から抜け出すことができず、いつまでたっても医学や薬学のような科学や実学にならないのは、探求すべき根本を「自己」だの「自我」だのというあやふやなままにしているからではないだろうか。

それでインドの婚礼だが、個人や家族の行事ではなく、その人たちが属する社会全体の活動の一部となっているようだ。当事者どうしは婚礼当日まで互いを知らず、そのことを疑問にもされない、ということだけを取り上げても、婚姻が個人的なものではないことを見て取ることができる。家庭を構成することが個人的なものでないとしたら、「家庭」とは何なのか、「私」とは何者なのか。おそらく「私」は私的活動の主体ではなく、社会を構成する関係の表象でしかない、ということなのだろう。そう言ってしまえば身も蓋もないが、なんとなく腑に落ちない感が残るのは、「私」というものの認識が疑問の対象にもならないくらいに集団意識の奥深いところで成されていて、「私」以外の「私」の認識を容易に受け容れることができないからではないか。婚礼というような社会のなかで広く執り行われる儀式には、儀礼という形式の背後にある歴史や文化を注意深く探求することで明らかになることがいくらでもあるということなのだろう。

ところで、このブログの1985年2月26日に登場するバンガロールの医学生とは、その後しばらく文通が続き、数年後にそのうちのひとりから結婚式の招待状が届いた。バンガロールとかデリーとかだったら、出かけようと思って出かけられないこともなかったかもしれないが、インパールだったということもあり、それほど長い休暇を取ることができる身分でもなかったということもあり、出席はお断りしてしまった。しかし、今日の講演を聴いてみると、婚礼に出席するということは当事者とその家族、彼らが属するカーストや社会との付き合いにおいて重要な意味を持つということを知った。あのとき、無理をしてでも出席するべきだったと今頃になって申し訳ない気分と後悔の念とに苛まれている。