2月6日(火)、2月度「信長公記」を読む会がありました。12月、1月は出席できなかったので3ヵ月ぶりの出席でした。出席者は12名でした。
11月の読む会では、巻十二(6)赤井悪右衛門退散の事 に入ったところまででしたが、12月、1月の読む会で(6)赤井悪右衛門退散の事は読了し
(7)荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事 の最初の段 「9月2日夜、荒木村重は五、六人の供のみを連れて伊丹有岡城を密かに脱出し、尼崎へ移った。」読み終えていたようでした。いよいよ地元の話に入ったわけですが、その続報のダイジェスト版が (18)伊丹城相果だし御成敗の事 に書かれているので、これについても1月の会で読まれていたようです。
ちなみに信長公記の中野続報は下記の部分です。
(13)伊丹城謀叛人の事 :10月15日、伊丹で滝川一益の調略が奏功崩れた荒木勢を尻目に織田勢は伊丹の町を損害なく奪取、有岡城は裸城になる。
(15)伊丹の城にこれある年寄共、妻子・兄弟捨置退出の事:11月19日、有岡城の荒木久左衛門ら村重配下のお歴々が妻子を人質として城中に残し、尼崎に入って村重に意見しの・・・
(16)親王様、二条御新造へ行啓の事 の後の段:伊丹有岡城の村重配下池田和泉が自害
なぜ村重が数名で有岡城を脱出、伊丹に移ったのかということですが、砂川先生は毛利方だった、備前の宇喜多直家や伯耆信長方に寝返ったこと信長方に寝返ったことなどにより毛利の援軍が帰国したことなども行動につながっただろうが、何を目的に村重が動いたのかについては理由を一つに限定は出来ないと仰る。城を出た村重は短時日の内に再び有岡に戻るつもりだったのが、結果的に戻れなかったのではないか・・・。
9月4日には播州より羽柴秀吉が安土来て、信長公へ「備前の宇喜多直家より赦免の条々を申し入れてまいりましたゆえ、何とぞ安堵状を下されますよう」と言上した。しかし信長公は「自分の意見を聞かずに赦免を示し合わすとは、曲事なり」と怒り、即刻秀吉を播磨へ追い返した。
*信長は自分の権威を守った
*北陸からの無断の陣払いの時にもペナルティはなかった。信長と秀吉は馬が合ったのだろう。
9月10日、播州の御着・曾根・衣笠の敵勢が一手となり、三木城へ兵粮を入れようと企てた。そこで三木城に籠る城兵たちもこの機を逃さず突撃し、谷大膳の陣所へ攻め入り谷大膳を討ち果たした。これを見て羽柴秀吉が立ち向かい、一戦に及んだ。この戦で秀吉勢は別所甚大夫らの首を挙げるとともに、安芸・紀伊の侍数十人をも討ち取ることに成功した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます