12月30日(水)、伊丹の法巌寺に年末の墓参にゆきました。
塚口の魚屋さん「魚里本家」では、祝鯛の販売、調理が最盛期に入っていました。
12月30日(水)、伊丹の法巌寺に年末の墓参にゆきました。
塚口の魚屋さん「魚里本家」では、祝鯛の販売、調理が最盛期に入っていました。
12月29日(火)、明石魚の棚商店街へ買い物に行ったときの様子です。
商店街の中へ一歩踏み込むと、正月用品を買い求めるお客さんで大混雑。人をかき分け歩いてゆく感じでした。
私のお目当ては、正月用品ではなく「黒谷商店」の鰻の蒲焼き。炭火で焼きあげる自家製たれを使って関西風に焼きあげた鰻はふっくらとしながらも香ばしく、とても美味しいですよ。
12月28日(月)の西宮ガーデンズです。
上の写真からは全く年末の雰囲気は伝わってきませんね。
年末らしいところを捜してみました。食料品売り場は年末・迎春用品で溢れていました。
広場の植栽は迎春用でしょうか。
花屋さんです。
ナショナル・ジオグラフィック日本版 2015年12月号読了しました。
表紙と特集記事の目次です。気候変動大特集です。
一昨日のブログの続きです。
城址公園を出て、伊居太(いけだ)神社へ。
(WIKIPEDIAより抜粋)伊居太神社(いけだじんじゃ)は、大阪府池田市綾羽にある神社である。 呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる、織姫・穴織媛(あやはとりのひめ)と、応神天皇、仁徳天皇を祀っている。正式名称は穴織宮伊居太神社。(抜粋終わり)
参道の落葉は雨に濡れて・・・。紅葉の色により参道の色も変わります。
猪名川に出て唐船が淵へ。二人の織姫がついた港があったとされる場所です。
生誕120周年の芝居小屋、呉服座。もとは猪名川沿い(呉服橋の南)にあったのですが、昭和44年に閉館、塀漢語は愛知県の明治村で復元更改されています。今の呉服座は平成22年にオープン、月替わりで大衆演劇が上演されています。
かつての呉服座の写真。
吉田酒造。
池田市街地めぐりの最後は星の宮です。穴織宮伊居太神社の末社(御旅所)で、星の大神を祀っています。二人の織姫が機織りしていると多くの星が天から降ってきて明るく照らしたということから「星の御門」とも称されています。
池田市街地散策は終了です。
12月24日(木) 18時30分から武庫之荘のカフェ&バル 「SALUTE サルーテ」でやろう会の例会がありました。このお店は2ヵ月前に開店したばかりで、2階を貸し切りで使えました。今回の参加者は16名でした。
集合写真です。
美味しい料理にお酒、今年最後の会合でしかもクリスマス会とあって、盛り上がっているうちに恒例のビンゴゲームとなりました。写真の前列で賞品を持っているのは昨年に続き今年も一等賞のFさん。来年もやろう会の面々にとっていい年でありますように。
12月21日(月)、土佐堀会恒例のハイキングに参加しました。今回は「古代中国の織姫、呉織(くれはとり)、穴織(あやはとり)が池田の地で絹織物を始めた」という織姫伝説ゆかりの神社・遺跡・施設等を回り、忘年会を行うというもの。会員の奥様方も含め13名が参加しました。
駅の案内板です。駅周辺に観光するべき施設が固まっているのがわかります。
まずは呉服(くれは)神社へ。駅を出たすぐのところに鳥居が・・・。神社は少し奥まっています。昭和44年に造営された新拝殿。絹織物のたぐいをすべて呉服と呼ぶようになったのはここからなのです。
呉服神社は「呉服大明神」をお祀りしています。呉服大明神のご遺体が収められている姫室。ここに後から呉服神社が造営されたのです。
今、お正月の縁起物づくりの真っ最中です。
神社の前で記念撮影。
インスタントラーメン発明記念館は時間がないためパス。
アヤハトリ、クレハトリの両織姫が糸を染めたと伝えられている「染殿井」の跡。
池田文庫、逸翁美術館は休館でした。
池田城址公園へ。池田氏の居城跡ですが、現在は日本庭園、展望休憩舎を中心に「城跡の歴史を感じられる場」として整備されています。
茶室、展望休憩舎。
展望車からの眺め。池田市中心部、城址公園の日本庭園。
続きは明後日のブログで。
12月19日(土)14時から、尼崎中央企業センターでがありました。年末だからでしょうか今回も参加者は22名と少なかったです。
開講前の砂川先生のお話は、先般見に行かれた逸翁美術館の「2015秋季展「秀吉の時代 ―桃山美術の光と影」について。先生の好きな志野茶碗「大古久頭巾」をはじめ89点の出品を見て、大いに眼福を得たとのこと。
テキストは巻第十一の大臣殿被斬の最終部分。大臣殿父子の首が都に入り、検非違使どもが、三条河原にて受け取り、大路を引き回した後、獄門の左にある樗(おうち)の木にかけさらし首にした。
対句表現の最後の部分、「生きての恥、死んでの恥、いずれもおとらざりけり。」について・・・当時の風潮は①武士は勇敢の輩と言われていた。宗盛父子はあてはまらない。 ②また「降参した者は殺さない」ということもあったが、平家の作者はこれには触れていない。やはり「トップの場合は降参はない、最後まで戦い討ち死にをするべき」というのが当時の考え方だったのだろう。
いずれにしても「名を惜しむ」という価値観からはずれた親子であったのだ。
続いて「重衡被斬」の章に入る。奈良の興福寺、東大寺を焼失せしめた重衡は奈良の衆の求めにより奈良へ遣わすことになる。この章については来月のブログで・・・。
12月18日(金)、16時30分から三宮の「プチット」でプチット会がありました。私が昔勤務していた会社でプチットというお店によく行っていた人たちが集まる会で、毎年ルミナリエの開催期間の金曜日に開催されるのです。今年は一週間遅れでしたが参加者は16名、狭い店内がほぼ一杯になりました。
プチットのママ、Tさんです。ママの美貌(?10年前)と気っぷのよさに惚れて通っている人が多いのです。
店内の様子です。
皆の酔いが回って生きたところでK氏の司会により自己紹介&近況報告タイム。
会合は延々と続きました。