K.テツのひとりごと

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6月度「信長公記」を読む会

2024年06月17日 | 講座・会合

6月4日(火)、6月度「信長公記」を読む会がありました。出席者は14人でした。

テキストに入る前に最近発見された新資料「天正5年3月22日 堀正秀宛 羽柴秀吉書状」が砂川先生から披露されました。

・天正6年2月に謀反を起こした別所長秀、今まで天正5年3月の雑賀攻めの際の動向は不明だったが、本資料によりはっきりした。「別所長秀はこれまでの経緯に不満があったのか陣所を引き払い退去してしまった」とある。先生は秀吉の別所に対する態度に問題があったのではと仰る。別所は名門赤松の庶流、家柄のない秀吉に指図されるのが面白くなかったのではないかと仰る。

テキストは巻十二(10)北畠中将殿御折檻状の事 の9月18日の段から。

9月21日、信長公は京を出て摂津表へ出馬、その日は山崎に宿陣。22・23日は両日にわたり雨となったためそのまま山崎に滞留された。信長公はここで信雄殿に宛て、上方へ出陣せず私戦を起こしたことを叱責する内書をしたためた。

・砂川先生はレジュメ「惣国一揆掟の事」を解説、伊賀は傑出した家がないため水も漏らさぬ一揆を取り決め防御を図る難しい地域と解説。

・内書の内容は「若気の思慮の足りなさゆえ、国侍どもの言葉を真に受けてこのような戦を起こしたのか。まったくもって無念至極の行いだ。上方への出勢は第一には天下のためであり、また父への奉公や兄城介(信忠)を大切にすることにもなる。また信雄自身の現在未来のためにもなる戦なのだ。それを行わずに他所で戦を起こし、あまつさえ三郎左衛門を討死させしこと、言語道断だ。そのような覚悟でいるならば、もはや親子の縁を切ることさえ考えざるを得ない。以上、使者をもって固く申し渡す」だが、砂川先生は「信長は意外と子煩悩で情も厚い」とおっしゃる。

・砂川先生は「9月24日から28日の段では 小屋野の滝川一益陣所には逗留、塚口の丹羽長秀陣所では休息と異なる言葉を使っている。滝川一益とは後出の 女郎塚の中西への調略の相談をしていたのではないか。言葉が大事だ・・・さらに塚口まで来て、すぐそばにある七松に赴かなかったのは「信長公は村重のことを深刻に受け止めていなかった証だ」と仰る。

テキストは巻十二(11)人売りの事に入る。

・当時の日本では人売りがよく行われていたようだ。

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