4月26日(木)14時から小田公民館で開催された、尼崎郷土史研究会定期総会講演会「平清盛と尼崎」に行きました。講師は尼崎市教育委員会 歴博・文化財担当の楞野(かどの)一裕氏。レジュメで内容を理解したあとスライドでイメージを強固にするという方法での講演でした。
以下講演会の内容です。
はじめにNHKの大河ドラマの話があった後、平清盛の「悪逆非道」のイメージは”平家物語史観”あるいは”皇国史観”からきているわけであるが、実際に調査するとそのイメージばかりではないことが分かる。
1.清盛の生涯 (1)出自と出生 (2)武門平氏の棟梁から武家政権へ・・・レジュメの年譜などを使いとてもわかりやすく説明されました。
2.平安時代末期の尼崎
(1)神崎川河口の発達・・・785年に淀川と神崎川を結ぶ水路が開削されると、神崎川が京都と西国を結ぶ河川交通の主要ルートになり、河尻(神崎川河口)の諸港湾(神崎、大物、杭瀬など)は京都の外港、川船・海船の乗り換え地点として発達。
(2)大物・尼崎の発達・・・大物は12世紀中頃から文献に登場。大物の下流に砂州が集まってできた「尼崎浜」は大物よりはあと、治承年間 (1177-81)の貴族の日記が尼崎の所見資料?大物遺跡からは平安時代末期~鎌倉時代前期の輸入陶磁器を含む大量の遺物が出土しており、大物が瀬戸内有数の港湾であったことを示している。
3.寺江山荘と清盛
(1)幻の寺江山荘・・・平清盛と仲が良かった五条大納言藤原邦綱の別邸「寺江山荘」は寝殿造りの建物で、邸内の池には神崎川の河水を導入されていたことが文献から分かるし、また上皇、天皇はじめ貴族たちが訪れたこともはっきりしているのだが、文献に出てくるのは1179~1180年の2カ年間のみであり、存続期間は短かったのかもしれない。(邦綱の没年は1181年)
(2)邦綱について・・・藤原邦綱は摂関家の藤原とは異なり中級公家官人の出身で天皇家、摂関家と緊密な関係があり、正二位、権大納言という異例の出世を遂げた人で、摂関家領押領を献策するなど清盛と近い関係だった。
(3)所在地と遺構・・・記録からは神崎・大物間の神崎川―左門殿川沿いに所在した可能性が高い。今福付近か?しかし周辺地域での埋蔵文化財調査等では関連遺構は未発見なので現在の川の中かもしれない。
4.おわりに 尼崎の清盛伝承・・・大覚寺文書の中の「四条隆蔭書状」と「覚一本平語相伝次第」の2点の文書に出てくる。
きちっと整理され、わかりやすい講演会でした。