K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

5月度「信長公記」を読む会

2024年05月18日 | 講座・会合

5月7日(火)、5月度「信長公記」を読む会がありました。GW明けだったせいでしょうか、新しく加入された方1名を加えても出席者は少なく11人でした。

テキストは巻十二(9)宇治橋懸けさせらるるの事 から。

常見検校に対する訴訟ののち、信長公は検校が進上した黄金200枚をもって宇治川平等院前に橋を架けることを決め、築造を松井友閑・山口甚介に命じ、「末代のためである。丈夫に架橋せよ」と命じた。

*黄金200枚は現在価値で12億8千万円ほど。以前の法華宗宗論の時に裕福な法華(15ヶ寺)が払ったのと同額であることも踏まえ、常見検校はいかに分限者であったかがわかる。

*天正3年にも瀬田大橋を架橋している。橋は軍用、商用として重要でこの橋は京都奈良間の往来にとって必要なもの。信長は商売感覚に優れており、道路・情報を重視していた。

*砂川先生の話はテキストを離れ、信長は時宗道念上人の遊行を手助け、光秀、筒井順慶・・・、道念の記録には信長が入室すると雰囲気がパット替わったとある、一遍上人の遊行、時宗の僧たちは医学、連歌の知識に長けている・・・お茶の話など止まるところを知りません。

以前、浄土宗と法華宗が宗論を行い、法華側が敗北したことにより、信長公に京の法華坊主から償金として黄金二百枚が献じられていたが、信長公はこれを手元に召し置いておくのもいかがなものかと考え、伊丹表・天王寺や播州三木の付城群に在番して粉骨の働きを続ける諸将へ五枚・十枚・二十枚・三十枚と分け与えた。

また9月16日には、青地与右衛門を使いとして滝川一益・丹羽長秀の両人に馬が与えられた。

*荒木村重との戦の最中ではあったが、前節の当道座の話の裁定をするなど、信長は余裕綽々です。

 

テキスト、巻十二(10)北畠中将殿御折檻状の事 に入ります。レジュメの織田信雄の年譜を参照しながら・・・

9月17日、織田信雄殿は軍勢を率いて伊賀国へ攻め入ったが、逆に柘植三郎左衛門を討死させてしまった。

*信雄方の大敗です。

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