草若葉

シニアの俳句日記
 ~日々の俳句あり俳句談義あり、そして
折々の句会も

今日の俳句 夏/龍峰

2022-07-01 | Weblog
 
   名護屋城址大手口(正門)
 
       名護屋城址本丸跡 中央の碑は東郷平八郎の筆なる「名護屋城址」
 
先日所用にて佐世保まで出かけたが、往きに寄り道、博多より玄界灘を臨む筑肥線にて唐津まで行き、バスを乗り継いで50分ばかり、名護屋城址を訪ねた。
テレビドラマの太閤記等で登場する文禄・慶長の役(1592~98年)の拠点として、秀吉は、朝鮮半島へ渡る最短距離のこの地に名護屋城を築城した。城は当時5層の天守を備え、大阪城に次ぐ規模を誇った。全国160を超える大名や武将が築城に参加し、城の周りに各大名が陣地を構え、人口20万の都市を築いた。朝鮮半島へ攻め入った結果はご存知の通りである。そしてその寿命はわずか7年だった。
江戸時代に廃城になったが、現在まで残る大規模な石垣と城址の広大さ、幻の都市の大きさに秀吉の当時の威力を偲んで余るものがある。正に兵どもの広大な夢の跡である。
   
       崖抜けて玄界灘や朝の凪
       四百年の石垣堅固夏巡る
       太閤の野望ど豪(え)らし夏の夢
 
       家康のむかひ政宗夏の草
       兵どもつどひし跡や梅雨滂沱
       夏の海指呼の先なる対馬かな
 
       あじさいや呼子の浦の舟隠し
       二両電車佐賀平野行く梅雨晴れ間
       玄海の島また島や夏夕焼
 
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8 コメント

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好きな句 (ゆらぎ)
2022-07-02 14:48:20
龍峰さま
 懐かしき唐津。彼の地の名護屋城址をご紹介いただき嬉しく拝見しました。大手口や本丸跡を拝見すると結構大きなお城のようですね。久しぶりに九州地図を見ながら、名文、銘句を楽しませて頂きました。歴史感溢れる句から、四句を頂戴いたします。

(好きな句)
○崖抜けて玄界灘や朝の凪
 ~お城の跡を上がってゆくと、玄界灘が見えるのですね。朝の凪で静かな海の向こうに。今は平和ですが、その頃は、朝鮮に向かう船団が浮かんでいたのでしょう。色んなことを考えさせられる句です。

○太閤の野望ど豪(え)らし夏の夢
 ~”どえりゃあ”という名古屋弁が出てきました。豪は、訓読みで”えら”と読むようで、そこから”ど豪(え)らし”となったのでしょう。名古屋弁に詳しい龍峰さんには驚きました。ちなみに私は、ことこての名古屋っ子ですので、名古屋に帰ると名古屋弁になります。・・・”やっとかめなだなも”(あはは ・・・)

○兵どものつどひし跡や梅雨滂沱
 ~慶長の役のころは、多くの軍勢が唐津は名護屋に集まりました。この戦いは、慶長2年1月半ばから同3年11月中旬までですので、梅雨の時期もあ ったでしょう。その昔を思い浮かべる詠み手の心情が偲ばれます。

○玄海の島また島や夏夕焼
 ~玄界灘には数多くの島が浮かんでいます。そこに夏日を浴びての夕焼け。 詠み手は、昔のことを思って感無量になられたのでしょう。良き句です。
 
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お礼 (龍峰)
2022-07-02 22:37:22
ゆらぎ 様

早々にご笑覧頂き、4句もお取り頂き、思いの詰まったコメントを有難うございます。

ゆらぎさんにとりまして唐津が縁ある地とは、全く知りませんでした。お知らせすれば、唐津について事前に、情報が頂けたかもしれませんね。
名護屋城址は長年一度は訪ねたいと思っていた所で、今回機会が巡ってきました。今回おとずれて、秀吉の意気込みの凄さを、城跡の大きさや全国の大名武将を一か所に集めて20万の都市を作ったことより、強烈に感じました。

崖抜けての句、この地を訪れた日は穏やかで玄界灘と聴けば、荒れ狂う海を想像していましたが、穏やかでした。

太閤の句、「ど豪らし」が名古屋弁とは知りませんでした。現地に立って太閤の野望を考えてみた時に、なまじっかの言葉では、思いが伝わらないと感じて、つい出てしまった言葉です。

兵どの句、多くの兵が全国から集められたが、大名武将は館に住いを得たでしょうが、多くはいわば掘っ建て小屋でしょう。上も下も彼の地への侵攻だけが夢だったでしょうが、ままならず。その跡には今も昔も雨だけが、変わらず降っている。

玄海の句、島々の向こうの西に日が沈むころは、空は夕焼、島は黒い影一色、今日一日の見聞きしたことが改めて思い出されるのであった。
返信する
好きな句 (九分九厘)
2022-07-03 11:42:27
龍峰さん
       
 名護屋城の探索まで足を伸ばされた、龍峰さんの元気さに驚いています。私はこのあたりの土地勘は全くありませんが、俳句の中で特に景がよく見えてくるものを選んでみました。


    太閤の野望ど豪(え)らし夏の夢

 名古屋弁の「どえらし」が効いている句ですね。この方言は知りませんでした。私の郷里の岡山弁で、これに似た「おえりゃーせん」という「ダメである」の意味の方言があります。骨太の句です。

    兵どもつどひし跡や梅雨滂沱

 梅雨滂沱の季語が上五中七によくあっていて、語呂もいい俳句で好きな句です。

    夏の海指呼の先なる対馬かな

「指呼の先なる」の中七に、作者の思い入れと客観的な景が見えてきていい句だと思います。入社早々、高砂工場で通路を横切るとき「安全指呼」をいちいちさせられたことをふと想い出しました。

    玄海の島また島や夏夕焼

 玄界灘に見える、多くの島に順番に或いは同時に夏夕焼が訪れている景が見て取れます。
                    以上
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お礼 (龍峰)
2022-07-03 14:03:27
九分九厘様

早速ご高覧の上、4句お取り頂き、各々句に味わい深いご感想有難うございます。
正直なところ、想像以上に広大なエリアに城が築かれ、武将が集められ、文字通り日本国上げての戦だったことが、現地に立ってよく分かりました。そして秀吉の威力も。

  太閤の句、並の言葉では太閤の思いを伝えられないと思った次第です。

  兵の句、一瞬芭蕉の句が蘇りました。集められた将兵の思いは如何にと思いを馳せても、今となっては歴史の中の一コマと片づけられてお終いですね。何か無常めいたものを感じます。

  夏の海の句、高台の本丸跡から眺める玄界灘、連なる島の先が対馬だろうと思いました。中国・朝鮮半島との物理的な近さをひしと感じました。

  玄海の句、荒波、場合によれば怒涛を思っていきましたが、海は穏やかそのもの。それだけに西方に日の沈む瞬間は印象的でした。
返信する
好きな句 (葉有露)
2022-07-03 16:09:24
龍峰様

 玄界灘吟行をたっぷり味わうことができました。
小生もかって陶芸の里を訪ねて有田、唐津まではいきましたが、名護屋城址までは足が伸びませんでした。
 次の五句を頂いて行けなかった当地に、たたずんでいる気分になっています。

 ・崖抜けて玄界灘や朝の凪
 ・四百年の石垣堅個夏巡る    (堅固?)
 ・太閤の野望ど豪(え)らし夏の夢
 ・夏の海指呼の先なる対馬かな
 ・玄海の島また島や夏夕焼

 文禄の役は文禄元年(1592年)に始まり、十五万余りの大軍が朝鮮に出兵しました。島津義弘は一万の軍を率い、江原道に出兵しました。この一万の兵の中に、蒲生地頭伊地知重元、息子源吾と蒲生衆並びに家臣四十名が入っていました。勿論、此の名護屋城に集結しました。五月三日釜山に到着。
 江原道金化城迄重元(三十三歳)、源吾(十六歳)は進軍しましたが、この地でともども戦死しました。小生の父はこの蒲生生まれです。(現鹿児島県姶良市)
 折角の「草若葉」で私事に触れてしまい、大変恐縮しております。

               葉有露拝
返信する
お礼 (龍峰)
2022-07-03 19:57:54
葉有露 様

早速ご高覧頂き、5句も取り上げて頂き有難うございます。唐津に足を延ばされ、馴染みがあるのですね。
また、遠いルーツに関わるお話を頂き有難うご座います。ルーツの方が、名護屋城並びに文禄の役に関りがあることを知り、単なる遠い歴史上の出来事ではない身近なことだと分かりました。ぜひ名護屋城址を訪ねられることをお勧めします。

今回城址を訪ねて強く感じたのは、やはり秀吉のとてつもない野望と実行力そしてそれだけの威力を持っていたことです。わずか7年で城も街も閉じられてしまいますが、五層やぐらの天守閣を持つ城、周辺に集まる全国の大名武将の陣地、20万人の都市建設にはすごいエネルギーを感じます。この辺鄙な海岸まで迫る山あいの地、大変な不便を克服したものとおもいます。また、20万人の衣食住を支える兵站にも大きなエネルギーを必要とします。
なかなか実態のイメージが湧きません。
わずか7年の幻のプロジェクトにしては、現代人の想像を超える謎が沢山あるように感じます。

   
返信する
好きな句鑑賞、ほか (かつらたろう(桑本栄太郎))
2022-07-03 22:22:54
龍峰様

今晩は!!。
6月の内に「梅雨明け」となり、急激な酷暑の到来ですが厳しい暑さにも関わらず蝉の鳴き声が聞こえて来ませんね?蝉も梅雨の時季が短かければ、羽化も遅くなるようです。
このような酷暑の最中、良く出掛けられましたね?相変わらず、精力的に動かれ驚くばかりです!!。
肥前名護屋城は秀吉の時代の「文禄・慶長の役」で大変有名な歴史的場所ですね?小生も歴史小説が大好きで、この辺りを題材の物語は何度も読みました。肥前名護屋城は朝鮮半島出兵の為の軍事と兵站の拠点として築城され、全国より大名が集結したため一挙に華やかな街並みとなったと云われ、秀吉、家康も在城しましたが慶長の役後、秀吉は「大政所・・・秀吉の母」の死により、慌てて帰ったと云います。
現在では名護屋城址のみが残り、まさに「つわもの共が夢の跡」のようですね!!。

さて、沢山の吟行による佳句秀句の中より、以下の御句を選び鑑賞させていただきました。
       ☆崖抜けて玄界灘や朝の凪
海に程近く建てられたと云う名護屋城は、高台の崖を降りて行けば荒波逆巻く玄界灘に出る事が出来るのですね?しかし、この時は朝凪であったようですね!!。       
       
       ☆太閤の野望ど豪(え)らし夏の夢
秀吉は嘗て仕えていた織田信長の進取の気鋭を受け継いでいたと云われ、大阪城に於いて統一を果たした頃より、次は「唐の国」明国の平定だと叫んでいたと云われて居ます。まさに「どえりゃ~!野望だはね」のようです。
       
       ☆兵どもつどひし跡や梅雨滂沱
名護屋城の周囲には全国より諸大名があつまり、大陸出兵の拠点とすべく一大軍事都市であったと云います。朝鮮国王に明国への先駆けを依頼したものの、拒否され先ず朝鮮半島への出兵を行い、文禄の役の頃は加藤清正等の活躍により、攻勢をかけていたものの、慶長の役の頃は、その勢いも手詰まりとなり、秀吉の死後家康が幕引きを行ったと云います。あれ程賑わった肥前名護屋城も今では跡ばかりとなり、梅雨の雨の滂沱であったようですね!!。       
       
       ☆夏の海指呼の先なる対馬かな
朝鮮半島への足掛かりは対馬の大名宗智義の案内があってこそであり、名護屋城より対馬は指呼の距離であって、天気の良い日は良く見える程であったようです。
      
       ☆二両電車佐賀平野行く梅雨晴れ間
肥前佐賀は昔より半島経由の文化の入り来る土地でもあり、唐津焼でも有名で「葉隠武士道」でも有名な地ですね?今では、その佐賀平野を二両電車でガタゴト行くばかりであったのですね?
      
       ☆玄海の島また島や夏夕焼
玄界灘は荒海で有名ですね?又壱岐の島など沢山の島が点在して居り、夏の夕焼けは得も云えぬ程美しいものでしょうね!!。
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お礼 (龍峰)
2022-07-04 10:53:16
たらう 様

拙句より6句も選句いただき、懇切丁寧なコメントを有難うございます。

今回の旅で名護屋城址に立った時、「兵どもの夢の跡」であることには間違いないが、短順にこの一言で済ますには、あまりにも壮大な一大プロジェクトが展開され、そしてわずか7年でそれは消えてしまったことに強い衝撃に似たものを感じた。あたかも夏の夜空に、おおがかりな仕掛け花火を上げたような感じである。後はただただ疲労とむなしさが残ったのみではなかったかと思う。
現地で乗ったバスの運転手の話では、全国の大名たちが立てた館・陣地の資材・調度は全て国元から運んだと。当時の輸送・インフラを思えば想像を絶する困難な中での建設だったと思う。
横道にそれて失礼しました。

崖抜けての句、当日は穏やかな玄界灘でした。この筑肥線は海まで山が迫る半島を縫うように走っており、トンネルも多い。玄界灘と言えば怒涛をイメージしますが、凪だったので、逆に余計印象が深まりました。

太閤の句、正にど豪い野望でした。

兵どもの句、ご指摘の通りです。梅雨滂沱の如く涙を流した者もいたでしょう。自然は、人間の愚かさを無言のうちに考えさせようと、雨を降らせているようにも感じます。

夏の海の句、半島の先の本丸跡のの高台に立つと、300度見渡せる絶好の位置に天守閣はあった。恐らく、半島にわたる船団、その先の対馬も大きく見えたことでしょう。

二両の句、佐賀平野の田園地帯を二両電車で走っていると、大きな歴史の一コマはあったが、今は何とのどかな平和な事だろうと感慨にふけった。

玄海の島の句、先に記したように半島や島々が浮かんでいる。日が沈むころ夕焼と島々のシルエットが印象的でした。



    
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