草若葉

シニアの俳句日記
 ~日々の俳句あり俳句談義あり、そして
折々の句会も

俳句雑感(ゆらぎ)

2008-09-08 | Weblog
<俳句雑感>
 俳句の世界にまぎれ込んで、まもなく2年になる。そんな俳句初心者が思うこと。古くは、元禄時代のものを集めた「古句を観る」(柴田宵曲)を見ても、分りやすい句がほとんどである。芭蕉は、もちろん蕪村の句も特段分りにくいということもない。もちろん中国の古典や古歌に通じた芭蕉や蕪村のものには、それらの背景を知っていないと理解しにくい句もある。しかし、当時の俳句をたしなむ人にとっては、むしろおなじみの事と理解できただろう。たとえば、

 ”又平に逢うふや御室の花ざかり”

高橋治によれば又平は浄瑠璃「傾城反魂香」(けいせいはんごんこう)に登場する画家、浮世又平のことで大津絵の名手だったとか。その又平を引き合いにして、京都御室(おむろ)の陽気な花見を表現した。

 近代のものでは、漱石の句はまことに分りやすい。

 ”菫ほどな小さき人に生まれたし”
 ”木瓜咲くや漱石拙を守るべく”
 ”君が名や硯に書いては洗ひ消す”

 戦前・戦後の句も子規はもちろん、草田男も水巴も茅舎も万太郎も秋桜子も鈴木六林男も富安風生も、そして久女・多佳子・桂信子・星野立子などなどの句も、なんらの抵抗なく心にすうーっと入ってくる。虚子にしても、 ”脱落しさり脱落しさり明の春”、というように”身心脱落”という言葉を知っていないと理解できないものもある。とは言え、虚子の句のほとんどは分りやすいものばかりである。

 ”春風や闘志いだきて丘に立つ”
 ”時ものを解決するや春を待つ”
 ”たとふれば独楽のはじける如くなり”
 ”闘志尚存して春の風をみる”

 ”敵といふも今は無し秋の月”(昭和20年8月15日に詠まれた)
 ”父を恋ふ心小春の日に似たる”

 いずれも分りやすい。ただ、これらの句の背景を理解していると、より味わいが深い。

 さて現代である。諸兄姉のように鑑賞した句もそれほど多くないので、明言するようなことは言えないが、分りにくい句、したがってなじみにくい句が多いことは否めない。これはクラシック音楽の発展の歴史と似ているように感ずる。ルネサンスからバロックを経て、バッハからモーツアルト・ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、チャイコウスキー、そしてプッチーニ・ヴェルディなどのオペラの時代を過ぎ、現代音楽というジャンルの時代に入ると、なかなかなじみにくい音楽が出現した。古典・伝統音楽を越えようと、新しい試みがなされるのだが、心安らぐ曲や感動を呼ぶようなものは、なかなか現われていない。つまりクラシック音楽の時代は、作曲という点ではピークを越して、終わったような感がある。俳句も同様のことが言えるかも知れない。ピークは、過ぎてしまったと・・・・? だから、ことさらに難解な句が出てくる気もする。

 俳句の世界で見てみると、ある時代までは「一物仕立て」がほとんどで、「取り合わせ」の句はあまりなかったのではないか? それがクラシック音楽同様、多くの名句を越えようとの努力がなされ、「取り合わせ」の妙に重点が当てられるようになった。石田波郷が取り合わせを得意としたと言われているが、今日ほどの二物対立という程のものではなく、受け止めるに抵抗はない。

 ”朝顔の紺の彼方の月日かな”
 ”紫蘇濃ゆき一途に母を恋ふ日かな”
 ”泉への道後(おく)れゆく安けさよ”


 最近のものは、「取り合わせ」が多い。その辺のところを、片山由美子は次のように語っている。(「平成秀句選集、角川学芸出版 2007年6月) 百鬼さんのご紹介である。(私見であるが、かなり無理な取り合わせが多いように思う。だから分りにくいことにもつながる))

 ”両者は時代の流れの中でせめぎあい、ときには、一方が優位に立つが現在は
まぎれもなく「取り合わせが流行している時代である。取り合わせの遠近の妙に関心が集まっているといっているといってもよい、その背景には、季語そのものを主題とする「一物仕立て」の俳句が類想に陥りやすいということがある。つまり、名句とされる多くの先行句が立ちはだかり、新たな発想の句をつくることが極めて難しいのである。・・・・

 (そんなところに)一物派の有力な若手作家が登場した。津川絵里子である。「和音」という第一句集を引っ提げて颯爽と現われ、見事に平成18年度の俳人協会新人賞を受賞したが、まだ30代である。

  うっすらと空気をふくみ種袋
  見えそうな金木犀の香なりけり

  たくさんの吾が生まるるしゃぼん玉
  噴水の落ち行く快楽ありにけり
  鈴振るよう間引き菜の土落とす

作者ならではの感覚的把握は、季語そのものを凝視することで可能になったに違いない。”

そして片山由美子は、さらに同じく俳人協会新人賞を18年前に受賞した中原道夫の句、”飛び込みの途中たましひ遅れけり” をも、独創的な「一物仕立て」の句として挙げている。津川絵里子のその後を追ってみると、句集「春の猫」で平成19年角川俳句賞(長谷川櫂、正木ゆうこなどが選考委員)を受賞している。いずれの句も、難解な言葉がなく、すっと入ってくる句が多い。

 話は変わる。おなじ俳人協会で坪内稔典さんの主宰する「船団の会」に属する鳥居真理子の句集「月の茗荷」(20008年3月)を読んでみた。稔典氏いわく、「俳句を集めた句集を読んでも、読む楽しみにひたれる訳ではない。たいていの句集は駄句だらけ。よいと思う句が数句もあれば、それは上々の句集である。とてもはかないが、駄句の山からきらりと光る一句を探す行為、それが俳句を読む楽しみであろうか」 今までの俳句にはない新しい世界を感じるのだという。

  藤の昼雫抱くごと目覚めたる
  逢へぬ日は青嵐にでもなるか
  冷や麦のももいろ二本男娼風

「青嵐」の句については原始的な生命感が生き生きしているという。これはいい方で稔典さんには、光って見えるのだ。しかし中を見て行くと、ちょっと理解に苦しむのが多い。いやこれは私の鑑賞眼が出来上がっていないためかも知れない。

 椿咲きかみそりばかり眼にはいる
 後朝のそら恐ろしき冷やし瓜
 人形に微熱葡萄の木には月
 
 鍵穴の泣きじゃくりたり桃の花
 亡き母はぶんぶくちゃがま枇杷の花
 元旦の廊下に落とす玉子かな

 黒こんにゃくちぎってなげて椿かな
 くちびるの二枚の旬や山眠る

 
「取り合わせ」もふくめ、もっと分りやすい句を詠んで欲しいというのが偽らざる思いである。それには「一物仕立て」に挑戦し、句の味わいを極限まで高めてゆく、というのも一つのやり方でなないかと思案する。

 俳句初心者のたわごと、とお許しください。長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。





コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日の俳句 / 太刀魚 (九... | トップ | ゆらぎさん俳句雑感に寄せて... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
俳句雑感を読んで (やまもも)
2008-09-09 17:48:26
おっしゃるように、分りやすい俳句が第一と思います。「取り合わせ」の俳句は、限りない取り合わせのなかで、もがいているようです。ここでは、テクニックも大きくものをいうように思います。そして、もう一つ、季題ということについての検証も必要かと。季題をどうするのか、ただ季語を一句に貼り付ければよいのかという問題です。今、図書館にあったので、寺山修司の俳句を読んでいますが、若い時の句には、季語の意識が薄いと感じています。ただ、俳句を詠む人が俳句を読みあう結社は、宗教集団のようだとも言っています。俳句を詠む人以外の、俳句の読者の問題もあるように思います。少し言おうとされている事からそれてしましました。
中西進という万葉学者がおられますが、中公新書で「詩心ー永遠なるものへ」で、俳句を鑑賞されています。高橋治氏も、俳句鑑賞の本を書いておられますね。「詩心」という本は、俳句を客観的に記しておられるように感じました。
これからも、俳句については勉強していきたいと思っています。
返信する
お礼 (ゆらぎ)
2008-09-10 11:39:53
やまもも様
 長文を読んでいただき、ありがとうございます。
おっしゃるように季語・季題の扱いについては、もうすこしきちんとその意味するところを把握した上で使うべきですね。その意味で、いい加減な句が少なくないように感じております。自省を込めてですが、とくにアマチュアにおいて。

 中西進さんの本は、いい本です。万葉の歌、短歌と詩、それと俳句とを広く鑑賞していて、深い感銘をうけました。近々、読書日記に書きます。
返信する
分かりにくさについて (百鬼)
2008-09-11 12:15:04
ゆらぎ様と結論は違うのですが、同様の視点で感じていたことをボクのブログに書き込みました。長文の上に理屈っぽく煩わしいかとも思いますが、お暇な折にでもお読みいただければ幸いです。
返信する
好きな句 (龍峰)
2008-09-12 11:14:08
俳句は分かりやすいのがいいとは思いますが、その内に難しくしてしまうのでしょうか。

  敵といふも今は無し秋の月

読む人それぞれに深みは違うでしょうが、このような句を作れる心境が羨ましい限りです。


  
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事