flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

西尾城 東之丸

2007-11-30 00:00:25 | 城郭・城下町
(愛知県西尾市錦城町)
 西尾城本丸から西尾小学校脇の小道を通り、尚古荘敷地内に入る。同所へは、平成14年6月に訪れており二度目となる。

 尚古荘は昭和初期、米穀商大黒屋岩崎明三郎が西尾城東之丸六千三百五十四坪の内、約五分の一の敷地を取得して造った庭園である。平成8年(1996)市有化開放に際し、修繕が成された。
 
 土塁の一部を築山に、丑寅櫓跡には東屋を建て、堀跡を池及び小川にそれぞれ利用している。
 
 平成元年(1989)隣接する西尾小学校周辺の発掘調査が行われ、堀(溝)遺構が検出された。埋土内からは、江戸時代初頭の土師系土器(鍋、釜、皿等)が出土している。

 また、尚古荘の位置には、東之丸新門が存在した。故に現在の尚古荘前の道、県道383号蒲郡碧南線を新門坂と呼んでいる。この道路築造によって削られた土塁断面が、向かい側(家老屋敷側)に見ることができる。
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上田城

2007-11-29 00:00:21 | 城郭・城下町

(尼ヶ淵城 長野県上田市 国指定史跡 日本100名城29番 日本の歴史公園100選117番)
 元々小泉氏の館跡があったとされる旧千曲川沿いのこの場所に、天正十一年(1583)真田昌幸によって新たな城が築かれた。
 甲斐武田氏滅亡の天正十年(1582)「天目山」以後、旧領地に対しての和議が成立した。そして天正十三年(1585)徳川家康が真田昌幸に対して、北条氏に分け与えるべく真田氏領地の一つ、上野沼田の明渡しを要求したが、昌幸はこれを拒否し、徳川勢が攻め込むに至った。(第一次神川・上田城合戦) 然し真田勢はこれを保守し、徳川勢は撤退した。
 慶長五年(1600)石田三成が挙兵した際、策略を企て昌幸とその二男幸村(信繁)は石田勢に、長男信幸(信之)は徳川秀忠勢に加わった。そして昌幸らは降伏すると見せかけ、油断したところで反逆し、徳川勢を退けた。(第二次上田城合戦)
 その後、真田昌幸と幸村は九度山(高野山)に配流、信幸(信之)は上田城主となった。然し、元和八年(1622)信之は信濃松代へ移封となり、信濃小諸から仙石忠政が入った。忠政は、「関ケ原」直後に破却された城を復興、このとき築造されたものが、現存する西、南、北の櫓である。
      
 宝永三年(1706)仙石政明のとき但馬出石へ移封、代わって藤井松平忠周(ただちか)が入った。忠愛(ただざね)、忠順(ただより)、忠済(ただまさ)、忠学(たださと)、忠優(ただます)、忠礼(ただなり)と続き廃藩となった。
    
 現在、城跡には三つの櫓と本丸堀、土塁及び石垣、井戸、北虎口石垣と石樋、二の丸石垣と二の丸堀が残されている。二の丸堀はその後、上田交通真田傍陽線の路盤としても利用され、二の丸橋の下には、公園前駅が昭和47年(1972)まで存在していた。また、平成六年(1994)には北櫓と南櫓の間に東虎口櫓門が再現されている。
   
 この後、旧北国街道の町並みを漫ろ歩いた。

(関連記事:東信の夕暮れ

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八名郡 馬越城

2007-11-28 00:00:29 | 城郭・城下町
(愛知県豊橋市石巻本町)
 旧馬越村鎮守、素盞鳴神社には、幾つか棟札が残っている。
最古は永享九年(1437)と、寛正三年(1462)の為守右馬尉の名が見えるものがあり、次に延徳三年(1491)左近次郎、左近五郎(これらは牧野氏か)がある。その他、永正五年(1508)森刑部大夫、永正十六年(1519)鳥居を寄進した際の大檀那西郷信数(信員)、享禄五年(1532)境内牛頭天王社を寄進した際の地頭西郷孫四郎藤原信員等があり、また、西郷弾正左衛門信貞入道昌安(松平昌安)の名の棟札も存在する。これら人物がこの地の領主、及び馬越城に何らかの関係があったものと考えられる。
 
 私がこの辺りをまわり始めた昭和53年頃、付近の住民の方々に聞いたところ、馬越大池から上がった鉄塔の建っている辺りが城跡と伝わっているということであり、その場所に向かったことを思い出す。
 改めて今回上がってみると、沢伝いに上がり、鉄塔管理登山道等殆ど変わっていない様子だった。ただ、隣接する日名倉山が砕石によって小さくなり、その部分だけは面影がなくなっていた。
  
 鉄塔の付近は比高60mの尾根上で、地図上で確認しても周辺と比べ平地面積が広く、郭跡が存在したのかもしれないが、鉄塔建設によって改変されており、遺構から判断することができない。背後の斜面を念のため踏査したが、人為的なものは見出せなかった。また、日名倉山にも何らかの施設が存在した可能性もあるが、残念ながら採石によって今は確認することはできなくなってしまった。
 
(関連記事:西川城 高井城 萩平山城 堂山砦 弾正砦 五葉城 高城砦 嵩山城 左京殿城 和田城
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幡豆郡 徳永城

2007-11-27 00:00:45 | 城郭・城下町

(愛知県西尾市徳永町)
 コスモス道路から徳永の集落に差し掛かる。
この日祭礼が行われていた徳永神明社、円空仏の浄名寺、立清寺となっている徳永城跡を巡った。
 応永年間(1394-1428)徳永義雄がこの地を領し、城を築いたとされる。
廃城後の永禄九年(1566)義雄の位牌を祀るため、城跡の一角に浄土宗立清寺を創建したという。
寺の東側には竹薮となっている土塁が残り、以前は幅七間(約13m)の堀が存在したようである。また、義雄は応永八年(1401)徳永村東側、上道目記村に浄土宗授法山不退院上衍(じょうえん)寺を創建し、墓所も同寺にある。
 

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川中島 胴合橋

2007-11-26 00:00:40 | 街道・宿場町
(長野市篠ノ井)
 八幡原から南下、千曲川堤防下の小川に架かる石橋へ辿り付く。
往時は善光寺から松代に至る「長野道」に架かる橋であったという。
現在は“ドライブイン”敷地内となっており、この橋に直接通じる道は無い。標示が無ければ、その由来など全く感じさせないものである。然しこれは、平成15年の善光寺御開帳の際再現したものであり、往時からのものではない。
 永禄四年(1561)八幡原の戦いで「啄木鳥戦法」を見破られ、川中島西方、北小森村(勘助宮)で討死した山本勘助は、この場所で亡骸の血を洗い、離されていた首と胴体を合わされたという。故に後に胴合橋と呼ばれるようになったのだという。
そして橋の袂に墳墓が建てられたが、千曲川の水害が多い地であったために、江戸前期に千曲川対岸の東寺尾村に移葬された。
また、橋の前には、「鎮魂碑」が今年になって建てられた。


 胴合橋の南西、曹洞宗松操山典厩寺に向かう。
八幡原の戦いの際、武田信繁がこの地に陣を敷き、そして討死した。
寺内に亡骸を埋葬し、それまで鶴巣(かくそう)寺と称していた寺名を、承応三年(1654)に松代藩真田信之が、信繁の号典厩(てんきゅう)をもって改めたという。
   
 胴合橋と典厩寺の中間、往時は「長野道」沿いであった場所に鎮座する旧杵淵村鎮守、槌井神社に参拝し、松代へと向かった。

(関連記事:山本屋敷 勘助まつり 富士山本
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宇利城

2007-11-25 00:00:24 | 城郭・城下町

(愛知県新城市中宇利 県指定史跡)
 私がこの辺りを訪ねるようになったのは昭和53年、その頃何度かこの宇利城跡の山に登ったが、それ以来全く訪れていなかった。然し宇利城関連施設とみられる慈眼寺館慈廣寺、比丘尼城へは何度か訪れていた。
 今回27年振りに登り、周囲を見渡してみたが、以前と同様に登山道以外の場所は草深く、地形が見辛いのは相変わらずであった。また、中腹に建つ、「宇利の戦い」(後述)の際討死した、松平清康の叔父、福釜松平親盛の碑(寛保二年(1742)半原藩六代安部信平が建立)は一層風化が進んでいた。
 
 「御馬屋平」と呼ばれる郭入口の埋没した井戸は姿を現していたが、先回見られた主郭下の井戸は草木で覆われ、姿を隠していた。
 
 標高160mの主郭部に到着。「宇利城趾」「熊谷備中守実長碑」の石碑と、大きな看板は変わらずにあったが、大きな平面図の標示板が無くなっていた。そして「姫御殿跡」と呼ばれる二の丸跡は、変わらず草に覆われていた。
     
 主郭北西部に残る土塁の北側は堀切で、その北側には「納所平」と呼ばれる郭である。更にその裏手には堀切が残っている。
  
  草深い主郭跡下を搦手側から回りこみ、石積みを観察する。そして最後に二の丸東側、「御馬屋平」の郭へ向かった。
     

  
 宇利城は、文明年間(1469-87)熊谷重実が築いたとされるが、それ以前から熊谷氏がこの地に居住していたであろうとする説もある。
 享禄三年(1530)熊谷実長のとき、実長が松平清康勢に従わなかったため攻められ、防戦の後に火を放たれて落城した。
実長とその子直安は裏手から逃げ、設楽郡兎鹿嶋(北設楽郡豊根村)に落ち延びて行ったという。また、伝説には熊谷氏の娘が落城の際、金の茶釜と共に井戸に飛び込み、命を落としたというものがある。

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北浜川西 下矢田のコスモス

2007-11-24 00:00:10 | ふるさとの木々
(愛知県西尾市巨海町・下矢田町)
 枯木宮貝塚、巨海城跡の寺津小中学校高台から、コスモスの花が見えた。
北浜川から分かれる用排水路に沿って、「北浜川西を創る会」によるコスモス道路となっている。また、川上の下矢田町では、コスモス畑が広がっていた。

この後は徳永地区へと向かった。
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川中島 八幡原

2007-11-23 00:00:33 | 城郭・城下町
(第四次川中島合戦 八幡原の戦い 長野市)
 今回私は篠ノ井から青木島を経て、川中島入りをした。
辺りは「八幡原史跡公園」となっており、一角に長野市立博物館がある。
 八幡原は、永禄四年(1561)上杉、武田両軍の川中島での四回目の戦いが行われたところである。
  
 
 公園内には、村上顕清が勧請した八幡社があり、欅の神木の前には、「鞘堂」という旧社殿が建っている。また、この場所で信玄が陣を構えたという。
 
 八幡社の西側には、「甲越直戦之地」と刻まれた首塚(徳本塚)があり、高坂昌信が敵味方問わずこの場所に亡骸を葬ったとされる塚である。

  そして、社殿前には「執念の石」があり、謙信を討つことができなかった原胤歳(大隈)が、悔しさから、傍らにあったこの石を槍で貫き通したと伝えられている。

  また、社殿の東側には「三太刀七太刀之跡」の碑が建つ、これは謙信が馬上より信玄を三度斬りつけ、信玄はそれを軍配団扇で受け止めたが、後にその軍配を見たところ、刀の跡が七ヶ所残っており、後にこの場所を三太刀七太刀之跡と呼んだという。その一騎打ちの再現銅像が傍に建てられている。
 
  これら往時の再現の一環として、旗指物と馬防柵、矢玉を防ぐ竹束と物見櫓が設けられている。
   
 
(公園内に建つ、松代藩出身佐久間象山銅像)

この後は、胴合(どあい)橋方面に向かった。

(関連記事:山本屋敷 勘助まつり 富士山本
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額田郡 生田城

2007-11-22 00:00:51 | 城郭・城下町
(生田屋敷 愛知県岡崎市美合町)
 名鉄電車の窓から石碑が見える。これは昭和55年に建てられた「生田城趾」の碑である。
私が初めて訪れたのは昭和54年、まだ石碑は建っておらず、同じ一角が草生地となっていて、文字の読み取れなくなった「生田城趾」の木の標柱が斜めにポツンと建っていた。
その後、城の北西側を通る主要地方道岡崎刈谷線の築造工事が始まり、名鉄線をくぐる道路の工事が始まった。その際、名鉄線は城跡側に仮線を造ったため、城跡がより身近に見えたことを思い出す。
   
 足利氏族とされる荘田氏(生田氏)が鎌倉街道沿いのこの地に城を構えたのが始まりという。建暦元年(1211)生田四郎兵衛が、熊野権現から勧請し、村内に日吉神社を創建したとあり、その頃の築城と考えられる。
その後、荘田安守のとき松平清康に仕え、明和年間(1764-71)重勝のとき、豊前中津藩家老になるのに際し、廃城になったという。
また、天文十一年(1542)「小豆坂」の戦いの際、この地に今川勢が陣を敷いている。
 城跡には、第二次世界大戦まで「石橋地蔵」が存在したといい、生田氏臣が城内の石橋に使われていた地蔵を安置したという言い伝えがある。

  

 
 辺りの開発が進んでも、「生田蛍」はしっかり生き続けているようだった。
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巨海城

2007-11-21 00:00:24 | 城郭・城下町

(愛知県西尾市巨海(こみ)町)
 巨海集落から寺津集落との境にある、巨海城跡に差し掛かる。
 吉良氏臣であった寺津城主大河内貞綱の弟、巨海道綱が居城したという。
永正十四年(1517)貞綱と共に、引馬城で今川氏親に攻められ自害したとされる。
 付近は巨海の台地縁端で、また往古は海岸線にも近かったため、縄文晩期の遺跡「枯木宮貝塚」が同所に存在する。
現在は主に耕地のほか、寺津小中学校となっており、遺構等は残らない。
 訪れたこの日は、眼下にコスモスの花が眺められた。
 

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松代藩校 文武学校

2007-11-20 00:00:47 | 学びのやかた

(長野市松代町 国指定史跡)
 海津(松代)城から「歴史的道すじ」へと入っていく。
付近の塀という塀は、景観保護をしており、特にこの真田邸と文武学校の間の道は、季節にマッチした光景となっている。
  
 私は大方の計画は立てて各地は訪れるのだが、前もって綿密なリサーチと、細かい予定は立てない。それは先入観を持たずにその地の特性を知るためであり、そのため、訪れてからその後の行動を悩むことがある。
 今回、松代に訪れて、残された時間と訪れ調べる箇所が多いことを知り、一先ず視野に入った「旧白井家表門」に立ち寄ることにした。
門のところにはスタンプが置いてあったので、押していると「よろしかったらお茶でもどうそ」と声をかけられた。そして休憩施設に導かれるまま、中に入っていった。そこには、男性女性一名ずつの方がおり、地域ボランティアの方たちのようであった。そして呈茶を受け、旧真田邸内でとれたという梅漬けや、柿をご馳走になった。
また、松代のお話しを聞かせていただいたのだが、女性の方がどこかで見たことがあるような気がした。よくよく見ると、声、外観、話し方が私の以前同じ職場だった知人に似ているからだとわかった。その知人も、この辺りが大好きな人であったので、今回のことを知れば、喜ぶだろうにと思った。
 もう一人の男性の方に、文武学校を案内していただいた。
文武学校は、その名が示すように松代藩の文武両道を目的に、安政二年(1855)に設けられた藩校であり、儒教ではなく西洋の学問を取り入れるなど先進的な藩校であったという。
 約1600坪の敷地内には正面正庁(文学所、御役所)の他に、奥には槍術所、門両脇には東序、西序、剣術所、柔術所、弓術所、文庫蔵、番所等があり、昭和48年(1973)まで現役で学校として使用されていた。また、特筆すべきことは現在でも、剣道、柔道、弓道の練習や大会等に使用されていることである。
  (槍術所の堅固な梁) (槍術所の床材、左松材、右杉材)
 校内を案内していただいたことによって、槍術所は真田家菩提寺である長国寺庫裏に廃藩後使用されていたものを移築復元したこと、槍術所の床面が当時からの松材の部分と、後の杉材に張り替えた境目があることや、槍で柱を突いた跡、そして当時は構えだけであった柔術も、後に寝技、投げ技を取り入れるようになり、柔術所の板の間に畳みを敷くようになったこと等、逸話も知ることができた。
 案内していただいた方のお名前を見ると、何か伝統のありそうなお名前であった。
お聞きすると、海津城から望められる山城、尼巌(あまかざり)城主の末裔の方であった。

 伝統を重んじ、“松代”ブランドを大切にするこの地の方々、そして文武両道が今に息づく誇り高き住民の皆さんを知り、北信地方の政治的中心地であった頃と変わらない郷土愛も感じた。
 続いて真田宝物館を見学したが、ここで時間切れ、朝から当地に訪れていればと、残念に感じた。次回は、一日この地を巡ろうと思いながら、長野をあとにした。

(関連記事:見付学校 睦沢学校 煥章学校開智学校

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寺津駅跡

2007-11-19 00:00:20 | RODEN-哀愁のRailway-
(名古屋鉄道三河線 西尾市寺津町)
 巨海の集落からこの地に差し掛かる。
廃止後3年を経ても残るレールと路盤。そのレールに沿って寺津駅に向かってみる。
寺津駅は草に覆われ、駅名標示が取り外されている以外は、往時そのままの姿であった。
 
 寺津駅は、大正15年(1926)三河鉄道開業と共に設置され、昭和16年(1941)名古屋鉄道三河線となった。
昭和44年(1969)には無人化され、平成2年(1990)更なる合理化によりディーゼル列車化された。そして、平成16年(2004)三河線碧南、吉良吉田間廃止に伴い廃業した。
  
 ホームは75m、18m車両(名鉄標準)4両分の長さと、交換2線の島式であるが、無人化の際1線化されたという。
 (旧寺津駅ホーム)
この後は寺津駅跡から、枯木宮貝塚、巨海城跡のある寺津小中学校に向かった。
(関連記事:寺津城 幡豆郡寺津
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海津城

2007-11-18 00:00:50 | 城郭・城下町

(松代城 待城 松城 長野市松代町 国指定史跡 日本100名城28番 日本の歴史公園100選115番)
 川中島八幡原胴合橋から千曲川松代大橋を渡り、松代のまちに差し掛かる。
何やら伝統漂う雰囲気のまちであり、先ず、長野電鉄松代駅のすぐ裏手にある松代城へ向かった。
二の丸南門から城内に入り、内堀に架かる太鼓門前橋を渡って太鼓門をくぐると、そこは本丸である。
  
 建物、石垣等城内全ての遺構は、平成に入ってから行われた発掘調査によって、検出された遺構と絵図とを照合し、修復及び藩末期の城郭が再現されている。
千曲川側の本丸搦手に建つ水ノ手御門(北不明門)や東不明門前橋、二の丸引橋等は調査で検出された基礎、橋脚を基に再現されている。
  (東不明(あかず)門前橋)
 
(二の丸土塁越しに尼巌(あまかざり)城、奇妙山方面を望む)

(二の丸引橋)
(北側土塁)
(北不明門)
  
 (戌亥櫓跡石垣)
 (埋門)
 海津城は元々、村上氏臣であり、背後の鞍骨城主清野氏が住む館であったが、永禄初年武田信玄(或いは信玄が山本勘助に命じて)によって改修、拡張されたものとされ、開城から「第四次川中島」の際にかけて高坂昌信が守り、合戦時にはいわゆる「きつつき戦法」の策がとられた。
 甲斐武田氏滅亡の天正十年(1582)「天目山」以後、織田信長臣森長可が入ったが、間もなくして北畠氏族である田丸直昌が入った。
「本能寺」以後は上杉氏、豊臣氏の縄張りとなり、「関ケ原」後の慶長五年(1600)森忠政が美濃金山より十三万七千五百石で入り、待城或いは松城と改称、「川中島藩」が置かれた。
 慶長八年(1603)忠政が美作津山へ移封すると、下総佐倉より十四万石で松平忠輝が入る。そして慶長十五年(1610)越後高田へ移封すると、常陸下妻より越前松平家忠昌が入り、「松城(松代)藩」となった。
 元和二年(1616)忠昌が越後高田へ移り、入れ代わって酒井忠勝が入る。そして元和八年(1622)忠勝が出羽庄内に移ると、信濃上田より十万石で真田信之が入り、以後、廃藩になる十代幸民まで真田氏が藩主となった。また、真田氏三代幸道のとき、「松代」と統一されている。

松代城から「歴史的道すじ」及び松代藩文武学校へと歩みを進めた。

(関連記事:山本屋敷 勘助まつり 富士山本

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赤地蔵

2007-11-17 00:00:47 | 石のまもり
(愛知県西尾市巨海町)
 巨海八剣神社に続く道路脇に、塀で囲まれた一角がある。
そこには三体の地蔵菩薩があり、全身が赤く染まっている。
 右の像は舟形(光背)であり、光背右側に「寒念仏供養當村行衆」左側に「延享元年(1744)甲子十二月十五日」と刻まれている。
中央の像は丸彫り立像で、無刻である。
左の像は丸彫り坐像で、台座に「寒念仏供養」「安永四年(1755)未七月日」とある。
 子の夜尿症に悩む母親が、地蔵にベンガラ(赤酸化鉄顔料)を塗って祈願するのだという。
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額田郡 岡城

2007-11-16 00:00:57 | 城郭・城下町
(愛知県岡崎市岡町)
 近くを東海道が通り、乙川が流れるこの地には、池野大学により城が築かれた。
近隣大平村の諸城や生田城など、この辺りの城はほとんど訪れたが、この城はまだ訪れていなかった。
 城跡は、主に竹薮であり、乙川に面する北西側は平地となっているが、南東側には堀と土塁の一部が残っている。
 岡城は、池野氏の後、今川氏臣板倉重定が居城したが、永禄四年(1561)松平元康らがこの城を攻略、その後元康臣河合宗在がこの城を守った。そして天正十三年(1585)家康の上洛の宿所として御殿が建てられたという。
       
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