flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

malera gifu

2011-08-09 12:00:06 | 天祐語録

 私はあまり、自動車社会の象徴の一つのような、郊外型ショッピングモールは利用しないが、散策途中で立ち寄ることがある。
 このモールは開店から五年ほど経つが、正直よくもっていると感心する。それは、キーテナントが不明確な大型商業施設は、責任の配分も不明確になり易く、早々に閉鎖に追い込まれるか、あるいは第三セクター施設のように赤字を膨らましていくような結果に陥り易いからである。

 訪れてみると、メンテナンスレベルの関係か、開業からの年月に比べて老朽している部分が間々見受けられる。また、空きテナントも目立つ。この商業施設が開業して、近隣の同じような運営形態であったリバーサイドモールが閉鎖され、そのテナントが転居してきたようだが、それでも持て余しているように見受けられる。

 私は元々あまり客扱いはされない方だが、私がいた三時間ほどの間、ものの見事にいらっしゃいませという言葉を聞くことはなかった。案の定、案内係に詰め寄る客もあった。やはり、結果は開業したときから予想ができたのではないだろうか。

(関連記事:糸貫

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グレーな気持ち

2008-06-29 06:00:29 | 天祐語録
 知人が「地域活動で中学生を育てる取り組み研修会」というものに参加した。
「子供から大人へ…40文字の提案」のなかに、

心ない子どもを育てているのは誰?
自然を壊しているのは誰?
みんな大人や社会でしょ。

という中学生の声があったという。

 そこで私は、この件を他の場で「大人がきちんとしつけなかったり、言っている大人がルール守らなかったり…何よりも子どもとの対話が少ないのが一番悪いと思う。
そりゃー反抗したくもなりますわね。私もそう思う節がありましたから」と言った。
そうすると、「人間には個性があるんだから、しつけで押さえつけたりせず、のびのびと自立させるのがいいと思う」という親御さんがいた。

 また、家庭教育学を学ぶ、子を持つ親御さんも以前、私にこう言ったことがあった。
「親が子どもに長い時間接していたら、子どももイヤになるだろうし、親もイライラする。社会が育ててくれるから、家では放っておくほうがいい。それよりも両親は外に働きに出て、稼いだほうが活気が出てプラスだと思う」
という発言だった。

 私は未成年の子どもたちに対し、このような放任主義的な考えは無責任に感じてしかたがない。私の周囲にも、放任主義がゆえに子どもが違う道に逸れて警察沙汰になったりするのを目にすることがある。子ども自身に「自分の考えが正しいんだ」という考えを起こさせてしまうほど、怖いものはない。親や大人たちが、子どもが成人するまで社会の一員として生きていくにはどうしたらいいかを教えてやるのが役目の一つではないのだろうか。

 個性と非常識は違うと思う。
悪いことをしても子どものやることだからしょうがない。
犬が吠えるのは動物だから当然だ。
という大人たち。
冷たく、非社会的な人間が増えるのもここに原因があると思うのだが…。
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イタリア村 その後

2008-03-04 18:00:07 | 天祐語録
(名古屋市港区)
 先回、開業当初(2005年7月28日)訪れた際に感じた情勢そのものになってきている。

先回本文:(…商法といったところか。
入場券ならぬ、お買物券を購入して入る…。
食事には使えず、物品購入のみ交換でき、お釣りは出ない…。
 村内はショッピングモールの外装を南欧風にしたといった感じか。
港に隣接しているため「水上ゴンドラ」があり雰囲気はあるが、規模が小さく、要するに、単なる商業施設のコトバに尽きる…。
 その名称の趣旨を活かしたイベント、非営利な部分の施設等を盛り込まなければ、来客は緩やかな右肩下がりになっていくであろう。)

 加えてリピート性に乏しいこと、手狭なことが挙げられる。
入場者数が予想通り激減し、200億円の赤字となっているようだ。客寄せのための新施設の工事費用も捻出できず、その部分の仮差押さえとなった。

 私も一度訪れたきりで、それ以来出向いていない。
狭い敷地を囲わず開放して、「名古屋港のショッピングエリア」という位置付けで進めるべきではないだろうか。

(関連記事:イタリア村閉村 ワイルドフラワーガーデン 金城ふ頭 南方貨物線
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「医は仁術」

2007-12-28 21:00:30 | 天祐語録
…大阪で起きた、受け入れ先なしでその後死亡のニュース。
何故こんなことが起るのだろう。
医師不足?
患者が多い?

私の祖父は、田舎の外科医だった。
「医は仁術」を口癖に、一年365日、元旦以外は休まなかった、その元旦も、急患が来れば、処置したという。
今の医師数より、人口比でみても、当時ははるかに少ない医師の数。
その中でインターン1名、住み込みの看護士8名でまわしていた。

休みがなかったため、父は、父兄参観日どころか、一緒に遊んでもらった覚えもなかったと言っていた。然し、患者のためにそこまで尽くしたことは、誇りに思ったと、生前語っていた。

今の病院制度は過酷で、医師看護士への負担も大だという。
システムが複雑になり、責任問題から、医師科目の偏り、諸々の問題を抱えている。
然し、急患を目の前にして、取りあえずの処置を決断できる人間はいないのだろうか。
責任を果たすべき上席の人間は何をしているのだろう。
面倒くさいことは除外か?事勿れ主義か?

私も以前、救急車を呼ぶほどではないが、具合が悪くなり、近くの医者に行ったところ、「予約を取ってからにしてください」と言われたことがある。
また、会社でも具合が悪くなり、医務室に行ったところ、「休憩時間に来ないでください」と言われたことがあった。

果たして医師って何?
単なる仕事の一つか?

本当に手がまわらないのか?
一般開業医でも、応急処置くらいはできるだろう。
何故、緊急の緊急処置を決断できないのか。

人の一生を左右する、大事な聖職ではないのか?

教師、宗教者同様、ほかの職業よりも一生をかけて、取り組んでほしいと願う。
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「かわいがり」

2007-09-27 00:00:36 | 天祐語録
…が相撲界で問題となっている。
狭い領域で抑圧されることによって起きる、閉鎖的事象。

私は以前、僧堂というところにいた。
そこでは、これと同じようなことが起きていた。
仏につかえる身でありながら、殴る蹴るは日常茶飯事で、血を吐くものもいた。
警策(座禅で用いる棒)や木刀、あるいは鉄パイプで殴る。
私も傷跡を残している。

入門から五分の一に減る僧侶。
残る者は、凶悪犯のような人相となっている。また、強さを保つため、体を鍛える者も多い。
逃げ出す者は当然のこと居り、暴力によって身体障害者となった者も居た。
被害者家族からの警察騒ぎになることもあったが、暫くすると何事も無かったかのようにことが収まっている。
地元での長年の関係から、警察とも結託しているのだ。

これは修業世代の人間だけが起こすことではない。
いわゆる、位の高いとされる世代に渡って、堂内においての人間的差別、脅迫、金銭の窃盗や資金の使い込みもが起きている。

僧侶の世界は、畜生、奴隷、人間、仏様の段階がある、という。
また、宗として決めている僧侶の“格”というものも、3等、2等、1等、権大…
というように、上下の差をつくっている。
身分の低い僧侶は、高い僧侶に対して顔を見ることも許されない。

仏門の世界に対して、一般世界を“シャバ”と呼ぶ。
その団体生活は、まるで極道の世界。
堂内での人間関係は、親分子分のような関係である。
弱肉強食、全体責任、抑圧された世界だけに、弱いところにしわ寄せが行き、強い者は何ら痛むことはない。

僧堂歴の無い僧侶が中には居るのだが、その人のほうがより人間らしい。
逆に、修業歴が長いほど、高慢になり易く、人を見下げたり、自分が全て正しいと自惚れる。
また、僧堂のある場所によってもその閉鎖性は違う。
山間部にある僧堂は、市街地にある僧堂とは違い、自分と違う相手を認めることができない、狭い考えを持っている。井戸の中の蛙状態となるのである。

私は資格取得までの期間、その宗派で2番目の位とされる人の内弟子であった。
国内僧侶のVIPといわれる人たちに接したり、あらゆる宗派の人たちとも会った。
また、帰俗してからも、様々な宗教とその人たちと接して、実状を垣間見た。
その中で組織と閉鎖性は、様々な形で見せ付けられた。

私は一般社会の人たちのほうがよほど自然な信仰をしていると感じており、以来特に僧侶が信用できないでいるのである。
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目を覚ませ

2007-07-18 06:00:17 | 天祐語録
 地震が発生し、震災地で生産されていた部品の供給ストップによって、日本各地で一時休業の自動車工場が続出した。そのため、いつもとは違う昼間の人々の往来がみえる。

それは、つくり溜めや在庫を持たない「ジャストインタイム」というやり方による結果だ。
この長所は、主に生産場所の省スペースであって、一つが狂うとすべてが駄目になるという大いなる短所を持つ。
外部にだけいえることではなく、工場内のトラブルであっても、同じようにすべてがストップする。
納入側及び前行程側に負担を強いる手法である。

日本経済の牽引役といわれる自動車業界。
然しながら、環境破壊原因のトップであり、戦争死者よりも多い交通死亡事故者数。
憲法9条維持&核兵器の無い平和な世の中を…
…の以前に、結果もっと罪深い交通戦争。
未だ止まない飲酒運転や自分勝手な振る舞いの運転。
私は、自分の心の中に「これからは自動車運転をするべき世の中ではない」と思い生活しているが、とはいえ、業務に関すること、身障者、老人介護、過疎地交通手段など、ある程度は必要なものとも思っている。
去れど現状は度が過ぎていて、今後救いようのない事態が起こっても、致し方ない結果であろう。

一人自動車を乗り回し、冷暖房を一日中かけ、エコバックを提げて「私はエコに関心がある」という言葉ほど、信じられないものはない。
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「学び舎」とは…

2007-05-31 21:00:41 | 天祐語録
 親類縁者、教員の多い我が家は、教育者のあり方というものを各々抱いている。
その中で共通するものには、生徒がやる気を起こす言動、無くす言動についてが触れられている。
それには、長所を一つも触れずに短所や間違いのみを指摘し、そこで生ずる自らの責任をも認めようとしない教員。生徒にとっても学校にとっても、そして教員本人にとっても、残念で不利益なことであるとしている。
注意点は指摘した上で、いかに生徒本人が意欲を増し取り組めるか、長所を伸ばすため発する言葉の工夫をするのも、教員の技術であるとしている。

今まで私も小学生以来、数人これら事柄に該当する教員のもとで学んだことがある。
また、私自身が在籍している通信大学にも残念ながらある。

お互いの顔を見合わせられない状態での学習。
ニュアンスや教員生徒同志の心持ちが伝わり難い状態で、一方的に断言する言動や、こちら側の意向を一切汲み取っていただけない片方向のみのコミュニケーションは、やめていただきたいと思う。

教育現場でも個性や専門知識が要求される世の中だが、本来の教育者のあり方を是非考えていただきたいものである。
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身の回り

2007-04-07 06:00:53 | 天祐語録
 私の周りでは、単に偶然とは思えないことがある。
特に出先での移動中や滞在中において、必ず私の周りに、よその子どもたちが入れ替わり立ち替わり寄ってくる時期、次に非常識な人間が入れ替わり立ち替わり寄ってくる時期、そして一つ変わっているのが、移動中終始横で基礎からメイクする女性。30分から2時間くらいに及ぶ変貌を見させられる時期。
それらは同行者がいる場合、遭遇しなくなる。
これは一体なんだろう?
前世の因縁?
守護霊の影響?
いずれにせよ、未熟で非社会的な者たちを遭遇させられているわけである。
 同じく未熟な私に対しての目に見えぬ作用であろうか。
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輪っぱ依存症候群

2007-03-31 21:00:40 | 天祐語録
 車輪に依存する現代人達…。
車を運転しない私に対して、○○○(身障者)かと言う者がいた。
私は目に多少の障害を持って、それにより運転しないというのもあるが、必ずしも乗らなくとも生きていけると思っているからである。
そして最大のエコは自動車に乗らないことであるから。
クルマがないと動けないというが、果たしてそうだろうか。
学生時代、電車バス自転車を駆使して通っていたと思う。
渋滞を見てどう思うか、殆ど一人しか乗っていない。見える範囲内を集めると、バス一台に収まってしまう程の人数。それだけ自動車は、はばかっているのである。そして彼等はそのバスを邪魔だといっているのである。
最も、全てを否定するわけではない。事業用車、過疎地の交通手段、お年寄りの介護のため、障碍者の足変わりなど役目はある。
以前、ある人が、仮に目が殆ど見えないとしても、それを隠してでも車を運転しなければ、特に地方では差別対象に値するのだという。
私は人との競争心ががなく、仲間を維持するために悪いことも含めて何事も無理に合わせることがないので、孤立し迫害を受けたこともある。

もう一つの輪っぱに、ショッピングカートがある。
たくさんの買い物とあれば、当然使うものであるが、最初から少量の買い物にカートを引いて狭い店内を周りに気を使わずに人、物に当たりながら押す者。やはり地方ならではの捨てゼリフ、「車輪のあるものが優先でしょ!」というのがあった。買うものが特になくても無意識に押してしまう、楽だからと。
あと、最近増えだしたのが、キャリーカートである。
必要、不必要に関わらず引っ張っている者がいる。混雑したところでは非常に迷惑である。

もはや身体の一部となったこれら車輪製品。
体裁や流行で使用している者たちが、老年期を迎えたとき、衰え、退化の程度はいかばかりなものだろうか。
環境が悪化するまえに、人間が心身共に終焉を迎えそうである。
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クルマ社会の結末

2006-12-07 18:00:17 | 天祐語録
 自動車が引き起こす様々な悲劇。
もはや戦争による被害規模を超えている。
人はその凶器にもなりうる自動車の運転に慣れた途端、鎧を着たかのように気持ちが大きくなることがある。
そして自動車工業界が牽引する極限のコスト削減意識と労働条件。
よって労働者の意識レベル低下、モラル低下、地域民意の低下、治安悪化を招く。
それらは周辺工業都市を見れば明らかである。
 私は自動車を運転しないと決めた日から、徒歩あるいは公共交通機関を使っている。
車が無いと生活できない、無いことは考えられないと人は言う。
事業者や過疎地、高齢者、障碍者の自動車利用は必要としても、それ以外で自動車が本当に必需であろうか。
学生時代、誰もが自転車や鉄道バスを駆使して通っていた筈であるのに。
家族みんなで…というならばまだしも、一人ずつしか乗車していないのに起こる渋滞。
人間の10倍以上もの占有面積の自動車。
私はそれら運転手から、歩行者は邪魔だ、車が優先だと言われたことがある。
駅から徒歩数分でありながら、何年も電車に乗ったことがないであるとか、そこまでのゴミ出しだけに車、角の自販機まで車、信じられないが現実である。
 環境を第一に考える時代だとすれば、私は自動車利用が最も矛盾した行動だと考える。
自動車が普及するようになってから、山、里、街の境界線が曖昧となった。
自然が開発され、生態系が乱れ、エネルギー消費、二酸化炭素排出が始まった。
 各々が好きなときに自由に行動するようになってから、地球と人類終焉の秒読みは始まっている。
(写真は国道151号バイパス竹広開削地)
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現代人原始人化

2006-11-30 18:00:23 | 天祐語録
 ここ最近、立て続けに職務質問に遭った私。
それは全て自転車に乗っているときである。
私は大体週一ペースで自転車に乗るが、キッチリとした格好というわけではないので…
というのもあるかもしれないが、何やら鍵が付いていないから…というのが理由のようである。
私の自転車は買った当初から普通の鍵ではなく、タブレット式のワイヤーキーであったため、致し方ないのである。
「最近、この辺物騒だから…」の一言。
それでいて強面のマナー違反者に声を掛けるでもなく、不満が残る。
 以前、私が僧侶であった時期、作務衣の格好で忙しくしていると、ある施主から「忙しそうにするな!走るな!」と言われたことがあった。
その後私は色袈裟の法衣に着替えて法要の支度をしていると、「ご法師様」と頭を下げてきたのは先程の施主であった。
 人を断片的に区別、差別し、弱肉強食を誘発させている大人、社会、企業たち。
大人たちの世界を容易に見通せる現代だからこそ、子どもたちには鑑のように反映されるのである…。
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教育総無責任化

2006-10-17 22:30:07 | 天祐語録
 教育内事勿れ主義。
いつの時代も同じようである。
元教員であった亡き父が、よく言っていた。
だから教頭、校長になれると。
同様なことが起こり、最後に校長を殴って退職した父。
父は教員が信じられなかった。その父は休みを優先する医者は医者でないと言った祖父の子。そして私は僧侶が信じられない。
その道で長く過ごすのは、見て見ぬ振りしなければならないのか。
それとも弱きを挫き、強きに従うということか。
弱肉強食…人間が次第に原始化しつつあるということでもある。
 教育現場の評価方法も、事が無いことを評価するのではなく、起きた事を如何に指導、是正していくか、起きないようにするにはどうする、どうしたのか、この点に評価点を置いてほしいものである。

 また、教員だけの責任ではない。
ある意味、教員から年齢を引いただけの生徒達。
その生徒達の犯した事柄も、その保護者の責任であり鑑である。
強く生きようというだけで「親」になりきれていない親達。
そして自分に対しての利益となる相手だけに同調し、その他はどうなろうと構わない現代風紀。
よって社会的常識が薄れていく。
それも競争化社会が生んだ副作用といえるだろう。

これからの世の中をつくるのは子供達ではなく、先ず大人達である。
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宅施食

2006-08-15 06:00:26 | 天祐語録
毎年この時期が来ると思い出す出来事。
それは今から8年前のお盆のことである。
私はその頃まで、近隣の寺院の宅施食(お施餓鬼)の手伝いをしていた。
毎年大体回るところは決まっており、三日間寺でのお勤めと、地区の檀家数十軒を回っていた。
そしてまたお盆の季節となった。
いつものように準備をしていると、突然キャンセルが入った。
私が以前所属していた寺院組織から、どうやらその寺院に横槍を入れたようだった。
そこから手伝いは派遣されたようではあるが…。

その時間私が回る筈であったあるお宅で火災が発生。
お爺さんが亡くなられた。
火元はお施食の蝋燭の灯りであった。
配員が変わったため回る時間がずれ込み、発見が遅れたのである。
もしかしたら遅れた施食が原因かもしれない。

そして、私と縁を切ったところは全て下降の道を辿っている。
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Interview

2006-07-29 00:00:16 | 天祐語録
事件が起こる度に行われるテレビリポーターによる近隣インタビュー。
あれ程無責任なものはない。
「あの人はこんなことをしていた…」
事件前にその人間の行動を是正、抑止できないのに、インタビューに応じることが道理に反すると感じる。
また、悲しみにくれる被害者に、「お気持ちはいかがですか…」
と質問するレポーター。
その過剰なレポートに対して問うと、「仕事だから」
その行動に疑問を抱く者がその上司に投げかけると「甘えるな」
と言う。

世の中、他人に対する閉塞感と、マスコミの責任は大きい。
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戯言…クルマ社会

2006-07-27 06:00:56 | 天祐語録
日本にとって実は残念な社会、それはクルマ社会。
狭い国土に一人一台の自家用車。
二酸化炭素排出もさることながら、人間一人に十倍以上の占有面積。
渋滞道路実はスカスカ。
殆ど一人しか乗っていないのだから。
また人間はクルマに乗ると、鎧を着たように気が強くなる傾向にある。
クルマ優先という意識が高くなる。
歩行者に罵声を浴びせる光景をよく目にする。
そんな意識を生み出す自動車工業界。
従業員を蔑ろにし、利益第一主義の業界。
従業員の素行、ついては家族、地域民意の低下にまで影響する。
実は日常茶飯事の品質不良リコール、起きて当然である。
戦争より多くの死者を出す交通事故。
その企業が環境に取り組む…と言っても、偽善売名行為にしか思えない。
批判を善意行動により軽減させ、世の中をリードしているような自惚れは、いつまでも続いてはならない。
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