(東京都文京区大塚)
天保九年(1838)萩藩士山縣有稔(やまがたありとし)次男として生まれた有朋は、松下村塾で学び、高杉晋作らと奇兵隊を率いて倒幕運動に参加した。明治新政府より欧州視察の命を受け訪欧し、帰国後は廃藩置県、地方自治制度、近代官僚制度構築等に関わった。第3代、第9代内閣総理大臣、初代参謀本部長、初代内務大臣、枢密院議長を歴任した。大正11年(1922)八十三歳没。
(東京都文京区大塚)
天保八年(1837)越後国新発田の名主大倉千之助の三男として生まれた。安政元年(1854)江戸に出て鰹節商へ丁稚奉公の後乾物商大倉屋を起こした。その後黒船をきっかけに鉄砲商を起こし、戊辰戦争の際に銃砲店で成功し、新政府軍の御用商人として財を成した。明治6年(1873)貿易商として大倉組商会(1946-大成建設)を設立し、外国貿易用達事業により政商としての基礎を築いた。明治7年台湾出兵、明治10年西南戦争、明治27年日清戦争、明治37年日露戦争において軍需品用達商人として巨利を得た。帝国劇場、帝国ホテル、大倉商業学校(1949-東京経済大学)、大倉集古館等を設立。昭和3年(1927)九十歳没。
(東京都文京区大塚)
天保八年(1837)三條實萬の三男として生まれる。権中納言、議奏、攘夷勅使、国事御用掛等を務め、尊皇攘夷派公家の中心的存在であったが、文久三年(1863)尊皇攘夷派の京都追放を目的とした八月十八日の政変が起こり、七卿落ちの一人として長州に向かった。王政復古後、新政府の議定、副総裁、右大臣、修史局総裁などを歴任し、明治4年(1871)太政大臣に就任した。内閣制度創設後は内大臣となり、明治22年(1889)黒田内閣総辞職後、一時臨時首相を兼任している。明治24年(1891)五十三歳没。


(東京都文京区大塚)
天保九年(1838)佐賀藩士大隈信保の嫡男として出生し、藩校弘道館在籍中は、儒学教育に疑問を持ち藩校改革を訴えた。藩の蘭学寮で西洋の学問を学び、元治元年(1864)長崎で宣教師グイド・フルベッキから英語やアメリカ憲法を学んだ。翌年、そのフルベッキを招いて英学塾致遠館を開設した。明治時代となり、外国事務局判事、大蔵省次官に就き、明治14年(1881)イギリス議院内閣制を手本とする憲法制定と議会開設を明治政府に求めたが、急進的なものとして岩倉具視や伊藤博文らと対立し、重信は官僚を辞職した。然し、翌年にはイギリス議会政治をモデルとした立憲改進党を作り、その後総理大臣となって、日本初の政党内閣を誕生させた。そして同年、東京専門学校(1902-早稲田大学)を開設した。大正11年(1922)八十三歳没。
(東京都文京区大塚)
護国寺不老門東側に高さ6mの富士塚がある。文化十四年(1817)山護講によって本堂西側に築造され、明治18年(1885)現在地に移築されている。平成元年(1989)修復、整形が施された。

(東京都文京区大塚 国指定史跡)
水戸藩の儒師であった人見ト幽軒の屋敷であったこの地は、寛文十年(1670)ト幽軒が没し、この地に葬られたのが儒葬(喪に服する期間が三年)墓地の始まりとされる。敷地内には岡田寒泉、古賀精里、柴野栗山及び尾藤二洲の寛政の三博士の他、木下順庵、室鳩巣ら儒学者とその家族四十六基の墓がある。










(東京都文京区大塚)
元和八年(1622)徳川秀忠が日光から稲荷神を勧請し、江戸城吹上御殿内に東稲荷宮として祀ったのが始まりという。徳川綱吉のとき城内から一ツ橋(千代田区)に遷座し、その後、陸奥守山藩主松平家の江戸屋敷(現教育の森公園)内に遷している。宝暦元年(1751)大塚村の鎮守として現社名となり善仁寺(区内小石川)内に遷座した。その後、護国寺内、明治5年(1872)大塚上町、明治15年(1882)大塚仲町、明治45年(1912)現在地にそれぞれ遷座した。


(東京都文京区小日向)