(すんぷじょう 静岡市駿府公園 2002年12月31日訪)
駿府城の前身は諸説あるが、駿河守護今川泰範が、応永六年(1399)に築いた館城に始まるとされる。その後天正十三年(1585)から四年の歳月をかけ城郭を拡大し、徳川家康が浜松より、今川義元に人質とされていたこの地に移ってくる。そして、天正十八年(1590)家康が江戸城に移り、中村一氏が城主となる。
慶長六年(1601)には、内藤(松平)信成が入封し、慶長十一年(1606)に近江長浜へ移封。慶長十四年(1609)からは徳川頼宣が入城し、元和五年(1619)和歌山へ移封した。
寛永元年(1624)から寛永九年(1632)まで徳川忠長が入城、その後は天領となり、松平氏が城代を務めた。そして、慶応四年(1868)大政奉還により徳川家達が一時藩主になり廃藩となった。
城は、永禄十一年(1568)、天正十年(1582)、慶長十二年(1601)、寛永十二年(1635)に火災に遭い、寛永の大火以後は焼失した五層七階の天守は再興されることがなかった。
巽櫓は、寛永十五年(1538)再建され、安政大地震で倒壊したものを、平成元年に再現したものである。
(静岡県警察本部と巽櫓)
(関連記事:駿府城平成二十年 二十二年 石垣 二十三年 浅間神社 島田陣屋)
(紅葉山庭園 山田長政出生地 賤機山城 伝馬町 西郷山岡会見の地 徳川慶喜屋敷)
(静岡県熱海市東海岸町 2002年12月31日)
海岸沿いに温泉宿泊施設が林立するこの辺りであるが、然しながらその殆んどが廃業に至ってしまっている。このホテルも周辺の群発地震の影響、団体旅行の減少等で同様の道を辿ることとなった。全盛期の1960年代にはRC造7階地下2階の新館も竣工し、全110室600名収容となって百万ドルの夜景の一端も担っていたが、付近が次第にゴーストタウン化して、その言葉も過去のものとなった。1995年に廃業の後、1999年6月14日には火災が発生し、本館と新館の間にある100畳の大広間及び大コマ舞台等が全焼し、惨憺たる状態となった。 熱海の牙城と言われたこの建物も2003年に解体。辺りは遺跡の様な痕跡を残した。
(HP版:http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/atami-grand-hotel.htm)
(関連記事:熱海平成二十七年)
先日、長篠城野牛郭と鳶ヶ巣山、本久中貝津の集落を歩いた。そして久間山へ登りかけたが、夕刻で見えづらくなったため、断念して篠原へと向かい帰路についた。
次のこの日は、宇連川文化橋を渡り、姥ヶ懐及び三枝氏兄弟墓標へと向かい、谷下川沿いに道を遡ってみた。そして乗本を南下し、中貝津から舟津、中山へ向かおうとしたが、鳶ヶ巣山と中山の間の山が気になり登ってみた。
辺りは第二東名予定地となっているため、杭が打たれ、伐採予定の木々には印が施されている。急で滑り易い斜面を、木を伝いながら登る。途中、ロープや梯子が掛けられているところもあった。
頂上は台のようになっており、中山より長篠城が近くに見える。「五砦」以外にも簡易的な何かがあったかのかもしれない。もしくは中山陣砦の一部であったとも考えられる。
頂きから下方へ階段状を成しており、そこに植林がされている。尾根を更に登ってみると、どこまでも伐採マーキングが続いていた。
中山へ向かおうと引き返した途端、斜面を数mほど二回も滑落、更に顔を枝で突いてしまい、流血までしてしまった。幸い大したことはなかったが、このような散策、踏査中のハプニングは、遥か昔小学生のときに登った、五葉城跡でのケガ以来、稀なことであった。
緩やかな道を探し、麓へ降りると、そこに住むお婆さんに出会った。そこでこの辺りのことをお聞きしてみた。
私が先程登った山は、昔は全て田畑で、千枚田を成すようなものであったそうである。階段状の地形はその名残のようである。然し、農業に従事する者が減ったことと、近年猪や猿が頻繁に現れ作物を荒らすため、農作物をつくることを誰もしなくなったそうである。
中山にあった鎧掛けの松に白蛇が現れること、山を触ると障りがあるなどの言い伝えがあったことや、東名建設のこと、これからの乗本、今の乗本などお話しいただいた。このお婆さんは、伊藤さんとおっしゃる、90歳の方であることがわかった。
昔を知る方々に、今のうちに後世に伝えるべくお話しを聞いておかなくてはならない。
正面彼方に雁峯山、篠原野、眼下に豊川、左手には舟着山、風当たりは強い場所だが、眺めの良いこの地も道路高架により変わろうとしている。
ふと地面を見ると、板状石斧が目に入った。この地が縄文前期の遺跡である「舟津遺跡」の場所だからである。
また夕刻を迎えた。幼い頃に訪れた筈の五砦を、思い出しながら全て訪れられるのは、まだ先になりそうである。
豊川、宇利川左岸のこの集落は、水が豊富なところでもある。故に縄文時代からの人々の営みがあった。然し伝説では、水の少なかったところとされている。
この村に通りかかった弘法大師が、錫杖で八ヶ所の地面を突いたところ、水がこんこんと湧き始めたという。
それは亀井戸、男(大)井戸、女(小)井戸、柳井戸、桜井戸、稚児井戸、藤井戸、岩井戸の八つ井戸で、地名の由来といわれている。
その藤井戸、岩井戸、稚児井戸の湧き出た吉祥山中腹に、十二坊を配した今水寺(廃寺)が建てられた。
明治20年、賀茂用水(後の牟呂用水)が通水し、村の中を通っていた「川添道」も、下手の用水沿いに造られ、今も変わらぬ静かな集落となった。
(関連記事:旗頭城)
(愛知県宝飯地域)
鎌倉時代、足利義氏が三河国守護となり、一族の足利義季(よしすえ)が額田郡細川に住し、姓を細川に改めたことに始まる。
義季から四代後の頼有のとき、この地方に勢力を伸ばし、応安二年(1369)先ず御馬城を築いた。そして永徳二年(1382)の細川信氏寄進状には、宝飯郡市田に所領があったことが確認できる。その市田付近には頼有の曾孫、教春が永享の頃(1429-40)野口城、市田城を築城し、頼有の弟満之の曾孫、勝久が茂松城に居城した。
御馬城 (御津町御馬)
細川頼有が築城した後、永享・享徳の頃(1429-54)には細川正信及び外戚である酒部時重が居城したという。
文明年間(1469-86)同じ足利の流れを汲む今川義忠により攻略され、細川氏は城を捨てた。その後徳川幕府となった寛永年間(1624-43)には長沢松平家一族の松平浄感が住したが、宝永元年(1701)に廃城となった。
野口城 (豊川市野口町) (堀切)
(本丸土塁)
細川氏の後、今川氏臣の板倉主水、印宮甚蔵らが居城した。
標高約70mの「城山」には、本丸、二の丸及び曲輪、堀、土塁、堀切等が残るが、西側はゴルフ練習場により一部滅失している。
元豊川市教委の長谷川高雄氏が、幼少の頃城跡にて刀の鍔を発見したという。
市田城 (豊川市市田町)
野口城と同様、細川氏の築いた城である。同家臣、笹尾氏が居城したという。
その後、牧野氏一族の居城となった。
松永寺を中心とする付近に、城が存在したという。
茂松(高坂)城 (御津町広石)
平安末期、三河守護源範頼が居城したのが始まりという。
室町時代には細川勝久が居城したが、御馬城と同様、今川義忠により功略された。
その日が小正月の「もちい」(餅でつくった花)で祝う日であったことから、村ではその後もちい飾りをしなくなったといわれている。その後、牧主計、菅沼定盈、長沢松平氏が居城し、天正十八年(1590)廃城となった。南側の竹本(新宮)城も関連の城であったようである。
城跡は御津高校の東側、標高60mに位置し、堀、土塁、曲輪、井戸が残る。
南側の山裾は、都市計画道国府駅前赤根線によって削られたが、遺構としては、ほぼ当時の姿を残している。
本宮長山城・松原城
細川高頼が居城したという説がある。(関連記事へ)
暗くなるにつれ、煌きを増す街並み。
この明るさを見ていると、神戸市の財政危機状況が夕張市を超えているとは思えない。山と街、海と港、そして膨大な煌きに集まる人々は、それら暗い部分を払拭するかのようである。
(関連記事:KOBE LUMINARIE)
南端の和田岬駅を降りると、海路交通の守り神「和田宮さん」が鎮座する。
和田神社から北に歩くと、日本最大といわれる兵庫運河に差し掛かる。和田岬沖での海難事故を回避するため、兵庫港から須磨へ至る運河を明治時代に築造したものである。岸壁には震災による液状化の名残が見られる場所があった。
運河を渡ると石で造られた「十三重塔」が目に入る。これは清盛塚と呼ばれるもので、隣りの平経正の琵琶塚と共に平家の墓とされているが、道路拡幅による発掘調査で人骨、遺品等は検出されなかった。
清盛塚のすぐ西側には、一遍智真が諸国遊行の後、正応二年(1289)八月二十三日、五十一歳で寂した観音堂、後の真光寺がある。空襲や震災により堂宇は被害を受け、当時からの面影は少ない。私はここで、暫しの瞑想に耽った。
更に北側へ歩くと能福寺「兵庫大仏」がある。仏高11m、明治時代に建立されたが、戦時中の金属供出でなくなり、平成3年に再建されたものである。
(関連記事:神戸)
(神戸ルミナリエ2006)
11年前、阪神淡路大震災で犠牲になった人たちへの鎮魂と復興の希望を託して行われたライトアップイルミネーション。その反響から毎年開催されることになった。震災の日は、私の父の亡くなった日の翌日でもあったため、感慨深い。
今年のテーマは「空の魅惑」
空を覆う雲の隙間から希望の光が差すという意味が込められているそうである。
この日も曇り空で、まさにそのテーマを感じさせるものとなった。
16:00に会場である東遊園地に到着。辺りは準備をしているところであった。
まだ時間があったので、旧居留地方面へと歩くと、歩道には大勢の人。
このとき観覧は一方通行、通り抜けであることに気付いた。
そこで、起点となる交差点で待ってみることにした。
まだ日も暮れていないのに大勢の人、日の高い頃から待っている人もいたようだった。
予定より早くの点灯。と同時に歓声があがった。
追われるように先程の東遊園地へ到着。つかの間の光のトンネルくぐりであった。
(関連記事:神戸ハーバーランド)