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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去のノートから…
 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

Tokyo Museum of Sceince

2007-07-31 00:00:47 | 学びのやかた

(東京都台東区上野)

 昭和5年(1930)東京教育博物館から東京科学博物館に改称するのを機に建造された、RC造地上3階(一部4階)地下1階、延床面積7,500�の建物である。
 ネオルネッサンス様式を基調とし、飛行機の形状を取り入れた建物は、芸術と科学を併せ持った特徴を持つ。
長く国立科学博物館本館として使用されてきたが、老朽化が進んだことと、展示方式に改善の必要性があったこと等から、2004年の新館(地球館)の完成を待って改修工事を開始し、2007年完了、「日本館」となった。
       
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国府祭り 平成十九年

2007-07-30 02:00:49 | かみのやしろ
(豊川市国府町 大社神社祭礼)
 子どもの頃から馴染みのある夏祭り。
ここ10年ほどは縁あって、花火は毎年決まった場所で眺めている。しかし、昼間の山車、歌舞伎行列は、今まで見たことがなかった。
 神社の創立は、天元、永観年間(978-85)と伝えられているが、旧東海道を練り歩く行列と、御旅所である弘法山腹の進雄神社への神輿渡御は、明治に入ってからだという。
国府町上町、中町、下町、南田の各山車が、ゆっくりと進んでいく。
 また、神社土塀の石垣は、国府町中道に存在した旧田沼陣屋の石垣を、転用したものといわれている。
                     
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さんまい山古墓

2007-07-30 00:00:11 | いにしえびとの睡
(愛知県豊川市八幡町忍地・野口町宇当)
 三河国分尼寺跡のすぐ北東側及び野口池西側の山の斜面には、鎌倉・室町時代とみられる古墓群が存在する。
 昭和40年代に入り、埋蔵文化財地図作成等による調査で知られるようになり、盗掘が加速度的に進んだという。そのため、殆どの古墓で盗掘坑が開き、無残な姿を晒している。
 赤塚山から国府跡へと続く、「歴史のライン」の一つとして、保存を望みたい。
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東京上野 平成十九年

2007-07-29 00:00:09 | 漂い紀行

 私が元赤坂に、ほんの一時期住していた頃以来、久し振りに訪れる上野。
国立科学博物館「インカ・マヤ・アステカ展」の観覧券があったことと、所属会の事務局訪問や、河野氏ゆかりの神社等、その他諸々の目的で東国入りをした。上京は約3年振りである。
当初予定していた江戸城、埼玉方面へは、直前になって横浜に向かう要件ができたため、また日を改めることとした。
 上野恩賜公園以外では、鶯谷元三島神社旧岩崎邸庭園等に立ち寄った。
         

(関連記事:上野台平成二十三年

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大和 郡山城

2007-07-28 00:00:09 | 城郭・城下町

(奈良県大和郡山市 1983年7月25日)
 金魚養殖の盛んなまち、こおりやま。
中、近世は、実質的に大和国の政治的中心地であった。
 天正八年(1580)織田信長臣筒井順慶が、二十万石で入城する。そして、天正十三年(1585)順慶養嗣子定次のとき、伊賀上野へ転封し、豊臣秀長が入城。その際、石垣の石材に平城京の礎石、地蔵、墓石等をも用いて城郭を拡大した。秀保の死後は、豊臣家臣増田長盛が二十万石で入城し、関ケ原の戦いの際の行いにより、高野山に追放され、一時奈良奉行所の預かりになったが、大坂夏の陣後に三河刈谷水野勝成が入城した。然し、元和五年(1619)備後福山へ移封している。続いて松平忠明が入り、伏見城の門を移築している。
 寛永十六年(1639)忠明は播磨姫路に移り、代わって本多政勝が入ったが、政勝の死後、二分する家督争いが起き、「九六騒動」という幕府を巻き込む出来事となった。代わって播磨明石松平信之が入り、貞享二年(1685)下総古河へ移封、続いて下野宇都宮から本多忠平が入り、本多家が五代続いたが、忠烈が八歳で没し、郡山本多家は断絶した。そして、享保九年(1724)柳沢吉里が十五万石で甲斐甲府より移り、柳沢氏が廃藩まで続いた。
 本丸法印郭には、旧奈良県立戦捷記念図書館の建物が移築され、市民会館として利用されている。

(関連記事:大和郡山平成二十六年

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石巻神社

2007-07-27 00:00:30 | かみのやしろ
(豊橋市石巻町)
 旧郷社であり、孝安天皇もしくは推古天皇時代に創立したという。
大己貴命(オオナムチノミコト)を祀り、延喜式神名帳にも名が見える。
山麓社を本社とするが、自然信仰を含む、山上社を祖とするのだろうと思われる。
また、応永年間書写という大般若経六百巻を蔵し、市の文化財指定を受けている。
江戸時代には、吉田城の鬼門方位にあたる、この神社を鎮守として崇高したという。
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三河国分寺塔跡発掘調査

2007-07-26 00:00:52 | ほとけのいおり

(第3次発掘調査 愛知県豊川市八幡町本郷 1987年7月25日)
 三河国分寺跡遺構の中で唯一、地表から土檀や礎石の一部が確認できる伽藍跡が塔跡である。塔跡南側半分は、削られて八幡公民館の駐車場となっているが、北側半分の基礎を確認するためトレンチが掘られることになった。

 後日、調査により塔基礎の3ヶ所の根石(礎石の下に敷く石)が検出され、また塔相輪部水煙とみられる銅製品が出土した。
 

(関連記事:三河国分寺跡発掘調査 三河国分尼寺跡史跡公園 三河国府跡第10次発掘調査

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蒲形 大宮神社

2007-07-25 00:00:07 | かみのやしろ

(大宮大権現 愛知県蒲郡市宮成町)
 元暦二年(1185)領主藤原俊成の娘菊姫が、紀伊国那智より若一王子熊野大権現をこの地に勧請したのが始まりという。また、当時は蒲形、竹谷両庄で社領千七百石であったと伝っている。更に慶安二年(1649)には、蒲形の領主松平清昌の願により朱印地二石を下付されている。
 現在の祭神は伊弉冊命(イザナミノミコト)、速玉男命(ハヤタマノオノミコト)、事解男命(コトサカノオノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)であり、大宮神社は隣村、竹谷神社とほぼ同様の経緯を持っている。
 

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唐子山古墳

2007-07-24 00:00:27 | いにしえびとの睡
(愛媛県今治市唐子台 1989年7月23日)
 標高105mの唐子山には、かつて弥生時代末から古墳時代後期までの土拡墓、壺棺、粘土槨、古墳が約110基存在した。
 昭和46年から唐子台団地造成に伴う発掘調査が行われ、そのうちの代表的なものを、団地の一角に移転復元し、古墳公園とした。
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川手城

2007-07-23 00:00:01 | 城郭・城下町
(革手城 岐阜市正法寺町)
 岐南町から境川と岐阜街道を横切り、川手城跡に差し掛かる。

 美濃守護土岐頼康が、文和二年(1353)本拠を長森城から、この川手の地に移したのが、この城の始まりである。
以後、康行、頼忠、頼益、持益と続き、明応三年(1494)持益の子成頼のとき、家督争いによって船田の乱が起き、川手城は炎上。その後再建し、政房、政頼(頼武)と続くが、大永七年(1527)政頼の弟で鷺山城主であった頼芸との間に再び家督争いが起き、政頼は越前朝倉氏の一乗谷へと退散したという。
代わって頼芸が守護職に就き、川手城の城主も兼ねるが、その後廃城となった。
慶長六年(1601)川手城跡の土砂を利用して加納城を改築したという。故に遺構も残らず、現在は済美高校の一角、小公園の中に標柱が建つのみである。
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豊川進雄神社例大祭

2007-07-22 21:00:12 | 民俗・伝承
(平成十九年度例大祭 愛知県豊川市)
 夜は手筒花火の奉献が行われるが、昼間は元宮稲田神社へ向けての神輿渡御や、山車が練る。この祭礼が終わると、梅雨明けをし、本格的な夏がやってくる。
     
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Skyscraper in Nagoya

2007-07-22 21:00:04 | STRUCTURE-構造物残影-

 着々と進む、名駅地区再開発。
セントラルタワーズ竣工以来、この地区ではビルの建替えといえば、高層ビル化が当然のようになっている。
 今年完成した、旧豊田ビルのミッドランドスクエアは、主テナントがコスト削減を大前提に置いている会社だということもあるのであろうか、規模に対しての工期も短く、外装やデザインも単純なものである。
それに対して、隣接する旧三井ビルのスパイラルタワーズは構造が複雑なためか、建設に時間を要している。
また、先日は鋼材が道路に落下し、大惨事になりかねなかった事故が起きた。
  
 好景気を象徴するかのような、これら事業。
高層化には、都心部での必要に迫られた部分もあるが、現状でも上下の行き来にやや不便さを感じる。
土地が日本に比べれば、まだある筈の世界でも増加している超高層化は、緯度経度の変わらない、上下の移動に時間を要する通勤地獄?的な異常事態となっているようだ。

 言わば、その地のステータスを表す高層化は、遅れてやって来た繁栄を味わっているようにも思える。
この変化を30年間、「ナナちゃん」は軒下から見続けている・・。


(関連記事:’07年度末の県都

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とよばし

2007-07-22 00:00:45 | STRUCTURE-構造物残影-
(1982年7月22日の光景)
 いつの頃から架けられていたか明確でないが、歌川廣重の版画、東海道五十三次吉田宿にもみえる吉田大橋を由来としている、とよばし。
この地点の川幅が186mと、新城橋下流の堤防区間の中では最も短い橋である。
明治11年の架け替えの際、豊橋と改名され、大正5年にはアーチ橋に架け替えられた。
その後の交通量増大と老朽化のため、昭和61年に二車線の新とよばしを、旧とよばしの上流側に架設し、旧とよばしを取り壊した場所に、新たに二車線の新とよばしが架けられ、あわせて四車線、幅17.2m(道路部)の橋となり現在に至っている。
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上ノ郷城

2007-07-21 00:00:46 | 城郭・城下町
(鵜殿城 蒲郡市神ノ郷町)
 1978年以来、何度か訪れているが、1999年10月9日を最後に暫く訪れていなかった。
その当時から殆ど変わらない光景は、地域の特産である蜜柑畑となっていて、堀、土塁、郭等の遺構も往時の形を今に伝えている。
 2007年冬、将来の史跡公園を前提として、主郭部の発掘調査が行われ、建物基礎遺構や、土器、陶器破片、炭化物等が検出された。
残念ながら私はその期間中に訪れることができなかったが、今回(5月初旬)の時点では、調査跡が草生地となっていた。
    
 上ノ郷城は、一説によれば平安時代に最初に城が築かれ、鎌倉時代以降、紀伊鵜殿から移ってきた鵜殿氏が、今川氏のもとでこの上ノ郷を本拠とし代々居城したが、永禄三年(1560)桶狭間の戦いによって今川義元が討死すると、永禄五年(1562)松平元康勢が攻め、火を放たれ落城したという。このとき、城主鵜殿長照は討死した。
その後、元康の異父弟である久松俊勝が入り、子康元が天正十八年(1590)下総関宿に移封した後は、三河吉田池田輝政の持城となったが、慶長六年(1601)輝政が播磨姫路移封した後廃城になったと考えられる。
(関連記事:下ノ郷城 不相城
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豊川城

2007-07-20 00:00:32 | 城郭・城下町
(豊川村古屋敷 豊川市西豊町)
 鎌倉時代初期、三河国司であった大江定基の孫、大江定厳がこの地に館を構えたのが始まりという。
三百年後の天文年間(1532-53)同地に浄土宗終南山光明寺が創建された。
慶長七年(1602)その光明寺に隣接するところに、水野忠直によって屋敷が築かれた。
忠直は、刈谷城主水野忠重の子で、京都伏見より転封し、宝飯郡内外で四千石の旗本として領地を管理し、度々洪水を被っていた豊川村を、大堀川(旧帯川)の改修によって守ったという。
然し「参河志」には、「悪人にして下人に殺せらせ、今此墓時々火燃るなり、此人の悪行、此辺口碑に種々言伝るなり」と書かれている。
寛永十一年(1634)忠直が亡くなり、子政直が継承したが、翌年、軽率な訴えがもとで家禄は没収され、屋敷も取り壊されたという。
 
光明寺境内には水野家墓所がある。
また、「豊川城趾 愛知縣」と刻む碑が立つが、県として建てたものではなく、個人が建てたものである。
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