flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

墓参 平成二十二年

2011-02-28 00:00:54 | いにしえびとの睡
 初秋のこの日、一年振りに墓参に訪れた。
 今の私に財力がないがために、我が家と我が家の分家墓所の間にある、別姓同氏族の秋山家墓所(松山秋山家一門)に、塀や進入路等で迷惑をかけてしまっている。
 果たしていつになったら、先祖達が行ってきたことに追いつけるのだろう。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霞堤 雨谷

2011-02-27 00:00:49 | 水のほとり
(かすみてい うや 愛知県豊川市三谷原町池之上)
 かつて豊川(とよがわ)の堤防として存在した霞堤(鎧堤)は、豊川の改修や圃場整備によって次第に姿を消した。その一つが、麻生田町から柑子町に至る右岸の霞堤である。霞堤は川と堤防を完全に仕切るのではなく、切れ目を入れることで堤防に負荷をかけずに大きな決壊を防ぐという特性を持つ。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀山道

2011-02-26 00:00:02 | 街道・宿場町

(島根県大田市大森町 世界文化遺産 重要伝統的建造物群保存地区)
 山陰線大田市(おおだし)駅に到着。大森地区行きのバスまで暫く時間があった。付近を散策しようかと思ったとき、同じ行き先と思われる女性が、「よろしかったらタクシーで相乗りしませんか?」と声を掛けてきた。この方と同行することになった。
 大森地区の入り口に到着。付近には貸し自転車がたくさんあったが、行きが登りで帰りがサーッとでは、情緒が味わえないと思い、徒歩で散策することにした。付近は思いのほか鄙びており、それとは逆に訪れる者は多い。
           

 高橋家は銀山の山組頭の住宅で、茶室を設け、付随する建物では酒造なども行っていたという。
 

(関連記事:下河原吹屋跡 豊栄神社 清水谷精錬所跡 清水寺 新切間歩 福神山間歩 甘南備坑 龍源寺間歩 栃畑谷 昆布山谷 佐毘売山神社 大久保石見守墓所 大森町

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二風谷 オサツ川

2011-02-25 00:00:46 | 水のほとり
(北海道沙流郡平取町二風谷)
 全長約3kmの小さな谷合の川であるが、二風谷ダム完成により下流部が湖に取り込まれた。オサツ川はアイヌ語で、オサッ:川尻が乾くを意味する。支流にはオサヌシ川(オサヌシ:川に出るところ)、オケネウシ川(オケネウシ:川に出るところ・ハンノキ・群生する)がある。
    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹之内環濠集落

2011-02-24 00:00:38 | 城郭・城下町
(奈良県天理市竹之内町)
 大和盆地において、南北朝時代から集落を守る防衛手段として構築された、約二百ヶ所の内の一ヶ所である。竹之内環濠集落は現在、西側の一部のみ濠が残されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊予石城

2011-02-23 00:00:42 | 漂い紀行
(いよいわき 愛媛県西予市岩木)
 古くから南予地域の米どころとして知られている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定光寺 千歳楼

2011-02-22 00:00:14 | STRUCTURE-構造物残影-

(愛知県春日井市玉野町)
 昭和3年(1928)に開業した料理旅館である。かつてはテレビコマーシャルでも「定光寺の千歳楼」として知られていたが、次第に売上も半数に落ち込んでいった。平成15年、二年後の愛知万博を控え改装を計画するも、その途中で6億円の負債を理由に破産し廃業した。間もなくして、RC造り五階建ての建物のガラスや内部が侵入者により破壊、放火され始め、平成20年には五度目の不審火により事務室、浴室を焼失し、更に無残な姿となった。
(2007年9月20日)
  (熱で曲がってしまった鉄柵)
 夜の中央線のしなの号で多治見から名古屋方向に向かい、トンネルとトンネルの間で「千歳楼」というネオンが見えると、愛知県に入ったことが分かったが、もうその文字も灯ることはない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

掛戸松島

2011-02-21 00:00:30 | 海道・みなと

(島根県大田市久手町波根西 市指定文化財)
 鎌倉時代まで、波根湖という潟湖が存在した。然し、水はけが悪く大雨の度に氾濫したため、徳治元年(1306)領主有馬一政とその子宗茂が七年の歳月をかけ、湖と日本海波瀬海岸の間にある岩の丘陵を幅50m,高さ30mにわたって切り割り、排水路をつくった。そして、掘削の記念として高さ約20mの塔状に岩を残し、その岩の上に一本の青松を植えたのである。 松は昭和51年に枯死し、二代目も平成6年の台風によって倒れた。現在の松は三代目である。

(関連記事:銀山道 下河原吹屋跡 豊栄神社 清水谷精錬所跡 清水寺 新切間歩 福神山間歩 甘南備坑 龍源寺間歩 栃畑谷 昆布山谷 佐毘売山神社 大久保石見守墓所 大森町

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イオルの森

2011-02-20 00:00:53 | 漂い紀行
(北海道沙流郡平取町二風谷)
 沙流川(二風谷湖)左岸にある森をイオルの森という。イオルはアイヌ語で山奥、狩場を意味する。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山辺道 萱生

2011-02-19 00:00:26 | 街道・宿場町
(奈良県天理市萱生町)
 中山から北に向かうと、かつて荘園のあった萱生(かよう)に差し掛かる。付近には大和古墳群を形成する、波多子塚古墳等の萱生支群が点在し、西山塚古墳の周濠を利用した、萱生集落の環濠の一部が残っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法花津

2011-02-18 00:00:37 | 漂い紀行
(ほけづ 愛媛県宇和島市法花津)
 西園寺氏臣法華津氏が所領したところである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛岐廃線・トンネル群

2011-02-17 00:00:01 | RODEN-哀愁のRailway-
(岐阜県多治見市諏訪町・愛知県春日井市玉野町 近代化産業遺産)
 明治29年(1896)土岐川に沿って築造された、中央線旧線の14のトンネルである。この工事によって20名以上の殉職者を出し、定光寺駅南方に慰霊碑が建てられている。昭和41年(1966)複線電化によって(新)愛岐トンネルが完成し、旧線は廃止された。
                   
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山陰線で石見へ

2011-02-16 00:00:02 | 漂い紀行
 松江駅から列車に乗り、西に向かう。
 平成13年、山陰線高速化によって導入されたディーゼル列車、アクアライナーは、2両編成で前後の時間の列車本数も少ないが、それでも比較的空いた車内であった。岡山からの「特急やくも」が乗り入れてくる出雲市駅、及び車両基地に隣接する西出雲駅までは架線が引かれているが、西出雲以西は幹線とは思えないような、単線非電化の閑散路線となる。そして、間もなく車窓には日本海が現れる。
      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧マンロー邸

2011-02-15 00:00:52 | 木のたてもの
(北海道沙流郡平取町二風谷 国登録有形文化財)
 イギリス人医者及び考古学・人類学者であるニール・ゴードン・マンローは、アイヌの生活風俗研究のために、昭和6年(1931)二風谷に移住し、木造三階建、建築面積163㎡の住宅兼診療所を自ら設計し開設した。昭和17年(1942)没後、建物は記念館として保存され、現在は北海道大学北方文化研究所となっている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

波多子塚古墳

2011-02-14 00:00:55 | いにしえびとの睡
(萱生古墳群 奈良県天理市萱生町ハタゴ塚)
 山辺の道沿いに存在する全長約140mの前方後方墳である。平成10年の墳裾部の発掘調査で、墳丘北側から周濠や葺石、円筒・朝顔形、鰭付埴輪、小石室等が検出された。出土した埴輪の形式から、4世紀初頭に築造された前期古墳と確認されている。周濠の外提側上部から、東西方向に主軸を持つ板石積みの小石室が検出されたが、内部からは人骨等は見つからず、築造段階で設けられたものの、使用されなかったものと推定されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする