flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

新丸子

2016-08-31 00:00:00 | 漂い紀行

(しんまるこ 川崎市中原区新丸子)
 多摩川右岸、武蔵小杉に近接するこの地は、昭和18年(1943)上丸子から、東急東横線の駅名を基に分立した地区である。丸子は古代の部民制丸子部(まりこべ)が由縁とされ、『吾妻鏡』(あづまかがみ:鎌倉時代の歴史書)にも地名の掲載がみられる。室町時代末期には丸子から上丸子が分立し、江戸時代には「まりこ」から「まるこ」へと呼び方が変わった。駅の近くには、昭和26年(1951)東京と横浜の中間に創建された京濱伏見稲荷神社がある。
   
     

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祖父川

2016-08-30 00:00:00 | 水のほとり

(そぶがわ 愛知県宝飯郡一宮町金沢 1993年3月23日)
 金沢字滝平より発し、豊橋市賀茂町手棒で豊川(とよがわ)に注ぐ普通河川である。金沢字段戸に所在する照山墓地の麓を流れる川、父祖の墓前を流れるということで祖父川と呼ばれるようになったという。明治20年(1877)賀茂用水(1878-牟呂用水)が開削された際に中流が取り込まれ分断された。


 その他、金沢地区の水に関係する地名として以下がある。
 金沢(カナザワ)現行大字 明治11年(1878)12月28日、御薗村と養父村が合併し、金沢村となった際、生まれた地名である。旧養父村の大照山、小照山の谷あいを源とする西沢という沢がある。この沢の付近の地質に雲母を含んでいるため、水で洗われると黄金の様に輝きを放つ。そこから俗称を黄金沢と呼ぶようになったという。黄金沢は養父村鎮守大坂神社の横を通り、祖父川に注いでいたが、牟呂用水通水後は取り込まれてしまい、沢の存在をあまり知られなくなってしまったようである。この沢の名前から命名した、いわゆる好字地名「金沢」はこのような由来がある。
 池川(イケガワ)現行小字 吉祥山から金沢大池に流れ込み、流れ出る池川(祖父川)に由来する。
 池田(イケダ)現行小字 豊川沿いの低地は氾濫河道であったため、地形が網目状に凹凸し、上流から運ばれた土砂・沖積土が堆積した中洲・自然堤防の微高地と、流路の低い所ができた。この付近は、豊川が運んでくる肥沃な土により、平常時は水田耕作地であるが、氾濫時は豊川の流路となり、周囲の水田よりもこの池田の地が低い所であったため、水が引いても池のように水溜まりが残り、このような地名となった。
 池端(イケバタ)現行小字 字池端の内、現在水田となっているところは土地が低く、大雨の際には池のようになるため、民家側の微高地を見て池の端、池端と呼ぶようになった。

(関連記事:養父 宮下川)

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茶沢通り

2016-08-29 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都世田谷区北沢・代沢・太子堂)
 文字通り、三軒「茶」屋と下北「沢」を結ぶ区道の通りである。中間地点には代沢十字路があり、代田と北沢の合成地名である代沢と太子堂の境になっている。
 代沢三叉路
  
 北沢川緑道
        御嶽山日之本教会

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養父 宮下川

2016-08-28 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県宝飯郡一宮町金沢 1993年3月23日)
 金沢の東山台地から発し、斜面と田圃の境を流れながら、金沢村合併前の養父(やぶ)村鎮守である大坂神社前で祖父川に注ぐ小さな川である。途中、大照山と小照山の間から発する、金沢の地名由来ともなった黄金沢を合する。

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下北沢平成二十八年

2016-08-27 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都世田谷区北沢)
 私は下北沢駅付近の工事をしていない状態を見たことがない。小田急線の複々線及び立体交差事業に伴う駅前再開発であるが、確かに駅前は非常に狭いものの、シモキタ特有の情緒が失なわれないか気になるところである。
   高架工事中の京王井の頭線
     
  
    小田急地上線跡
       
      
  昭和4年創建の比較的新しい曹洞宗大雄山真龍寺と稲荷神社
  

(関連記事:下北沢平成二十三年)

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足山田城山開発

2016-08-26 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県宝飯郡一宮町足山田 1993年3月21日)
 造成中であった一昨年の暮れに訪れて以降、付近はほぼゴルフ場としての体を成していた。これによって多くの自然や歴史が失なわれた。黒谷ニノ沢は芝とクラブハウス、三ノ沢は道路下の下水管に変わり、城山の登山口に繋がる町道橋はホールを結ぶ連絡橋に変わって、欄干がガードレールから丸太風になっていた。クラブハウスの裏手には調整池ができ、ニノ沢の水が注いでいる。その辺りは敷と岸に岩を配置し、庭園風にしていたが、元々人工的に造られた川に親水工事を施すならまだしも、自然の川であった場所に自然風造作をするのは違和感ほかならなかった。
 黒谷一ノ沢
 黒谷一ノ沢と黒谷遺跡(旧石器)
 黒谷二ノ沢調整池
 黒谷池と城山
 新たに設けられた調整池
 欄干が変わった黒谷川城山橋

(関連記事:足山田開発 黒谷川 膳棚古墳群 足山田城)

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旧鎌倉図書館と御成小講堂

2016-08-25 00:00:00 | 学びのやかた

(神奈川県鎌倉市御成町)
 奈良・平安時代は鎌倉郡衙(ぐんが:郡役所)であったこの場所は、鎌倉時代には武家屋敷となり、明治32年(1899)には鎌倉御用邸となった。昭和6年(1931)鎌倉町に払い下げられ、翌々年、鎌倉郡立御成尋常高等小学校(1947-御成小学校)が設置された。現存する講堂(木造平屋建塔屋付、床面積686平米)はこのときのものである。また、隣接して旧三井銀行取締役だった間島弟彦氏の夫人が昭和11年(1936)に、それまで関東大震災で倒壊し仮施設として由比ガ浜の鎌倉小学校教室を利用していた図書館を、町に建設費を寄付して建設された旧鎌倉図書館(木造2階建、床面積455平米 1950-鎌倉市図書館)がある。長らく図書館として利用されてきたが、昭和49年(1974)新設の中央図書館に機能を移転させ、その後は教育センターとして利用された。然し、講堂共々老朽化及び維持管理コストを理由に解体の話が持ち上がった。市民の運動により現在は保存にシフトしたが、具体的な利用方法や維持管理は不透明な状態である。
   

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水久保池跡

2016-08-24 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県豊川市千両町水久保 1993年3月13日)
 佐奈川支流水久保川の途中には池があったという。然し、堤防が決壊して今は痕跡をみせるのみである。

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関取場跡

2016-08-23 00:00:00 | 街道・宿場町

(神奈川県鎌倉市二階堂)
 天文十七年(1548)北条氏康が荏柄天神社の造営費用に充てるため、金沢街道(六浦道)と荏柄天神社参道の接点に関所(関取場、関場)を設け、通行税をとった場所である。徒歩は五文、背負人は十文、里人の行き来及び僧侶は無料であったという。

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寒之谷池

2016-08-22 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県豊橋市石巻平野町寒之谷 1993年3月10日)
 豊川水系間川に注ぐ郷道川(堂下川)の源流部に築造された農業用溜池である。地名の通り、かつては日の当たらない鬱蒼とした谷から名付けられた地名であるが、そこには殿御岩と姫ヶ岩があって、殿様と姫が鷹狩りの際に休んだ場所と伝わる。また、付近には穏田と呼ばれる場所があり、年貢の徴収を免れるために密かに稲作を行った水田が存在したという。

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歌の橋

2016-08-21 00:00:00 | 水のほとり

(神奈川県鎌倉市二階堂)
 金沢街道(六浦道)が二階堂川を渡る橋を「歌の橋」という。建保元年(1213)渋川兼守が泉親衡(いずみちかひら)の乱(源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し、執権北条義時を打倒しようとした陰謀)で、それに加担した謀叛の罪によって処刑される時に和歌を詠み、近くの荏柄天神社に奉納したところ源実朝が感銘を受けて兼守の罪を赦した。兼守は神徳に感謝して橋を架けたのがこの歌の橋という。
 

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栗八名川

2016-08-20 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県豊川市三上町 1993年2月26日)
 栗八名川は、昭和40年に改修された間川の旧流路である。坂井橋を過ぎた間川は現流路から離れ、賀茂神社の太鼓橋を潜って牟呂用水を平面で横切り、激しい蛇行と狭い川幅で豊橋市賀茂町と豊川市三上町の境を縫って豊川(とよがわ)に注いでいた。新流路の最大幅63mに比べ旧流路の最小幅4mと極端に狭く、更に平野部では堤防もなかったため、大雨が降る度に氾濫を繰り返していた。圃場整備に伴う付け替えによって水量の多い川の役割がなくなった旧間川は、旧流路の上流部が埋め立てられ、栗八名川と名を変えて農業排水路としての役割になり、堤防の高い新間川へ樋門を通して注いでいる。そんな栗八名川の豊川市区間だけが今回、護岸被覆工事されていた。
 
 手前の藪が旧間川、奥のガードレールが新間川(間川河口付近)

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浄明寺

2016-08-19 00:00:00 | 街道・宿場町

(神奈川県鎌倉市浄明寺)
 鎌倉東部の山あい、横浜市金沢区との境の朝比奈峠より発する滑川及び、朝夷奈切通(あさいなきりどおし)に通じる金沢街道(六浦道)沿いに広がる地区である。「浄明寺」の地名由来である臨済宗稲荷山浄妙広利禅寺があり、文治四年(1188)足利義兼によって真言宗極楽寺として開創したのが始まりとされる。月峯了然のとき臨済宗に改められ、足利貞氏の法名をとって現寺名に改名されている。至徳三年(1386)足利義満は浄妙寺を鎌倉五山第五位の位次に決定し、最盛期には塔頭二十三院を有した。然し、その後度重なる火災で衰退し、現存する本堂は宝暦六年(1756)のものである。
           寛喜三年藤原頼経発願の真言宗飯盛山寛喜寺明王院
 
                浄妙寺
       建武元年開創の臨済宗功臣山報国寺
  報国寺入口の馬頭観音・聖観音・阿弥陀如来
 天平六年開創の天台宗大蔵山杉本寺

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牧野城跡発掘調査

2016-08-18 00:00:00 | 城郭・城下町

(愛知県豊川市牧野町)
 牧野城は応永年間(1394-1428)讃岐国から移り住んだ田内成富が、地頭を務めた牧野の地の名を苗字とし、城屋敷を構えたのが始まりとされる。故に城近くに構えられた屋敷(館)は讃岐屋敷と呼ぶ。永正二年(1505)成時(古白)のとき新たな本拠地として今橋城(後の吉田城)を築き、牧野城は廃城となった。何度となく訪れているこの牧野城であるが、圃場整備により西側の土塁と一部の城地が滅失することになり、市道予定地部分の発掘調査及び農地での試掘(トレンチ)が開始された。一月中はA区として農地内の調査を実施し、二月からは一旦三河国府跡(白鳥遺跡)の発掘調査を実施するため、牧野城跡の調査は休掘となり、五月頃から市道予定地部分をB区として再開するということであった。また、将来的には城跡の一部を史跡公園として整備する構想があるということである。
 Aトレンチ1993年1月27日
 Bトレンチ
 Cトレンチ
 Dトレンチ
 Eトレンチ
 Bトレンチ1993年3月3日}
 C区堀・土塁1993年5月27日
 C区堀・土塁1993年8月1日

(牧野氏関連記事:讃岐屋敷 瀬木城 牛久保城 吉田城 馬越城 竹本城 赤岩山城 和田城 嵯峨城 市田城 牧野成定廟 財賀寺本堂内陣 吉田神社 堂山の戦い 御堂山全福寺跡)

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金沢八景

2016-08-17 00:00:00 | 街道・宿場町

(横浜市金沢区瀬戸)
 京急線金沢八景駅を降りる。駅前は東口区画整理事業による整備途中で、横浜シーサイドラインの金沢八景駅も仮駅で少し離れている。鎌倉時代以降、鎌倉の外港として栄えた六浦湊等、景勝地として名を馳せた金沢八景であるが、江戸時代末期以降埋め立てや市街地化が進み、往時の風情は殆どない。その中で八景の一つ「瀬戸秋月」(せとのしゅうげつ)である瀬戸神社は、治承四年(1180)源頼朝が伊豆で挙兵した際に加護を受けた伊豆国三島明神(大山祇命:おおやまずみのみこと)をこの地に勧請したのが始まりという。神社背後の崖面には、隣の鎌倉特有である「やぐら」がみられる。
 
 瀬戸神社
 延宝八年の大風で立ち枯れした蛇混柏
      
 牧野兄弟が利根信俊を仇討ちするため放下僧に変装した場所
  
   京急車庫

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