flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

川中島 胴合橋

2007-11-26 00:00:40 | 街道・宿場町
(長野市篠ノ井)
 八幡原から南下、千曲川堤防下の小川に架かる石橋へ辿り付く。
往時は善光寺から松代に至る「長野道」に架かる橋であったという。
現在は“ドライブイン”敷地内となっており、この橋に直接通じる道は無い。標示が無ければ、その由来など全く感じさせないものである。然しこれは、平成15年の善光寺御開帳の際再現したものであり、往時からのものではない。
 永禄四年(1561)八幡原の戦いで「啄木鳥戦法」を見破られ、川中島西方、北小森村(勘助宮)で討死した山本勘助は、この場所で亡骸の血を洗い、離されていた首と胴体を合わされたという。故に後に胴合橋と呼ばれるようになったのだという。
そして橋の袂に墳墓が建てられたが、千曲川の水害が多い地であったために、江戸前期に千曲川対岸の東寺尾村に移葬された。
また、橋の前には、「鎮魂碑」が今年になって建てられた。


 胴合橋の南西、曹洞宗松操山典厩寺に向かう。
八幡原の戦いの際、武田信繁がこの地に陣を敷き、そして討死した。
寺内に亡骸を埋葬し、それまで鶴巣(かくそう)寺と称していた寺名を、承応三年(1654)に松代藩真田信之が、信繁の号典厩(てんきゅう)をもって改めたという。
   
 胴合橋と典厩寺の中間、往時は「長野道」沿いであった場所に鎮座する旧杵淵村鎮守、槌井神社に参拝し、松代へと向かった。

(関連記事:山本屋敷 勘助まつり 富士山本
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