flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

摩訶戸1号墳平成四年

2016-07-31 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県新城市一鍬田字下六田 1992年6月16日)
 摩訶戸1号墳の墳丘に変化があった。それまでの鬱蒼とした木々は伐採され、石室羨道(通路)部分の断面の一部がコンクリートブロックで被覆され、崩落防止の安全策がとられていた。訪れたこのとき、羨道地表から鎌倉時代の山茶碗片を採集した。今回の工事で出土したものと思われるが、中世に古墳の盛り土へ処分したものであろう。

(関連記事:摩訶戸1号墳昭和57年 摩訶戸4号墳 摩訶戸神社)

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文京本郷平成二十八年

2016-07-30 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都文京区本郷)
 五年振りにこの辺りを歩く。学生のまちではあるが、どこかコアな空気が漂う。南西の真砂付近を歩くと、苦情や反対の類の看板が目に付いた。
   
 旧晝夜銀行本郷支店1923年
 旧加賀藩前田家上屋敷御守殿門(赤門)
 元富士神社
      鐙(あぶみ)坂 坂沿いに金田一京助旧居がある

(関連記事:文京本郷平成二十三年 本郷給水所公苑 神田上水復元遺構 旧加賀藩前田家上屋敷御守殿門)

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高井遺跡群白石遺跡

2016-07-29 00:00:00 | いにしえの人びと

(愛知県豊橋市石巻本町櫃割 1992年6月1日)
 豊川と神田川が形成した河岸段丘に位置する遺跡である。この石巻地域の台地上は全て遺跡であると言っても過言ではなく、至るところで遺物を散見することができる。白石遺跡は縄文時代中期から中世にかけての複合遺跡で、一昨年の平成2年に行われた発掘調査の跡がそのまま残っており、大量の弥生土器が散見していた。また、台地西側縁端付近では縄文時代の大量の石鏃やその加工途中品が散見しており、石鏃製作所としての性格が推定できる。縄文時代は石器の他、土器は主に縄文時代後期の蜆塚式(浜松市)、晩期後半の五貫森式(豊橋市大村町)、晩期末の水神平式(一宮町上長山)、そして弥生時代前期の遠賀川式(福岡県水巻町立屋敷遺跡)、後期前半の寄道式(豊橋市瓜郷遺跡)、後期末の欠山式(小坂井町)、古墳時代の王江式(高浜市)等がある。また、北西側の台地縁端付近では貝塚も確認されており、この遺跡の層の厚さを知ることができる。

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多摩川諏訪の渡し跡

2016-07-28 00:00:00 | 水のほとり

(川崎市高津区諏訪・瀬田・東京都世田谷区玉川)
 多摩川右岸堤防のサイクリングロードと堤防県道を跨ぐ諏訪歩道橋の接点に碑が建っている。旧諏訪河原村から対岸の飛び地、諏訪河原村向河原(現世田谷区玉川)へ渡る作場(畑)渡しであった諏訪の渡しの記念碑である。耕作に通う四十軒の農家が共同で舟を出していたという。然し大正14年(1925)上流側に二子橋が開通し、渡しは廃止された。かつては上流側に二子の渡し(大山街道)、下流側に対岸の飛び地を結ぶ下野毛の渡し等があり、多摩川には多くの渡し舟が存在した。

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毘沙門山遺跡群

2016-07-27 00:00:00 | いにしえの人びと

(愛知県宝飯郡音羽町長沢字毘沙門山 1992年5月29日)
 名鉄本線と東名高速の間に位置する遺跡である。毘沙門山の名は、地内に毘沙門堂が建つ丘陵地があるためであり、また10基の古墳群がある。遺跡は緩やかに成らされた畑一体であり、地主によると縄文時代の石鏃が散布しているという。

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東新宿

2016-07-26 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都新宿区新宿)
 早稲田通りから明治通りを南下すると東大久保を経て東新宿である。後に開発された西新宿とは違い、甲州街道内藤新宿があったため旧来の新宿の趣を残している。旧上町の五丁目には倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀る花園神社(旧稲荷神社)があり、新宿総鎮守とされる。
     

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かぶと塚

2016-07-25 00:00:00 | いにしえの人びと

(愛知県宝飯郡一宮町一宮字西垣内 1992年5月17日)
 砥鹿神社の北側、旧伊那街道の近くの畑に小さな塚がある。かつては古墳とも考えられていたが、現在は埋蔵文化財として認識されていない。この塚に関するものとして、次のような言い伝えがある。昔、砥鹿神社の境内で突如身動きができなくなった村人がいた。そしてどこからともなく「神社北側の松の木の根元に枇杷の葉五枚と注連縄、塩と水を備えよ」と聞こえ、間もなく動けるようになったという。村人は後日聞こえた通りにすると、兜を被った武人が現れたという。その松の木の根元がこの「かぶと塚」だとされる。

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西早稲田

2016-07-24 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都新宿区西早稲田)
 神楽坂から早稲田通りを西に進むと、安くて量の多い飲食店や古書店等、次第に学生のまちに変化し始める。西早稲田は旧戸塚村、諏訪谷村、源兵衛村で成り立っているが、源兵衛村は大坂夏の陣で豊臣方であった小泉源兵衛がこの地に移り周辺を開拓し、明治22年(1889)まで源兵衛村と呼ばれていた。
   
  一樹山宗柏寺
 太子山龍善寺
 鷹狩りの徳川家光が落馬した場所から石地蔵が発見されたという「落馬地蔵」
  
   享保十一年の子育地蔵、寛文十三年の庚申塔、伊予青石で建てられた日露戦争凱旋記念碑「彰忠碑石」
 馬場口
 諏訪町
 学習院女子大学
 
  都電荒川線
         

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西川上地古墳群

2016-07-23 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県豊橋市石巻西川町上地 1992年5月17日)
 豊川水系間川支流郷道川、安川の河岸段丘上に位置する6基からなる後期古墳である。1号墳は久太夫塚と呼ばれ、西川城前の大福寺坂沿いの斜面に位置する。横穴式石室が古くから開口しており、火塚とも呼ばれる。火塚とは往古、空から火の雨が降った際に避難する場所であったことに由来する。2号墳は柿畑となっていて三方は耕作によって削られ小さくなっている。3号墳も隣接して残存するが、4号墳から6号墳は滅失している。
  
 2号墳

(関連記事:平野6号墳)

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穴八幡宮

2016-07-22 00:00:00 | かみのやしろ

(高田八幡宮 東京都新宿区西早稲田)
 早稲田通り沿いの古墳上に鎮座する神社である。康平五年(1062)源義家(八幡太郎)が奥州前九年の役の後、八幡神(八幡大菩薩:誉田別命:ほむたわけのみこと)を祀り、兜と太刀を奉納したのが始まりという。寛永十三年(1636)には徳川幕府により高田馬場が設置されると共に、御持弓頭であった松平直次がこの地に的場を築き、射芸の守護神とした。寛永十八年(1641)八幡宮を管理する別当寺の威盛院光松寺放生会寺(後に神仏判然令により独立)を建てるため、境内南側の崖を削った際に横穴が現れ、その横穴内から金銅の阿弥陀像が発見された。以後「穴八幡宮」と呼ばれ、幕府の祈願所、城北の総鎮護になったという。享保十三年(1728)徳川吉宗は、世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬(やぶさめ)を奉納した。その後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として流鏑馬が奉納されている。
        

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小金古墳

2016-07-21 00:00:00 | いにしえびとの睡

(こがね塚 愛知県宝飯郡一宮町足山田字小金)
 この古墳に初めて訪れたのは昭和59年9月27日(冒頭写真)である。当時は雑木に覆われ、地主が古墳の上に植木を並べたいと言っていた。小金古墳は、前方の水田から比高7mの丘陵上に位置し、直径32m(後の発掘調査で36m),高さ現状5.8m,葺石、造出を持つ円墳である。北東から中央にかけて幅7m,長さ10m,深さ4mの盗掘抗が開けられているが、これは明治38年頃、豊橋の薬屋が朱千杯、黄金千杯の伝説を信じて人夫を雇って発掘した名残である。その際の見学者の話では、瑪瑙(めのう)の勾玉、碧玉の管玉、鉄鏃が出土した他は何もなかったという。平成4年4月29日に訪れると、墳丘や周辺の樹木が伐採されていた。これは足山田地区開発中のキャッスルヒル城山カントリークラブの親会社、マキタ電機製作所等が入る工業団地を造成するためである。間もなく発掘調査が開始され、葺石(ふきいし:土砂流出を防ぐ石組み)のある二段築成の中期古墳であることは確認されたが、内部施設は先の盗掘により確認できなかった。石室石材が確認できないところをみると、粘土槨の木棺直葬であろうと推定される。同年8月22日の現地説明会では、発掘調査により葺石の間から若干の土師器片が出土したが、遺物はそれだけということであった。調査後の同年11月28日に訪れると、墳丘の四分の一が切り取られ、古墳の断面が現れていた。
 私の踏査ノート(1984年9月27日)

1992年4月29日
 盗掘抗南から
 盗掘抗北から
 北から
 南から
 丘陵下から

1992年11月28日
 東から
 北東から
 南西から
 西からの断面

 1994年5月29日
 北東から

1994年12月27日
 造成が完了した小金の台地

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旧安保小児科医院

2016-07-20 00:00:00 | 木のたてもの

(神奈川県鎌倉市御成町 景観重要建築物等指定第16号)
 御成通りに北欧ハーフティンバー様式を取り入れた小さな洋館がある。大正13年(1924)に建造された、木造2階建、延床面積115m2の医療施設である。平成7年に役目を終え、その後は鎌倉風致委員会の事務所として使われたが、現在は閉鎖されている。
  

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円福原3号墳

2016-07-19 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県豊川市豊川町遠通 1992年4月26日)
 河岸段丘上に位置する東山墓地の一角に土盛りがある。直径9.3m,高さ1.3mの円墳であり、この辺りには同様の円墳がかつて8基あったが、現在はこの1基を残すのみである。また、付近は開山当初の円福山妙厳寺(豊川稲荷)の旧跡地であることから円福原と呼ばれる。

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佐助稲荷

2016-07-18 00:00:00 | かみのやしろ

(神奈川県鎌倉市佐助)
 佐助ヶ谷の西の奥に稲荷社がある。社伝によると、源頼朝が夢の中で神霊と思われる老人が現れ、「儂は隠れ里の稲荷なり 平家討伐の兵を挙げよ 必ず加護しよう」と告げたという。その後、頼朝は壇ノ浦で平家を滅ぼし征夷大将軍となり、鎌倉幕府を成立させた。頼朝は、鎌倉の隠れ里で小さな祠を見つけ、「これが夢に出てきた老人の隠れ里か」と言って建立したのが佐助稲荷とされる。また「佐助」は、源頼朝の「兵衛佐」(ひょうえのすけ)という官位から「佐殿」(すけどの)と呼ばれた頼朝を「助けた」ことに由来するという。
 下社
       

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藤弦遺跡

2016-07-17 00:00:00 | いにしえの人びと

(愛知県宝飯郡一宮町金沢字藤弦 1992年4月23日)
 旗頭山の南西側は旧石器時代の遺跡、藤弦(ふじづる)遺跡である。現在は斜面に広がる墓地となっているが、地面から石器を見出だすことがある。

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