flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

和田城 嵯峨城

2007-04-05 00:00:55 | 城郭・城下町

(愛知県豊橋市石巻本町)
 昭和53年頃、豊橋市の古城跡で初めて訪れた高井城の後、この辺りを散策した。
豊川の支流、岡見沢川(馬越川)を下流から遡ると、やがて権現山とこの城跡の丘陵の間を抜ける。
木に囲まれた暗い谷あい、私の父はその場でアニメ、ムーミンに出てくる「おさびしやま」とネーミングしたことを思い出す。そんな光景の場所であった。
その沢沿いの小径も、今は草木で覆われ、自然へと還っていた。また、当時出来上がったばかりであった「せと橋」というガードレール欄干の橋も錆び、コンクリートは欠け、時代の移ろいを感じさせた。
 和田城は嵯峨城というとも、また別の城であるともいわれる城である。更には近隣の和田村高井城 と混同される場合もある。
南北朝時代、楠木氏族とも考えられる(或いは牧野氏か)和田民部と、戦国時代には渡辺久左衛門、その子助清が居城したという。この渡辺氏は、嵯峨源氏渡辺氏と関連があるのであろうか。
また、南朝史学会の説によると、和田城は三河守青木和田尉盛勝、嵯峨城は長慶天皇玉川御所の隠し城としている。
現行の小字として、城跡の字嵯峨の南隣を字御所と呼んでいる。(和田池、椙本八幡神社付近)
 城跡の一部に建つ、永禄九年(1566)渡辺助清創建の春興院の北側には、堀が東西に延び、途中北側へ垂直に延びる堀と土塁がみられる。東西の堀を東に向かうと、堀に沿って低い土塁が現れ、郭の形状を成し始める。更に東に向かうと、土塁に挟まれた堀が設けられ、その東側は郭を成している。更に東側は道路となっているが、道路の東側に堀割のような痕跡がみられ、道路が堀であったことも考えられる。
 現状を見る限りでも馬越川に沿った東西に長い連郭式城郭であったことがわかるが、和田城と嵯峨城、玉川御所を、隣接する別の存在のものであったとすると、この部分は広大な遺跡の一部に過ぎないのかもしれない。因みに城跡周辺は、弥生時代の遺跡でもある。
  

(春興院北側堀、土塁)
 

(中央部郭)
 

(中央郭、東側郭間堀、土塁)
  

(東側郭堀、土塁)
 

(市道道路東堀割)


(前回踏査’90.11.18時点縄張図)


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2 コメント

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ムーミン谷? (くらじろう)
2007-04-02 02:36:01
たくさんの堀・土塁の画像ありがとうございます。また出かける際に参考にさせていただきます。
ここでは、私も何枚か撮影したのですが、いいものが撮れませんでした。そうこうしているうちに「○○さん、何しているの?」なんて、知り合いに声をかけられて赤面してすごすご引き上げています。
ムーミンですか、懐かしいです。スナフキンやにょろにょろ(ハティファトナー)を思い出しますね。こんなのどかな風景がいつまでも残っていて欲しいです。
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冒険 (kourei)
2007-04-02 12:59:12
父の一匹狼的なところが、スナフキンのおさびしやまの曲にマッチしたようです。
もう、そのムーミン谷おさびし山の姿をみることができません、、塞がってしまいました。

城跡は鬱蒼としてるので、撮影しにくいですね。特に夏は…。
なんか出そうですし。
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