flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

富士 山本

2008-03-03 00:00:01 | 城郭・城下町

(静岡県富士宮市山本)
 富士市鷹岡地区から潤井川(うるおいがわ)山本橋を渡り、富士宮市山本地区へ入る。間もなくして案内板が目に入り、「山本勘助誕生地」の石碑が目に入った。石碑の前にある、長屋門の前で一休みしていると、門の向こうから人が現れた。「ようこそお越しくださいました」「こちらのほうが富士山をよく見えますよ」と、石碑の裏の山に案内され、丸太で作られた特等席に座った。そこで、勘助の諸説ある生誕の話等を伺った。私の居住するところが、三河八名郡賀茂説、黒田説、宝飯牛久保説等に程近いところであるため、話が盛り上がり、この方も賀茂、牛久保に来訪されたということであった。私自身は、この山本村に吉野氏は居住し、勘助の父貞幸のとき、勘助が出生する前後に一時、賀茂に移住したのだろうと考えている。また、勘助の養子先である大林家は、牧野氏臣であり、その牧野氏は讃岐から鋳物職人と共に賀茂と牛久保の中間、牧野村に訪れ(諸説あり)、後に今川氏に属したことをお話ししたところ、「讃岐説」のことを持ち出され、「ある先生が、勘助は讃岐の生まれである説を唱えていたが、その出所が分かりました」と言われた。また、勘助には眼帯にもあるように、鋳物が付き物であることも言われた。そして、様々な仮説を立て、それを各々白黒はっきりさせようとする学者の考えは、逆に浪漫が損なわれるようで残念と、そのような話しをしながら、下の屋敷内に案内され、系図を始めいろいろな資料を拝見させていただいたのだが、そこで初めて、案内していただいた方が、吉野本家のご当主であることが分かった。
    
 昭和36年の火災により、母屋を焼失してしまったそうだが、一部の文書は残すことができたという。然し、刀剣等数々の品は失ったということであった。ただ、江戸時代には代官を務め、その当時からの長屋門や、庭園はそのまま残っていた。現在、当主文郷氏は、横浜に居住されているが、殆どをこの先祖の地で過ごし、敷地内の手入れをされている。昨年は大河ドラマの影響で大勢の人でごった返したと言うが、年が明け、少しずつ平穏を取り戻しているようであった。然し、敷地内は、何やらイベントの準備のようにも見えた。そして間もなくして、JR職員の方が来訪し、当主との打ち合わせが始まった。明後日に催される、「さわやかウォーキング」の準備であることが分かった。私は今回、何の下調べもせず訪れたため、現地に訪れてから知ることばかりであった。
 
 吉野本家(吉野屋敷)を後にし、多田之森に鎮座する山本八幡宮へ向かった。吉野貞倫(さだとも)が創建し、誉田別尊=ホムタワケノミコト=応神天皇を祀るが、吉野氏の祖でもある多田満仲(源満仲)も併せて祀っているという。拝殿の奥には、嘉永六年(1853)に建造された本殿が収められている。
  

 この後は、由比寺尾、倉沢間の宿へ向かった。

(関連記事:山本屋敷 勘助まつり 川中島八幡原 胴合橋 海津城
富士宮 湧玉池 富士宮てくてく

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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おはようございます! (みっちゃん)
2008-03-01 06:00:48
おはようございます!

 富士山が良く見えるところへ、案内されて色々とお話を聞かれたご様子ですが、綺麗に撮れていますよ。
 楽しい、取材が出来ましたね。
 
 今日は、有難うございました。
 
返信する
こんにちはっ (kourei)
2008-03-01 13:57:15
みっちゃんさん ありがとうございます

おうちから富士山が見えるのがうらやましかったです
この日は当初の予定がなくなってしまった日なのですが、それを取り返したような感じでした
返信する

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