(市場城 月ヶ谷城 豊橋市嵩山町)
嵩山(すせ)集落の北側にある二城。
字山角庵、標高206mの山頂に位置する月ヶ谷(わちがや)城と、字市場、月ヶ谷城の麓に位置する市場城。その位置関係と在城時期から、双方は監視砦と館城の関係にあったと推定できる。
当初、この辺りには小枝左京進という人物が所領していて、大永三年(1523)に一時期松平氏に属していた西郷信員がこの地に進出したと伝わっている。
市場城も同時期に築かれたと推定し、その後今川氏下に戻った西郷氏が月ヶ谷北方の中山村に主体を置き、代わって同じく今川氏に属する奥山氏が遠江から移ってきたと考えられる。
永禄三年(1560)桶狭間の戦いによって今川義元が没すると、西郷氏は再び松平氏に属し、それによって義元の子氏真ら勢力によって二城を攻撃され落城した。
市場城は遺構として、西部土塁の一部が南北に残るのみである。
旧城域は現在、耕地や宅地及び自由ヶ丘団地の一部となっている。
月ヶ谷城はその市場城の北側に位置し、尾根の頂きに主体部を置き、北から一段、二段、その下に帯郭を設けている。
(主郭上段低土塁)
主郭の縁には低い土塁を巡らせ、辺りに散在する岩石を用い、土留めを施している。
(主郭段差)
(主郭下段土塁)
(主郭下段西側虎口)
(主郭下段南側虎口)
二段目には西側と南側に虎口が残り、南側は枡形の形状がみられる。
(帯郭南東側)
二段目南側の帯郭には井戸が口を開けている。この帯郭の東西には、尾根地形にあわせた幾つかの段差がみられ、西側の付け根には両端を土橋状にした短い堀がある。
南東側尾根には円墳の荒木15号墳があるが、周囲のやや削平した地形から、この場所にも何らかの施設があっただろうと推察する。
城の辺りの地名は旧嵩山村であったが、隣接して西側を月ヶ谷村といった。
月ヶ谷(わちがや)の名の由来は、城跡に程近い旧正宗寺末、月ヶ谷山萬福寺の寺紋が「輪違」(輪が繋がった形状の紋)であることからとされている。
嵩山(すせ)集落の北側にある二城。
字山角庵、標高206mの山頂に位置する月ヶ谷(わちがや)城と、字市場、月ヶ谷城の麓に位置する市場城。その位置関係と在城時期から、双方は監視砦と館城の関係にあったと推定できる。
当初、この辺りには小枝左京進という人物が所領していて、大永三年(1523)に一時期松平氏に属していた西郷信員がこの地に進出したと伝わっている。
市場城も同時期に築かれたと推定し、その後今川氏下に戻った西郷氏が月ヶ谷北方の中山村に主体を置き、代わって同じく今川氏に属する奥山氏が遠江から移ってきたと考えられる。
永禄三年(1560)桶狭間の戦いによって今川義元が没すると、西郷氏は再び松平氏に属し、それによって義元の子氏真ら勢力によって二城を攻撃され落城した。
市場城は遺構として、西部土塁の一部が南北に残るのみである。
旧城域は現在、耕地や宅地及び自由ヶ丘団地の一部となっている。
月ヶ谷城はその市場城の北側に位置し、尾根の頂きに主体部を置き、北から一段、二段、その下に帯郭を設けている。
(主郭上段低土塁)
主郭の縁には低い土塁を巡らせ、辺りに散在する岩石を用い、土留めを施している。
(主郭段差)
(主郭下段土塁)
(主郭下段西側虎口)
(主郭下段南側虎口)
二段目には西側と南側に虎口が残り、南側は枡形の形状がみられる。
(帯郭南東側)
二段目南側の帯郭には井戸が口を開けている。この帯郭の東西には、尾根地形にあわせた幾つかの段差がみられ、西側の付け根には両端を土橋状にした短い堀がある。
南東側尾根には円墳の荒木15号墳があるが、周囲のやや削平した地形から、この場所にも何らかの施設があっただろうと推察する。
城の辺りの地名は旧嵩山村であったが、隣接して西側を月ヶ谷村といった。
月ヶ谷(わちがや)の名の由来は、城跡に程近い旧正宗寺末、月ヶ谷山萬福寺の寺紋が「輪違」(輪が繋がった形状の紋)であることからとされている。
でもこの時期、撮影はかなり大変だったのではないですか?
あの一件で月ケ谷からしばらく足が遠のいていますが、koureiさんの刺激を受けて、再チャレンジしてみたくなりました。(笑)
次に紹介されるのは、やはり嵩山のあのお城ですか・・・?
目で見たのと、写真で見るのとは見え方が違って、遺構の形状が伝わらないのが残念です。
私が登るとき、付近の方々が大勢散歩中でお話しなども伺ってみましたが、南西側から登るほうが自然にいけそうですね、いろいろな意味で、、、
中山から来たようなピクニックスタイルで上がられては?(笑)
あ、の、お城は最近行ってないので、もう暫くしてからになりそうですね。
草木が深そうなので、涼しくなってからのほうがいいかな?と考えています。
もう少し撮影の腕を上げたいと思います。
そうですね、南西側ですね。3年前の12月はこちらから登りました。画像はCDに保存してありますが、なぜかPCに落とし込めなくなってしまいました。東西三河の城関係だけでこんなのが十数枚もあるのです(泣)。
あちらの城は当方の過去ブログで確認したら、5月下旬に訪問していました。草が繁茂していたように思います。
上の写真も、かろうじてどこかわかる?っていうような感じです。
南西側が一番斜度がゆるいですね。
私は同じ道を通るのがあまり好きではないので、いろんなコースを通っていますが…。
メディアが受け付けなくなっているのですか?
コピーもできないのですか?
貴重な資料が残念ですね、、
やはり草が深いですか。
しばらく山のお城めぐりはおあずけになりそうですね。
何か出没されても困りますし(笑)