flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去のノートから…
 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

布袋大仏

2007-08-31 00:00:37 | 大きな仏さま
(御嶽薬師尊 江南市布袋町)
 日頃、名鉄犬山線を利用している人であれば、窓越しに見かけた人も多かろう。畑や民家の間に顔を出す薬師さま。
昭和24年、元々この地に住み、名古屋で開業していた灸師が夢の“お告げ”によって自ら建立したコンクリート製の像である。5年の歳月をかけ、高さ18mの像は完成した。
 灸師は神社神道系である木曽御嶽本数を信仰していた。「御嶽薬師」は、少彦名命(スクナヒコナノミコト)が医薬禁厭(まじない)を司り、俗に「お薬師様」と呼ばれる、御嶽大神六神の一つとするものであり、厳密にいうと仏像ではないことになるが、製作者の神仏習合の観点から造られた像である。
 像の背後には背もたれのように建物がつながっている。像の開眼時、宗教法人化された御嶽薬師尊の教会と、治療院を兼ねた建物である。
 現在、像の前方で名鉄犬山線の立体交差化事業が進められていて、それにより分断されている青木川と犬山線を越える都市計画道(県道157・175号線)等が整備されることになっている。辺りの光景が変わるのも、そう遠いことではない。

 訪れているとき、通りがかりの親子連れが、「大仏さま、こんにちは」と言っていたのが印象に残った。
        後ろ姿は、思いのほか華奢な薬師さまである
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今治みなと 平成十九年

2007-08-30 00:00:43 | 漂い紀行

 海事都市今治。当初から鉄道駅よりも、港のほうが玄関口としての意味合いが大きい。それは愛媛県各地よりも瀬戸内海に張り出した地形であるため、諸島、山陽地方はもとより、関西各地からの航路が発達した。
そして往時は「四国の大阪」といわれるほど、この港により商業、産業も振興した。
しまなみ海道開通により、人の流れがやや変わったが、今でも市民の安らぎの場としての光景を目にすることができる。
  有津屋川

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刈谷城

2007-08-29 01:00:42 | 城郭・城下町

(刈屋城 亀城 愛知県刈谷市)
 刈谷へは昭和57年から訪れて始めて以来、特に最近は所用で数十回訪れている。潤ってはいるのだが、寂れた街。私が知る時期だけでも、その商業的衰退は著しい。そして財政状況良好な工業都市であるためか、いわゆるハコモノ整備は進んでいるが、城跡などの観光や史跡整備等はあまり関心がないようだ。
  
 天文二年(1533)水野忠政が、それまであった刈谷城(本刈谷神社付近)を移転拡大し、築城したのが始まりである。一時、佐久間信盛の所領となるが、再び水野氏のものとなった。そして水野勝成のとき、大和郡山へ移封、勝成弟忠清が入るが、間もなくして三河吉田へ移封された。代わって吉田から松平忠房が入った。慶安二年(1649)に忠房が丹波福知山へ移封し、伊勢桑名から松平定政が入ったが、改易となり、越後三条稲垣重綱が入る。元禄十五年(1702)稲垣重富のとき、上総大多喜の阿部正春と入れ替わった。そして、宝永七年(1710)正春子正鎮のとき、上総佐貫へ移封、越後村上より本多忠良が五万石で入ったが、二年後に下総古河にに移封した。代わって日向延岡から三浦明敬が移るが、延享四年(1747)義理のとき三河西尾へ移封、入れ替わって土井利信が入り、廃藩まで土井氏が続いた。
 
 往時は天守は無く、隅櫓のみであったという。その後建物石垣等は取り払われ、現在は本丸、二の丸跡及び土塁、堀が残り、北側の隅櫓のあった場所には十朋亭(じっぽうてい)が建っている。第二次世界大戦時には高射砲陣地となり、地形がやや改変されたが、昭和44年に亀城公園として整備された。然し、街外れの公園という感が否めなく、多少の整備が望まれる。
 三の丸東側には土井氏の時代、藩校文禮館が設けられた。現在の亀城小学校へとつながっている。


(関連記事:椎の木屋敷 町口門跡
(地域関連記事:逢妻 依佐美送信所 井ヶ谷 刈谷市中央図書館 漫ろ刈谷 さしじん

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鳥生祇園神社

2007-08-28 00:00:34 | 孝霊天皇流族関係記事

(愛媛県今治市祇園町 鳥生三嶋神社)
 蒼社川、蒼社橋のたもとに鎮座する神社。地元では「祇園さん」と呼ばれ、親しまれているお宮である。
私の父も生前、子どもの頃の思い出を語るとき、必ず「祇園さん」が登場していた。そのこともあり、私も今治に訪れる際、必ず参拝している。
 この神社は、貞観十一年(869)京都八坂神社から須佐之男命を分霊し、現在地に創建した神社と、同じ旧鳥生(とうりゅう)村地内にあった三島神社を明治2年に合祀したものである。
 鳥生三島神社は、崇峻天皇二年(589)鴨部押領小千(越智)益躬が、木ノ下(=樹下、旧鳥生村付近)の浜に上陸し、榊の木の枝に大山積命の鏡を懸けて祀ったのが始まりとされる。
その榊の木に多くの白鷺が集まり巣を作った、それにより鳥生の宮と呼ばれるようになり、地名にもなったという。
また、後になってこの地に伝わった伊勢神楽の流れを汲む獅子舞が、周辺各地に広まった。故に境内には「獅子舞発祥ノ地」の石碑が建てられている。
  

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備後 福山城

2007-08-27 18:00:22 | 城郭・城下町
(葦陽城 広島県福山市 国指定史跡 日本100名城71番)
 福山駅に隣接する福山城。空襲を受け多くの古建築を失った福山ながら、筋鉄御門鐘櫓、そして伏見城から移築したという伏見櫓が残されている。
 外周を一周し、福山市埋蔵文化財収蔵庫裏に放置されている五輪塔の残欠が気になりながら本丸に入った。空襲で焼失した五層六階の天守と、二層三階の付櫓が昭和41年(1966)に再現され、福山城博物館となっている。常設展「福山の歴史と文化」のほか、このときは「いしぶみの拓本展」が催されていた。また、博物館の付随施設として昭和48年(1973)に鏡櫓が再現され、文書館となり、資料の整理等が行われている。
 本丸南側には鐘櫓、伏見櫓のほか、本丸天守と共に再現された月見櫓と伏見城が移築したという御湯殿がある。また、二の丸西坂口門から下りると、いたるところに未修復の石垣が散乱していた。続いて、三の丸跡に建つ、広島県歴史博物館見学の後、藩主阿部氏臣内藤家の移築長屋門を見学した。

 福山城の築城は遅く、元和五年(1615)に松廼尾山と常興寺山を切り離して独立した丘をつくり、廃城となった伏見城や神辺城の材料も用いて築城され、十万石で大和郡山から水野勝成が入った。四代水野勝種の死後、勝岑が出生間もなく藩主となったが、翌年早世したため無嗣除封となった。元禄十三年(1700)出羽山形より松平忠雅が入るが、宝永七年(1710)伊勢桑名に移封する。そして下野宇都宮より阿部正邦が入り、以後九代阿部氏が続き廃藩を迎えるが、阿部氏は江戸詰の藩主であったという。
         
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橘館

2007-08-26 00:00:51 | 孝霊天皇流族関係記事

(愛媛県今治市広紹寺町)
 墓参の後、蒼社川右岸旧立花村に建つ男山八幡宮と、隣接する瑞華山廣紹寺を訪れた。この地は過去に一回、1990年4月15日に訪れている。
八幡宮境内の二俣楠は変わらないが、2001年、入口付近に蒼社川を超える都市計画道が築造され、境内地が狭くなったように感じた。
 推古天皇の時代、河野氏の祖である鴨部押領小千(越智)宿禰益躬の館がこの地に築かれたという。
その後、延元四年/暦応二年(1339)同地に河野氏族鳥生貞実が男山八幡宮を建立、また同年に、細川頼之が父頼春の菩提を弔うため、貞実の世話により廣紹寺(弘浄寺)を建立した。
 

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備後福山

2007-08-25 00:00:24 | 街道・宿場町

(広島県福山市)
 墓参に向かう途中、福山経由の道程を選んだ。
今春に墓参した際も同じ経路で訪れたが、通り過ぎるだけで、そのまましまなみ海道を通ったが、今回はこの地で宿泊することとした。私は通常、岡山、香川まわりで愛媛今治入りするが、今治は高縄半島の突き出た部分にあり、対岸が近い福山、尾道、三原からの往来が多いという。
 三階建て高架駅の耐震工事中である福山駅を降りると、南口は中心市街地、北口はすぐ前に福山城がある。人口は46万人を要す、広島県東部の中心地であるが、広島県といえども旧備後国であり、距離的にも近い岡山文化の方が濃い。街道は、神辺で西国街道に接続する、出雲街道や尾道街道がある。
 市街地を散策した後、福山城に向かう。
続いて中世民衆の町、草戸千軒町遺跡を詳しく紹介した、広島県立歴史博物館を観覧した。
更に、北吉津町松廼尾山に鎮座する、福山八幡宮に向かった。福山城築城までは、城のある常興寺山(蝙蝠山)に鎮座したとされ、二組の社殿を持つ、別表神社である。そして八幡宮の東方、平安時代に牛頭天王社として勧請され、後に秋州津神社と改称し、福山城の丑寅の方角にあたることから、艮神社と呼ばれるようになったという、うしとら神社等、城下町故に、集中した場所に神社仏閣が多い。空襲を受けているため、中心部は古い建物は少ないが、落ち着いた風情を見せる本町界隈を歩き、旧城地であった天守の見える宿に向かって、この日の日程を終了した。
       

(関連記事:福山城 伏見城 福山平成二十一年 芦田川  仙酔島 百貫島 鞆の浦 山中鹿助首塚 ささやき橋 鞆城 まなびの館ローズコム 伏見櫓 福山平成二十五年 福山城平成二十五年 草戸千軒

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ブログ二周年

2007-08-24 23:30:14 | kourei-ki-日記-
「漂い紀行振り返り版アーカイブ」として始めたブログ。
今日をもって二周年を迎え、962回に達した。

私は何かと流行には躊躇するほうであり、世間にブログが浸透しても暫く乗り切れないでいた。
が、手持ちの私日記と連動でき、画像も保存できる、そして出向いた地方の人との情報交換もできるということで使い始めることにしたのだ。
あれから何人かの人と出会い、続ける励みにもなった。

また、自分の勉強になり、参考に使っていただけることもある。

今後も埋もれた歴史や言い伝えなどを大事に、続けていきたいと思っています。
どうぞ宜しくお願い致します。
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平成15年度 八幡砦跡発掘調査

2007-08-24 00:00:01 | 城郭・城下町
(2003年8月24日 豊川市八幡町)
 平成10年度から行われている「国分寺北遺跡」発掘調査。
三河国分寺の関連遺跡西側の台地縁端に築かれたのが八幡砦である。
先回、平成11年度調査に訪れたときは、砦跡南側の調査であったが、以後北側に広げられ、砦のものと思われる掘立柱遺構や、井戸が検出された。
また先回同様、旧石器や、縄文時代の遺構、遺物も検出された。
 今回の調査は、区画整理に伴うもので、調査後遺構は取り壊され、整地されることになっている。
    
(関連記事:平成11年度八幡砦跡発掘調査
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能見城

2007-08-23 00:00:30 | 城郭・城下町
(能見古屋敷 岡崎市元能見町)
 この日は、松応寺松平広忠廟からこの地に差し掛かる。
伊賀川に面した城跡は現在、住宅地や道路となっており、遺構は何も残らないが、唯一、川のみが往時の面影の一つとして、残るだけである。
 松平信光八男の光親が、能見松平家祖となり、この地に移り住んだ。その際、伊賀川を挟んで建つ見松山観音寺の堂宇を寄進したという。墓所も同寺にある。
三代重吉のとき、加茂郡寺部城を攻め、功を挙げている。そして重吉四男重勝のとき、関東移封となり、家康六男松平忠輝の家老となった。
その後大名家となり、重勝は越後三条、下総関宿、遠江横須賀の藩主を務めた。
 
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火おんどり

2007-08-22 00:00:10 | 民俗・伝承
 
(信玄原火踊 愛知県新城市竹広 県指定無形民俗文化財)
 山県昌景墓所前方で“タイ”と呼ばれる(大松明)に点火された道行は、信玄塚に差し掛かる。

 天正三年(1575)五月、設楽原で繰り広げられた合戦は、多くの戦死者を出した。
亡骸を大塚、小塚の二つの場所に埋葬し、霊を弔ったが、その年の夏、塚の辺りから群蜂が発生し、近くを通る信濃往還の往来も妨げられる程の状態になったという。
住民は、武田軍の亡霊が現れたのだと思い、川路勝楽寺の和尚が読経をして松明を焚いて供養したところ、群蜂の姿は無くなったという。これが、火おんどりの始まりとされる。その後、次第に松明も大きくなり、また囃子も合わせて行われるようになったという。

 信玄塚に差し掛かると、左回りに道行し、回り終わると、大塚、小塚の間に用意された松明にも点火、火踊が始まる。開始早々はまだ火が小さいが、次第に燃え広がり大きくなっていく。そして “タイ”を戦場の光景を再現するかのように、十文字斬りを模り振り回す。辺りに灼熱の空気が流れ、踊者も見物人も、その勇ましさに酔いしれていく。
  
 踊場周囲には大量の撮影者がいる。踊者の気持ちも盛り上げ、プラスになる部分もあるが、なかには流れを乱し、場内を動き回って邪魔をするようなマナーの悪い撮影者もいる。私は人々の大勢集まる行事に訪れた際、撮影は数枚にしておき、五感で感じる見物を大切にしたいと思っている。よって、これら催事の写真枚数は非常に少ない。
    
 火おんどりが終わる頃、燃え上がった大松明を見ていると、落城を思わすような瞬間を感じるときがある。この熱い行事が終わると、間もなくして秋がやってくる。
 

(関連記事:火おんどり採火式 設楽原決戦場まつり 鍋づる万灯 乗本万灯
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鎌倉大仏

2007-08-21 00:00:23 | 大きな仏さま
 鶴岡八幡宮から江ノ電に乗り、長谷駅に到着。
北へ向かって歩くと、大異山高徳院浄泉寺がある。
真言宗として開山し、臨済宗、浄土宗と改宗されている。
前身である、本尊木造阿弥陀如来を暦仁元年(1238)に着工し、寛元元年(1243)に完成したと吾妻鏡に記されている。然し宝治元年(1247)大風で倒壊、建長四年(1252)に青銅製の阿弥陀如来が鋳造された。
当初は大仏殿があり、建武二年(1335)、正平二十四年/応安二年(1369)の大風や明応二年(1495)の津波で倒壊し、以後露座となり、今に至っている。
 高さ13.4m(総高)の胎内に入ると、戦後に行われたFRP(ガラス繊維強化プラスチック)による頸部の補強痕がある。また、関東大震災で破損した台座部の補強や、頸部の補強と同じくして行われた免震構造が確認できる。
また、換気と採光のための扉が背後にある。
  
(関連記事:兵庫大仏
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火おんどり 採火式

2007-08-20 00:00:45 | 民俗・伝承
 8月15日の夜、旧竹広村の庄屋峯田家では、採火の儀式が行われる。
当主により火が熾され、松明に点火する。
そして鉦、太鼓、笛を伴い、道行が始まる。
火おんどりの坂を上り、山県昌景墓所の前方で”お種”と呼ばれる松明から”タイ”と呼ばれる大松明に点火され、信玄塚での回向が始まる。
       
(関連記事:火おんどり
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飯田

2007-08-19 00:00:14 | 城郭・城下町

(長野県飯田市 1998年8月19日の日記から)
 「伊那路」で北へ向かう。
天竜川に沿い始めると、乗り堪えのある感じとなってくる。それは三信鉄道時代そのままの紆余曲折を繰り返し、天竜の流れと共に登竜するからである。
 二度目の飯田に到着した。
飯田城二の丸であったところには、美術博物館が建てられ、丘陵上であることから、松川や鼎、赤石方面が望められる。
博物館は、基本設定を「伊那谷の自然と文化」とし、常設展示を「豊かな伊那谷の自然とその生いたち」と「伊那谷の風土とそこに生きる人々」としている。
特別展示は、開館10周年記念として脊椎動物化石研究者、長谷川善和氏のコレクションから「ゾウ化石の発掘から復元まで」と、人形美術家、川本喜八郎展が催されていた。三国志と平家物語の人形劇用人形を主に展示していたが、同氏記念館を市内に建設する計画があるようだった。
 隣接して本丸跡には、柳田國男館と、日夏耿之介記念館がある。民俗学の盛んな信州地方において、飯田藩士柳田家に養嗣子としての経緯等から、所縁の地として東京世田谷から國男の書斎「喜談書屋」を移築し、資料等を開放している。これは、理想の姿であると思う。また、柳田國男記念伊那民俗学研究所が開設され、活動も始められている。
隣接して建つ、日夏耿之介記念館は、飯田出身の近代文学者であり、建物と共に作品、遺愛品が展示されている。これら文化施設をみて、伊那地方の中核地らしい部分を感じた。
 本丸跡には長姫神社が鎮座する。飯田城主堀氏を祀ったものである。
飯田城の前身は建保年間(1213-18)坂西長由が築いたことに始まる。
天文二十三(1555)には武田氏臣秋山信友が入り、城郭を改修した。天正十年(1582)織田勢により落城し、変わって毛利秀頼が十万石で入城するが、本能寺の変後は家康臣下条頼安、天正十五年(1587)には菅沼定利が入った。天正十八年(1590)には秀吉の命により再び秀頼が入るが、文禄二年(1593)に死去した。変わって秀頼娘婿の京極高知が入り城郭を改修、慶長六年(1601)丹後宮津に移封した。続いて小笠原秀政が入るが慶長十八年(1613)信濃松本に移封、一時天領となったが、元和三年(1617)伊予大洲から脇坂安元入った。安元の養嗣子安政の代には播磨龍野に移った。そして、寛文十二年(1672)下野烏山から堀親昌が移封、以降廃藩まで堀氏が続いた。
 飯田城跡は宝暦四年(1754)建造の桜丸御門や、外堀石垣、石塁また、移築された二の丸門等が残るが、末期は一万石代であったものの、城郭の規模に対して残存する遺構が少なく、整備復元等も進んでいないのが残念に感じた。
    
 飯田城跡を後にし、別府の縄文遺跡を踏査しようと丘を下ったところ、突然の豪雨にみまわれた。急遽、雨宿りをしたが、その場所は飯田城時代には自然の形状を活かした堀であった場所であった。その場所は民家が密集し、雑然とした光景が広がっていた。天候は回復をみなかったが、伊那から遠州、三河と戻り行く度に、段階的に天気が回復していった。国境とはよくできたものである。

(地域関連記事:元善光寺 天竜峡

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乗本万灯

2007-08-18 00:00:40 | 民俗・伝承



(愛知県新城市乗本 県指定無形民俗文化財)
 8月15日に行われる旧乗本村の送り火行事。
 村内秋葉神社で熾された聖火を、山腹の大日堂(大日山安居院)に運び、六本の松明に移されて道行が始まる。鉦、太鼓、笛を伴った道行は、一旦山を下り、本久集会所を横切って山道に入り、鳶ヶ巣山途中の万灯山に差し掛かると、麦藁で作られた万灯に火が移され、縄のついた万灯を頭上で振り回す。
 長篠の戦いの際、乗本では多くの戦死者を出し、その霊を弔うものとして起こったという。後に村人男子の通過儀礼を含むようになり、今に続いている。
  元火(聖火)
        
この日隣接する地区では、大海の放下市川鍋づる万灯信玄原火踊等が行われる。

(関連記事:乗本万灯平成二十年

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