(愛知県新城市中宇利 県指定史跡)
私がこの辺りを訪ねるようになったのは昭和53年、その頃何度かこの宇利城跡の山に登ったが、それ以来全く訪れていなかった。然し宇利城関連施設とみられる慈眼寺館や慈廣寺、比丘尼城へは何度か訪れていた。
今回27年振りに登り、周囲を見渡してみたが、以前と同様に登山道以外の場所は草深く、地形が見辛いのは相変わらずであった。また、中腹に建つ、「宇利の戦い」(後述)の際討死した、松平清康の叔父、福釜松平親盛の碑(寛保二年(1742)半原藩六代安部信平が建立)は一層風化が進んでいた。
「御馬屋平」と呼ばれる郭入口の埋没した井戸は姿を現していたが、先回見られた主郭下の井戸は草木で覆われ、姿を隠していた。
標高160mの主郭部に到着。「宇利城趾」「熊谷備中守実長碑」の石碑と、大きな看板は変わらずにあったが、大きな平面図の標示板が無くなっていた。そして「姫御殿跡」と呼ばれる二の丸跡は、変わらず草に覆われていた。
主郭北西部に残る土塁の北側は堀切で、その北側には「納所平」と呼ばれる郭である。更にその裏手には堀切が残っている。
草深い主郭跡下を搦手側から回りこみ、石積みを観察する。そして最後に二の丸東側、「御馬屋平」の郭へ向かった。
宇利城は、文明年間(1469-87)熊谷重実が築いたとされるが、それ以前から熊谷氏がこの地に居住していたであろうとする説もある。
享禄三年(1530)熊谷実長のとき、実長が松平清康勢に従わなかったため攻められ、防戦の後に火を放たれて落城した。
実長とその子直安は裏手から逃げ、設楽郡兎鹿嶋(北設楽郡豊根村)に落ち延びて行ったという。また、伝説には熊谷氏の娘が落城の際、金の茶釜と共に井戸に飛び込み、命を落としたというものがある。
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