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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

上田城

2007-11-29 00:00:21 | 城郭・城下町

(尼ヶ淵城 長野県上田市 国指定史跡 日本100名城29番 日本の歴史公園100選117番)
 元々小泉氏の館跡があったとされる旧千曲川沿いのこの場所に、天正十一年(1583)真田昌幸によって新たな城が築かれた。
 甲斐武田氏滅亡の天正十年(1582)「天目山」以後、旧領地に対しての和議が成立した。そして天正十三年(1585)徳川家康が真田昌幸に対して、北条氏に分け与えるべく真田氏領地の一つ、上野沼田の明渡しを要求したが、昌幸はこれを拒否し、徳川勢が攻め込むに至った。(第一次神川・上田城合戦) 然し真田勢はこれを保守し、徳川勢は撤退した。
 慶長五年(1600)石田三成が挙兵した際、策略を企て昌幸とその二男幸村(信繁)は石田勢に、長男信幸(信之)は徳川秀忠勢に加わった。そして昌幸らは降伏すると見せかけ、油断したところで反逆し、徳川勢を退けた。(第二次上田城合戦)
 その後、真田昌幸と幸村は九度山(高野山)に配流、信幸(信之)は上田城主となった。然し、元和八年(1622)信之は信濃松代へ移封となり、信濃小諸から仙石忠政が入った。忠政は、「関ケ原」直後に破却された城を復興、このとき築造されたものが、現存する西、南、北の櫓である。
      
 宝永三年(1706)仙石政明のとき但馬出石へ移封、代わって藤井松平忠周(ただちか)が入った。忠愛(ただざね)、忠順(ただより)、忠済(ただまさ)、忠学(たださと)、忠優(ただます)、忠礼(ただなり)と続き廃藩となった。
    
 現在、城跡には三つの櫓と本丸堀、土塁及び石垣、井戸、北虎口石垣と石樋、二の丸石垣と二の丸堀が残されている。二の丸堀はその後、上田交通真田傍陽線の路盤としても利用され、二の丸橋の下には、公園前駅が昭和47年(1972)まで存在していた。また、平成六年(1994)には北櫓と南櫓の間に東虎口櫓門が再現されている。
   
 この後、旧北国街道の町並みを漫ろ歩いた。

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