flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

大須から高須へ

2007-09-30 00:00:17 | 水のほとり
(岐阜県羽島市・海津市)
 竹鼻線羽島市役所前駅から、自治体の支援を受けてタクシー会社が運営する羽島市代替バスに乗って大須に向かう。2001年竹鼻線の江吉良~大須間の廃止によってバス化された区間である。

 大須は「州」を意味する地名であり、長良川によって大いなる影響を受けたことを表している。これから向かう「高須」も同様の意味を持つ。そして大須は、慶長十七年(1612)名古屋に移された、大須観音の由縁の地でもある。

 長良川に沿う集落大須から、海津市広域バスに乗り換えて南濃大橋を渡り、海津市高須へと向かう。何のアナウンスもなく、狭い道を紆余曲折する自治体支援バス、他所から来た者であれば、さっぱりわからないであろう。前もって目的地を言っておかなくてはならない。
旧平田町中心地今尾を過ぎ、旧海津町の役場を過ぎると、旧海津町時代に建てられた歴史民俗資料館に到着する。屋外には、高須輪中の干拓に使用されたトロッコ機関車や排水機が置かれ、館内は輪中の歴史と、高須藩の歴史及び藩御館を再現した建物が資料館最上階に設けられている。辺りは川沿いの平野で風も強く、あちらこちらで老朽化しつつある光景を目にしたが、ややバブルの遺産的な雰囲気を否めなかった。
  
続いて高須の町並みや高須城の跡に向かった。
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相州 小田原

2007-09-29 00:00:03 | 漂い紀行
 いつも通過点であった、この地に初めて降り立った。
小田原提灯と蒲鉾のまち…私の修業時代、同安居の仲間が住むまちである。
駅は思いのほか大きく、乗降客も非常に多い。同じ練り物特産の我が近隣豊橋と比べても、小田原は人口が半分ながら、乗降客は豊橋の3倍も有する。
 近年橋上化された駅を出て、東口を右方向に行くと、小田原城がある。
城内二の丸小峰郭跡には明治27年(1894)に創立した報徳二宮神社があり、二宮尊徳の銅像が立つ。また、南郭跡には昭和30年(1955)に開館し、老朽化しながらも市域の歴史全般を紹介する市郷土文化館、隣接して、アメリカ移民となった同市出身星崎定五郎氏の寄付金によって、昭和34年(1959)に開館した市立図書館(星崎記念館)がある。
   
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日本海沿岸上空

2007-09-28 00:00:12 | 漂い紀行
 新千歳空港に着くと、台風接近のため太平洋側方面の路線は、行き先を変更するか、引き返す場合があります。のアナウンス。しかし離陸の時点で航行可能と判断され、出発した。
行きのジャンボと違って、小さい飛行機。そのせいなのか、離陸時の圧はあまりないが、細かな揺れがある。
今回飛行機に乗って、遊びを持たせてあるのか、翼がふわふわと揺れることがわかった。また、雲の切れ間や、気流の変わるところは小刻みに羽を調整しているのがわかった。

 上空から見える地形と、脳裏の地図を照らしあわせるのが面白かった。
そして雲に覆われた山岳部上空に差し掛かるにつれ気流の関係で、ぐわんぐわん揺れたが、乗り物大好きな私は、周りに失礼ながら楽しかった。
 厚い雲に覆われた中部空港に到着。
そして行きの電車から帰りはバスに変えて、インター近くの我が家へと向かう。止んでいる雨よ、もう少し待っていて!と思う私であった。
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アジサイ開花

2007-09-27 21:00:09 | まちの違和感
 我が家のアジサイ。
梅雨終了とともに花は枯れ、剪定しておいた。

季節はずれのこの時期、一つの茎に花びらが見えた。
一輪は小さいのに、大きな花びら。
今後が楽しみだが、いつもならもう既に見かけ、花びらの落ちる時期のヒガンバナもあまり見かけない。
今年は春の訪れが早く、夏の終わりが遅い。

自然界も迷う、最近の季節の変動である。
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千本松原 千本浜

2007-09-27 01:30:39 | ふるさとの木々

(富士海岸 静岡県沼津市)
 この日は県内移動中に大雨洪水警報が発令され、また東海道線富士駅構内では信号故障もあり、熱海行き列車は、沼津で運転打ち切りとなった。
駅を降り、アーケードを伝って港の方へ向かうことにした。市街地は、昨年の3月以来である。
 沼津は飲食に関する店が多い。私自身過去数回訪れた際にも、いろいろな店で食事をしたが、皆美味しいと感じた。今回は軒先だけで営業しているトンカツやミンチカツ、カツサンドを売る店で、出来立てを買い食いしながら散策した。
  
 旧東海道に差し掛かると浅間神社があり、千本松通りに入ると僧増誉が開いた浄土宗千本山乗運寺がある。三枚橋城及び沼津城主松平康親や水野忠友の菩提所にもなっている。
 
 乗運寺から程近い、沼津公園と刻まれた西園寺公望書の石碑が見えてくる頃には、また雨が降り出した。隣接する千本プラザという生涯学習機能を兼ね備えた福祉施設で雨宿りすることにした。
館内では地元「鬼の会」メンバーが作成した写真、書、絵画等を展示する「鬼展」が開催されていた。
 
 千本プラザを後にし、沼津公園内に入った。
明治44年(1911)徳川頼倫らによって史蹟天然記念物協会が設立され、この地の自然林の保護が取り上げられたという。また、園内には明石海人、井上靖、観海学人、昭憲皇太后、角田竹冷、若山牧水の文学碑が立つ。
そして石の多い千本浜を歩き、伊豆、富士方面を眺めた。
やはり雲が多く、富士は一部しか姿を見せなかったが、足元には雨上がりで輝く丸石が「ここの主役はわしだよ」と言っているようだった。
  
 東海地震による津波警戒のため高く築かれた防波堤によって景観が損なわれている千本松原。土砂の堆積も無くなり、土壌環境が変化しているようである。この日は大勢で松林内の清掃作業が行われていた。
 
千本松原へは昨年の5月、東海道原宿散策の際にも訪れている。

(関連記事:東田子の浦

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「かわいがり」

2007-09-27 00:00:36 | 天祐語録
…が相撲界で問題となっている。
狭い領域で抑圧されることによって起きる、閉鎖的事象。

私は以前、僧堂というところにいた。
そこでは、これと同じようなことが起きていた。
仏につかえる身でありながら、殴る蹴るは日常茶飯事で、血を吐くものもいた。
警策(座禅で用いる棒)や木刀、あるいは鉄パイプで殴る。
私も傷跡を残している。

入門から五分の一に減る僧侶。
残る者は、凶悪犯のような人相となっている。また、強さを保つため、体を鍛える者も多い。
逃げ出す者は当然のこと居り、暴力によって身体障害者となった者も居た。
被害者家族からの警察騒ぎになることもあったが、暫くすると何事も無かったかのようにことが収まっている。
地元での長年の関係から、警察とも結託しているのだ。

これは修業世代の人間だけが起こすことではない。
いわゆる、位の高いとされる世代に渡って、堂内においての人間的差別、脅迫、金銭の窃盗や資金の使い込みもが起きている。

僧侶の世界は、畜生、奴隷、人間、仏様の段階がある、という。
また、宗として決めている僧侶の“格”というものも、3等、2等、1等、権大…
というように、上下の差をつくっている。
身分の低い僧侶は、高い僧侶に対して顔を見ることも許されない。

仏門の世界に対して、一般世界を“シャバ”と呼ぶ。
その団体生活は、まるで極道の世界。
堂内での人間関係は、親分子分のような関係である。
弱肉強食、全体責任、抑圧された世界だけに、弱いところにしわ寄せが行き、強い者は何ら痛むことはない。

僧堂歴の無い僧侶が中には居るのだが、その人のほうがより人間らしい。
逆に、修業歴が長いほど、高慢になり易く、人を見下げたり、自分が全て正しいと自惚れる。
また、僧堂のある場所によってもその閉鎖性は違う。
山間部にある僧堂は、市街地にある僧堂とは違い、自分と違う相手を認めることができない、狭い考えを持っている。井戸の中の蛙状態となるのである。

私は資格取得までの期間、その宗派で2番目の位とされる人の内弟子であった。
国内僧侶のVIPといわれる人たちに接したり、あらゆる宗派の人たちとも会った。
また、帰俗してからも、様々な宗教とその人たちと接して、実状を垣間見た。
その中で組織と閉鎖性は、様々な形で見せ付けられた。

私は一般社会の人たちのほうがよほど自然な信仰をしていると感じており、以来特に僧侶が信用できないでいるのである。
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札幌の近代

2007-09-26 18:00:03 | STRUCTURE-構造物残影-
 帰郷の朝を迎えた。
より一層曇天の朝、今日の天気予報は次第に雨ということだ。
「すすきの」の宿から北へ向かって歩く。

 すすきの及び西一条停留場からは市電「一条・山鼻線」が出ている。
明治末期、石材輸送のために敷設された、札幌石材馬車鉄道を起源とし、大正時代には札幌の市街地に路線を廻らした。
モータリゼーションや地下鉄開業により、最盛期の三分の一の距離となったが、近年では延伸計画が持ち上がっている。
 札幌市電で使用されていた車両には、昭和51年(1976)名古屋鉄道に譲渡され、岐阜市内線等で使用されていたモ870形連接車があるが、平成17年(2005)岐阜軌道線全廃により廃車された。但し、車両片側前面のみ切り取られたものが、旧美濃町線美濃駅内に保存されている。

 
 中央区北2,3条、西5,6丁目に跨って、北海道庁がある。
敷地内には「赤れんが庁舎」と呼ばれる、旧道庁本庁舎が建つ。
明治21年(1888)に完成した、煉瓦及び石造り2階建て(一部3階、八角塔屋部5階)延床面積4,864㎡のネオバロック様式建造物である。
明治29年(1896)八角塔撤去、明治42年(1909)庁舎全焼があったが、翌々年復旧している。
昭和43年(1968)新庁舎完成と共に庁舎機能を移転、八角塔の再現及び修繕工事を行い、国指定重要文化財となった。
 
旧庁舎内には、北海道立文書館、北海道開拓記念館、樺太関係資料館、赤れんが北方領土館等が設置開放されている。

  
 最後に、道庁西側にある「かでる2・7ビル」に向かった。ここには北海道立アイヌ総合センターがあり、指定管理者として社団法人北海道ウタリ協会が運営管理にあたり、財団法人アイヌ無形文化伝承保存会事務室も併設されている。
センター一角には資料展示室がり、アイヌ文化の歴史を紹介している。

  札幌駅に到着した。
列車に乗り込むと同時に雨が降り出した。厚い雲に覆われた新千歳空港から、今回いろいろなことを教えてくれた北の大地を後にした。
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Recollection Expo 2005 Aichi Japan Ⅳ

2007-09-25 00:00:06 | 漂い紀行

 愛知万博(愛・地球博)閉幕から二周年を迎えた。
総入場者数は2200万人であり、私も辛うじて訪れた大阪万博の6400万人と比べると、非常に少ない。
また、愛知万博はリピーターが多かったことと、高度成長時代に開催された大阪万博との価値の違い、開催場所の影響などが数値に表れている。
関東、関西圏の人たちは多く訪れたが、それ以遠の人はあまり訪れていない。
 以下は私が過去4回(開幕期間外を含めると6回)訪れた内の、開催期間内最後に訪れた日の光景である。
(2005年9月4日)
(会場内散策順:グローバルハウス・オレンジホール・マンモスラボ・名古屋市パビリオン大地の塔・長久手愛知県館(美和町の日・地球タイヘン大講演会第2973回)・森の自然学校南の森・経済協力開発機構・国際熱帯木材機関館~燃料電池バス~ウェルカムハウス・瀬戸会場・天水皿・市民パビリオン・瀬戸愛知県館(森の劇場)・わんぱく宝島・ロボットステーション・地球市民村)
              
(過去記事:2005/ 3/20 4/14 6/21 6/24 9/26

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勇払追分

2007-09-24 14:00:38 | かみのやしろ
(胆振支庁勇払郡安平町)
 夕張発千歳行列車は、追分駅で40分の停車をするので、まちに降り立ってみることにした。
追分は、2006年に追分町と早来町が合併してできた安平(あびら)町の地区である。
安平の地名は、安平川に由来し、アイヌ語でアラビラペッ(片側が岸になっている川の意)という。
元々、この地は植苗村安平であったが、室蘭線と旧夕張線の分岐点となったことから、追分と名付けられたという。
 広い駅前から「御祭禮」の幟に誘導され安平川を渡ると、今日の石勝線沿線で最も多くの人影を見た。追分八幡神社の祭礼のようである。
露店が並び、終わるところから神社に向かう坂の両側に提灯が立つ。坂を上り切ると、更に大勢の人たちがいた。
参道の真中に酔いつぶれて寝ている人の姿、その向こうには社殿が見えた。
明治27年(1894)追分開拓の守護神として創立した神社で、明治32年(1899)現在地に社殿を建立する際、鎌倉鶴岡八幡宮より気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)、誉田別尊(ホムタワケノミコト=応神天皇)の二柱を分祀した。
       
 つかの間の滞在であったが、坂の上から夕刻のまちを望み、北のまちの営みを感じた。
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「新岐阜」

2007-09-23 06:00:44 | RODEN-哀愁のRailway-

 大正3年(1914)美濃電気軌道駅に名付けられ、長らく市民に親しまれていた新岐阜という言葉は、正式な名称としては既に存在しない。平成17年(2005)中部空港開港時に、冠を「新」から「名鉄」に改め、また同年末に新岐阜百貨店も閉店したためである。
 この地は県都ながら、ドーナツ化により商業の衰退が著しい。名鉄駅周辺だけをとってみても、平成14年(2002)ダイエー撤退、新岐阜百貨店閉店、平成18年(2006)岐阜パルコ撤退、各種飲食チェーン店の撤退、平成17年(2005)岐阜市内電車の廃止…マイナス項目は事欠かない。
 岐阜は名古屋の植民地だという者がいる。東海四県といいながら、静岡県は独立地域的であり、また関東圏に近い。三重県は近畿圏に含む場合もある。然し岐阜県は愛知県と施策で同調、共有する部分も多く、他県より近い関係にあることは間違いない。
 駅前の衰退といいながらも、駅から排出される人の数が少ないわけではない。ただ、名古屋方面で仕事や買い物をする人が多く、駅前は単に通過点となってしまっているからだ。よって、名古屋のベッドタウンの駅前といったほうがより近いのかもしれない。

 平成18年(2006)より新岐阜百貨店及び岐阜乗合自動車が入居していた新岐阜ビルの解体が始まった。昭和32年(1957)(後に改修)に建設された、RC及びSRC構造5階建て、延床面積24,300m2の建物で、一時は増床、改築の計画もあったが頓挫、百貨店の売上も最盛期の半分に落ち込み、赤字収支に転落し、閉店に至った。そして新駅舎建設のため、北側敷地面積約2,000m2の部分が先ず解体された。部分解体と並行して新駅舎及び商業施設の建設が開始され、平成20年(2008)に全面完成を目指している。然し、将来的に岐阜~岐南間の高架化計画があり、岐阜駅の築堤部分の高架化、仮駅の設置等、現在行っている名鉄岐阜駅に関する事業は、あくまでも暫定的としている。

 岐阜パルコは、名古屋パルコに先駆け昭和51年(1976)に開店した、地上8階地下1階、延床面積8,876m2のファッションビルで、売上が最盛期の20%代まで落ち込み、平成18年(2006)に旧セゾングループのパルコ業態としては、初の閉店となった。不動産は名古屋の学習塾に売却された。
 平成19年(2007)1月に解体を開始したが、狭い敷地に対し、低い天井の層ながらRC構造としては現在の建築基準に達しないコンクリート量であるため、解体が比較的難しく、完了が遅れているという。また、解体中に死亡事故が発生している。解体完了後は、1,043m2の敷地に商業ビルを建設する予定となっている。
 

 私が三十年間見続けているこの地の光景、一年を通じて同じ景色はなかった。

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清水沢から夕張、そして追分へ

2007-09-22 00:00:17 | RODEN-哀愁のRailway-
 南部からバスで清水沢に到着。千歳行き列車には、まだ一時間程あった。
駅構内は、かつて大夕張鉄道が乗り入れていた頃の、広い側線跡を残す。
駅前を歩いてみる。お世辞にも栄えているとはいえない街並みを目にし、ここに至るこれまでの経緯を改めて思った。
 小さな工場のような外観の駅で暫しの休息をしていると、反対方向夕張行きの列車が入ってきた。この列車が折り返して千歳行きになるようなので、乗車することにした。

ゆっくりと登っていく列車、夕張駅に到着した。
一線だけの停留所のような無人駅、駅舎は新しかった。すぐ折り返すので、再び同じ列車に乗った。
下る方が明らかに早い列車。夕張川を跨ぎ、石勝線本線に入った。
北の大地らしい東追分付近の車窓が見えてくると、間もなく追分駅に到着する。
この駅では40分の停車時間があるので、追分のまちを歩いてみることにした。
         
(関連記事:石狩から胆振、空知へ
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太田宿 平成十九年

2007-09-21 01:30:07 | 街道・宿場町

(中山道五十一番 岐阜県美濃加茂市)
 先回、平成14年に訪れてから5年の歳月が経ち、町並みにも変化がみられた。
案内パンフレットができ、表示が進み、脇本陣林家住宅に隣接する建物の開放、そして太田宿の歴史を紹介する中山道会館が開館していた。またその一角には、明治19年(1886)函館に生まれ、晩年は美濃加茂に住した漫画家、岡本一平の居宅「糸遊庵」が移築されていた。
増えたものもあれば、消えたものもあった。それは以前聳え立っていた、5層の酒蔵が無くなっていたのである。
       
 林家住宅を撮影していると、中から声がかかる。
二人のご婦人が話し掛けてきたのだった。
前回は開放されていなかった建物にいる二人、一人は管理している方、もう一人はご近所の方のようである。
いろいろとお話をした後、中山道会館へと向かう。
そして会館を後にし、更に西に向かって歩いていると、それまで秋晴れであった空模様から一転、雨が降り始めた。よって太田駅の方向へと歩みを変えることにした。
途中、外国人にとある文字の読み方を尋ねられ、またその直後に日本人に道を尋ねられた。
 今日はよく声を掛けられる一日であった。

(関連記事:伏見宿 鵜沼宿

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夕張市南部市民体育館

2007-09-20 00:00:31 | STRUCTURE-構造物残影-
(旧三菱南大夕張体育館 夕張市南部新光町)
 南部新光町バス停の横には、古い体育館がひっそりと佇んでいる。
平成2年(1990)三菱南大夕張炭鉱閉山と共に夕張市に譲渡された施設である。
夕張市の財政再建により、今年に入ってから閉館している。よって今まで年間240万円の補助金で賄われていた光熱費、除雪費、管理費等、市からの運営予算も全く無くなり、地区住民による自主運営となった。そして住民により無償で管理、清掃、冬季には除雪が行われている。
  
また 体育館横には、閉山で住民のいなくなった夕張川対岸から移設された、炭鉱殉職者慰霊碑がある。
(関連記事:夕張「南部」 南大夕張駅跡
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中津川宿

2007-09-19 00:00:48 | 街道・宿場町

(中山道四十五番 岐阜県中津川市)
 中津川へ私は、過去に平成13年10月と16年1月、17年9月に訪れている。下呂飯田への交通の要所である中津川のまちの北側には、国鉄下呂線として利用する計画もあった、今は無き北恵那鉄道の路盤が今も所々残る。中山道筋であった新町の街並みは、商店の数が減ってきていたが、以前訪れたときの高度成長時代からストップしたような雰囲気から、街並み再生への取り組みが感じ取れた。
 新町の一角には、前回は閉まっていた「間家大正の蔵」がある。外観は現代的ながら、大正6年(1917)に建てられた市指定文化財である。蔵は鉄筋コンクリート、ラーメン構造の建物であるが、壁や床には、付近産の木材をふんだんに使っている。間(はざま)家は、赤穂浪士四十七士の内、三人の名が見える家系で、中津川では年寄役や商家をしていた。戦後、約3000㎡あった敷地建物の取り壊しや売却が行われたが、この蔵と一部の庭が残され、平成4年(1992)に市に寄贈された。そしてここでは、今年90歳になられる方に、蔵の中と、間家のことを説明していただき、あわせて、大正時代からの中津川の移り変わりも説明していただいた。
 まちを横切る四ツ目川を大井宿の方向へ渡ると本町になる。そこにある中山道歴史資料館を見学し、本陣、脇本陣跡界隈を漫ろ歩いた。
         
(関連記事:落合宿 落合山中 落合石畳 十曲峠新茶屋 神坂

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南大夕張駅跡

2007-09-18 00:00:32 | RODEN-哀愁のRailway-
(大夕張鉄道 北海道夕張市南部大宮町)
 夕張鉄道バス終点、南部バス停近くにある、旧大夕張鉄道の駅の跡である。
明治44年(1911)大夕張炭礦が国鉄夕張線清水沢より専用鉄道を敷設し、二股駅として開業したのが始まりである。
翌年、三菱合資会社が経営に参画を開始し、大正7年(1918)三菱鉱業大夕張駅となり、昭和4年(1929)には南大夕張駅となった。
また、この駅より大夕張営林署による下夕張森林鉄道が昭和20年(1945)から昭和41年(1966)まで分岐していた。
昭和62年(1987)大夕張鉄道は廃止され、平成2年(1990)には大夕張炭鉱も閉山した。
その後駅以外の線路と駅舎は撤去されたが、駅のホームに、昭和15年(1940)製キ1形貨車(ラッセル車)、大正2年(1913)製スハニ6形客車、明治39年(1906)製オハ1形客車、昭和12年(1937)製ナハフ1形客車、明治44年(1911)製セキ1形貨車(石炭輸送用)、昭和9年(1934)製セキ2形貨車(連結順)が夕張市に寄贈された。
然し、維持保存が成されなかったため、地元有志たちにより平成11年(1999)「三菱大夕張鉄道保存会」が発足し、維持保存がされている。
そして平成13年(2001)北海道遺産(空知地域炭鉱遺産)に認定された。
              アライアンス式連結器
 保存会の手により、定期的に修繕がされ、管理されているが、保存場所等の根本的整備が自治体等によって行われていないため、維持が難しい状態にあるといえる。
過去の遺物としての見方では、ある意味演出効果のような光景となっているが、産業遺産として見る場合、現状のままでは明らかに整備が不足している。
廃線後の経緯と自治体や関連企業のこの地への動向を耳にしたが、あまり関心がなく、周辺整備や保存に関して、その動きも年々下降線を辿っているという。
(関連記事:旧三菱南大夕張体育館
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