(愛知県蒲郡市三谷町・大塚町 三河湾国定公園)
私が出生した場所から近いこの海岸は、かつて「東海のナポリ」と呼ばれたこともあった。然し今は、大多数の宿泊施設が倒産や民事再生になり、衰退のイメージばかりが漂う地となってしまった。
(旧三谷温泉ロープウェイ駅)
(今はなき、中国料理店の看板)
(ふきぬき跡の基礎)
(旧ふきぬき本館)
(弘法山)(もぬけの殻の四海波)
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(滋賀県大津市浜大津 市登録有形文化財)
膳所から石山線に乗り、浜大津に向かう。大津の中心市街地である浜大津には、スクラッチタイルの戦前建築がある。昭和9年(1934)に築造された、地下一階地上三階、延床面積1720㎡の商工会議所、図書館併設の公会堂である。昭和22年(1947)商工会議所移転を機に大津公民館となり、昭和42年(1967)からは中央公民館となった。昭和50年(1975)には中央公民館が大津市民会館に移転することになり、市民センター及び急病診療所として使用され、昭和60年(1985)からは大津市社会教育会館として利用された。平成20年に改修及び耐震補強工事が成され、施設の指定管理及び商業施設の導入が始まった。
(関連記事:琵琶湖浜大津)
(しほんじ 奈良県天理市櫟本町人丸)
和邇下神社前に存在した奈良時代創建の寺院である。山号は治道山といい、東大寺の末寺であり、柿本氏の氏寺であった。また、この地に柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の遺骨を葬ったことで、「歌塚」として有名となったが、室町時代に衰退し西約500mに移転、明治初期に廃寺となっている。歌塚の碑は享保十七年(1732)柿本寺の僧や、医師で歌人の森本宗範によって建てられたものである。平安時代末期の公家で歌人である藤原清輔の『清輔朝臣集』に、「大和国石上柿本寺という所の前に人磨呂の塚ありと聞きて卒都婆に柿本人丸の塚としるしつけて傍にこの歌をなん書けり 世を経てもあふべかりける契こそ苔の下にもくちせざりけれ」とある。
(広島市中区袋町 市指定重要文化財)
原爆ドームの南東方向にある被爆建物である。昭和11年(1936)に築造された、RC造3階地下1階、延床面積3214㎡の銀行建築である。昭和20年(1945)原爆投下によって被爆したが、倒壊は免れている。平成4年日銀広島支店は基町に移転、建物は市に無償貸与された。
(愛知県犬山市)
昭和37年(1962)名古屋鉄道犬山線犬山遊園駅とラインパークのある動物園駅(昭和55年よりモンキーパーク)を結ぶモノレール線として開業した路線である。私自身もラインパーク時代から何度か乗車した。平成20年、モノレールは採算性と老朽化を理由に廃止され、平成23年から施設の撤去が行われている。
(静岡県掛川市掛川 1982年6月30日)
袋井から東隣の掛川に訪れる。まちは整備途中なのか、歩道にあたる部分が所々舗装されておらず、これからという感じが漂っていた。旧東海道を横切ると間もなく掛川城に辿り着く。堀として使われた逆川を渡ると、左手には三の丸跡に建つ無機質な市役所があり、右手には旧三の丸東南隅櫓(太鼓櫓)がある。そして、かつて天守があった場所には、コンクリートブロックで固められた天守台に、日露戦争戦勝観世音菩薩像(終戦後は平和観世音像に改称)が建っていた。
(逆川)
(旧三の丸東南隅櫓:太鼓櫓)
(三の丸跡に建つ市役所)(霧噴井戸)(掛川城天守台)
(天守台に建つ平和観世音像)
(天守台より北門方面を望む)
掛川城は文明年間(1469-87)今川義忠臣朝比奈泰煕(やすひろ)が子角山(ねずみやま:掛川古城:大猷院殿霊屋)に築城したのが始まりである。永正年間(1502-20)に現在地に移転し、古城は出城となった。永禄十一年(1568)朝比奈泰朝のとき、徳川勢に攻められ今川氏真と泰朝は、相模小田原へ退去し、代わって掛川城には石川家成・康通親子が入った。天正十八年(1590)家康が関東に移封すると、掛川城には豊臣秀吉臣であった山内一豊が五万一千石で入り、掛川城の拡張を実施した。然し、関ヶ原の戦い後は、土佐高知に転封となっている。
(天守台より掛川古城・霊屋を望む)
(大猷院殿霊屋)
明暦二年(1656)北条氏重のとき、三代将軍徳川家光(大猷院殿)の霊牌を祀るために霊廟を掛川古城跡に建立した。現存する建物は文化十五年(1818)に火災で焼失し、文政五年(1822)に再建されたものである。また、一昨年解体修理され、現在は隣接して管理人が居住している。
(重文 掛川城二の丸御殿 文久元年)
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(ぜぜ 滋賀県大津市本丸町)
「膳所」の由来は、平安時代、この付近が魚介類を朝廷の食膳に納める所とされたことに由来するという。慶長六年(1601)琵琶湖畔に築かれた膳所城は、日本三大湖城(松江城・高島城)の一つとされる。縄張りは藤堂高虎が計画し、琵琶湖に突き出る形で城郭が築かれ、本丸西隅に四重四階の天守が建てられた。
初代城主は大津城主であった戸田一西が三万石で入り、子の氏鉄は元和三年(1617)摂津尼崎に転封となった。代わって三河西尾より本多康俊が入城。元和七年(1621)子の俊次のとき、西尾へ転封となった。代わって、伊勢長島より菅沼定芳が入城し寛永十一年(1634)丹波亀山に転封。続いて下総佐倉より石川忠総が入城し、その子憲之は慶安四年(1651)に伊勢亀山に転封となった。その後は再び西尾より本多俊次が七万石で入り、以後十三代本多氏が廃藩まで続いた。
(近江大橋と近江富士) (二の丸多聞櫓 現膳所浄水場) (市民文化センター)(膳所神社)(重文 旧膳所城大手門)