flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

輪っぱ依存症候群

2007-03-31 21:00:40 | 天祐語録
 車輪に依存する現代人達…。
車を運転しない私に対して、○○○(身障者)かと言う者がいた。
私は目に多少の障害を持って、それにより運転しないというのもあるが、必ずしも乗らなくとも生きていけると思っているからである。
そして最大のエコは自動車に乗らないことであるから。
クルマがないと動けないというが、果たしてそうだろうか。
学生時代、電車バス自転車を駆使して通っていたと思う。
渋滞を見てどう思うか、殆ど一人しか乗っていない。見える範囲内を集めると、バス一台に収まってしまう程の人数。それだけ自動車は、はばかっているのである。そして彼等はそのバスを邪魔だといっているのである。
最も、全てを否定するわけではない。事業用車、過疎地の交通手段、お年寄りの介護のため、障碍者の足変わりなど役目はある。
以前、ある人が、仮に目が殆ど見えないとしても、それを隠してでも車を運転しなければ、特に地方では差別対象に値するのだという。
私は人との競争心ががなく、仲間を維持するために悪いことも含めて何事も無理に合わせることがないので、孤立し迫害を受けたこともある。

もう一つの輪っぱに、ショッピングカートがある。
たくさんの買い物とあれば、当然使うものであるが、最初から少量の買い物にカートを引いて狭い店内を周りに気を使わずに人、物に当たりながら押す者。やはり地方ならではの捨てゼリフ、「車輪のあるものが優先でしょ!」というのがあった。買うものが特になくても無意識に押してしまう、楽だからと。
あと、最近増えだしたのが、キャリーカートである。
必要、不必要に関わらず引っ張っている者がいる。混雑したところでは非常に迷惑である。

もはや身体の一部となったこれら車輪製品。
体裁や流行で使用している者たちが、老年期を迎えたとき、衰え、退化の程度はいかばかりなものだろうか。
環境が悪化するまえに、人間が心身共に終焉を迎えそうである。
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北村荘グランドホテル

2007-03-31 00:00:03 | STRUCTURE-構造物残影-

(和歌山市田野 2003年3月29日)
 万葉集にも詠まれた景勝地、和歌浦の高台に昭和37年(1962)に開業。斜面に造られたRC造5階、延床面積8,700㎡の宿泊施設である。数回の増築の際、当時の月面着陸の事柄に因んで、部屋の名前を星の名で表した。また、展望浴室は浴槽が回転する装置になっており、宇宙回転温泉と呼ばれた。昭和62年(1987)映画「男はつらいよ第39話寅次郎物語」でロケ地になったこともあったが、計画性のない増築によって施設が500名収容と大型化し過ぎたこと、それに反比例して車寄せ以外駐車スペースが全く無いことや、エレベーターが1基しかない等のサービス面からも客足が減少し、昭和57年(1982)に会社は倒産。その後自主運営を続けたが平成6年(1994)に廃業となった。特徴のある構造物であったため侵入者が続出し、近隣からの苦情も絶えず、また放置されたことによる損傷で周辺の美観を損ねることや、東南海地震等が起きた場合、崩壊の恐れが出てきたこと等から、平成17年度を目途に寿司由楼と共に取り壊されることとなった。



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和歌浦

2007-03-30 00:00:03 | 海道・みなと

(わかのうら・わかうら 和歌山市和歌浦 瀬戸内海国立公園 国指定名勝 2003年3月29日)
 名古屋から大阪まで名阪特急で向かうのは初めてである。大阪は一年半振り、思いのほか肌寒かった。続けて南海電車に乗る。大手私鉄であり、設備もしっかりしてはいるが、何処となくローカルなイメージが感じられる鉄道である。
 峠の県境を越え人口40万の海都和歌山に到着。和歌山市駅という市の表玄関駅ではないためか、ひっそりとした駅周辺である。
 奈良、平安の昔から歌枕として詠まれた和歌浦へ向かう。
神亀元年(724)聖武天皇行幸のとき、弱浜(わかはま)を明光浦(あかのうら)と改命されたのが始まりとされているこの地は、歴史を感じる地というよりも、住人ののんびりとした暮らし振りに、余生を暮らすのには良い場所といった様相であった。実際、若人は少なく、観光客もかなり減少しているようで、宿泊施設も半数以上は閉鎖されており、ゴーストタウン的な一面も持っているが、海側に目をやると瀬戸内海の碧い海、手前に目をやれば南欧の港町のような町並みの残している。


(関連記事:
和歌山城 北村荘グランドホテル 寿司由楼 岡徳楼

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SNS

2007-03-29 18:00:44 | kourei-ki-日記-
 流行から毎度立ち遅れる私。
HP、アバター、ブログ…それらをやや遅れて経験した私。
その中で一番優れないと思ったのは、アバターである。
HPやブログは不特定多数な閲覧者がある。SNSはある程度同様な志を持った人たちの集い。然しアバターは狭い領域で考えの違う者たちがいるだけに、問題が発生し易い。
そんな中、招待されて初めて仲間入りできる、そのソーシャル・ネットワーキング・サービスというものに私もようやく踏み込んだ。
通信制学校メンバーの招待によるものだが、メディア教育学も学んでいる私にとって、重ねて心強いものでもある。
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睦沢学校

2007-03-29 01:00:49 | 学びのやかた

 山梨県令、藤村紫朗の指示によって明治8年(1875)山梨県中巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建てられた、二階建延床面積419.94�の木造校舎。
昭和32年(1957)に睦沢小学校は吉沢小学校と統合、敷島北小学校となったことにより廃校となり、校舎は昭和36年(1962)まで睦沢公民館として使用された。
その後昭和41年(1966)に甲府市武田氏館跡に移築され、国指定重要文化財となり現在は藤村記念館として開館している。
 山梨県にある幾つかの擬洋風建築は「藤村式建築」と呼ばれている。

(関連記事:見付学校 煥章学校 開智学校 文武学校

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躑躅ヶ崎館

2007-03-28 00:00:04 | 城郭・城下町
(武田氏館 甲府市古府中町 日本100名城27番)
 永正十六年(1519)武田信虎が築いた館城。
九つの郭と堀が取り巻くが、段階的に増設されたものという。
天正十年(1582)に新府城へ移るまで、北方の要害山城と共に武田氏本拠地であった。
武田氏の後、一時的に織田信長臣川尻秀隆が入ったが、後徳川家康臣平岩親吉が入り、城郭の拡大及び整備が行われた。然し天正十八年(1590)周囲に城下町を配する南方の甲府城に移転され、廃城となった。
 大正8年、館跡に信玄を祭神とする武田神社が創建された。
平成31年が甲府開府五百年となるため、それを踏まえて館跡の市有地化を進め、発掘調査の後、史跡公園として段階的に整備される予定となっている。
      
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武田氏館跡大手口発掘調査

2007-03-27 00:00:50 | 城郭・城下町
 永正十六年(1519)に武田信虎によって築かれた躑躅ヶ崎館
甲府開府五百年に向けて公園整備が進められ、その前提として発掘調査が続けられている。
今年度は大掛かりな調査は一先ず最後ということであり、東側大手口外郭で調査が進められ、三日月堀(丸馬出)、家臣屋敷跡の礎石、柱穴、天正九年(1581)武田勝頼新府城移転後の甲府城代平岩親吉以後に築かれたと思われる大手前の石塁等が検出された。
    
(関連記事:要害山城
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要害山城 熊城

2007-03-26 00:00:08 | 城郭・城下町

(甲府市上積翠寺町)
 甲斐府中を見下ろす標高780mの要害山。
武田氏臣駒井政武が記した「高白斎記」には、永正十七年(1520)積翠寺丸山(後の要害山)普請始まるとある。同時に築かれた熊城と共に武田信虎の居城である。
大永元年(1521)福島正成が攻め込んだが、要害故に攻め落とせなかったという。このとき、晴信(信玄)が生まれたといわれている。(麓の積翠寺において出生という説もある)
 城は斜面を段状に開削し、多数の郭を設け、八つの門と土塁、竪堀、堀切を配する。
不動郭と呼ばれるところには、江戸時代に立てられた「武田不動尊」が下界を見ている。
また、頂きの主郭には、「武田信玄公誕生之地」の碑が立ち、最も広い平坦地を有する。
築城の際は数多くの岩石が出土したのだろう、所々石垣が組まれている。石垣の配し方からみて、防御の役割よりも地形維持の性格が高いように感じられた。
 隣接する熊城も同様の石垣、堀切及び小さな郭が並び、要害山の北東側を防御する目的で築かれたものであり、要害山城の一部と捉えることもできよう。
                
 尾根伝いに下り、武田氏館跡へと向かった。

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積翠寺

2007-03-25 00:00:04 | ほとけのいおり
(甲府市上積翠寺町)
 甲府盆地の付け根、笛吹川支流相川沿いに位置する積翠寺の集落。
大永元年(1521)武田晴信、後の信玄が生まれたところとされる地である。
上積翠寺には、行基開山の石水寺、後の積翠寺が建ち、境内には「信玄産湯の井戸及び産湯天神」がある。
また一説には、背後の要害山城で出産したともいわれている。
鎌倉時代から知られていた温泉が山麓にあり、それを使用したのかもしれない。
辺りはその地質から、岩石が多く露頭し、石に関する信仰対象物、金石文、遺構を多く残す。
     
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槍出城

2007-03-24 06:00:08 | 城郭・城下町
(鎗殿城 豊川市東上町白楽)
 宮出川と松本川に挟まれた、本宮山から舌状に伸びる台地端部に位置する。
江戸時代の書物「三河国二葉松」には「ヤリ手山ト云所、東上村勝川古城」と記載され、昭和50年若返大学発行「一宮町のむか志ばなし」には槍出(ヤリデン)城とし、大隅鞍武居城としている。
 戦後開墾が行われ、明確な遺構は残存していないが、溝状の堀、低い土塁と北側に堀切の役目を成す地形が見受けられる。
東側の宮出川は、古代東上条理制における利水のため堰き止められ、「勝川大池」と称する溜池が存在したという。南北朝時代とされる槍出城の時期においてもまだ存在したであろうと推測し、防御を兼ねた池であっただろうと考えられる。
 年々城跡の草木が深くなり、初踏の30年前と比較すると溝状の堀も次第に埋もれ判別も難しくなっているが、現在でも南端中央にはコの字状の築堤がみられる。(銅鏃の出土した鎗殿古墳(直径14.5m高さ2m)の跡ともいわれる)
付近の古老によると、戦後台地全体の開墾を行ったが、城跡付近においては地形を著しく変えるような開墾は行っていないということであり、埋蔵文化財地図等に記載される「城跡、古墳は滅失」という文言は些か疑問に感じる。
また、背後の東上村勝川枝郷の城山に存在したという「勝川城」も、文献により混同されていることから、この槍出城の関連城塞であったのであろうと推測する。
 近い将来、城跡内及び北側を国道151号線バイパス建設が予定されており、その際には学術的検証が行われることであろう。
      
(関連記事:旧一宮町域における詳細不明城跡について
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「3702」

2007-03-23 20:30:40 | RODEN-哀愁のRailway-
(豊橋鉄道市内線モ3702号車)
 昭和2年(1927)に製造された、元名古屋市電1200形であり、昭和38年(1963)名古屋市電廃止に伴って移籍したものである。平成19年3月25日をもって現役引退し、元豊橋市民病院跡地に建設予定で、賛否両論となっている「豊橋市こども未来館」の敷地に保存されることになっている。

 赤岩口車庫にて、残り二日の出番を待っている。(3/23 17:30)

(関連記事:赤岩口電停
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山本屋敷

2007-03-22 23:45:49 | 城郭・城下町

(愛知県豊橋市賀茂町)
 三河八名郡賀茂説での山本勘助の生誕地とされる。(三河八名郡黒田説、宝飯郡牛久保説、駿河富士郡山本説、近江山本説、讃岐説等あり)
 以下諸説あるが、山本氏は当初、吉野氏と称し、駿河富士郡山本村を領した。
吉野貞倫(さだとも)のとき、その子貞久が土地の名を取り山本姓としたという。そして貞久の子貞幸のとき、八名郡賀茂村に移った。明応年間に貞幸(賀茂説では源助の兄とされる光幸を父としている)の子源助が出生し、その後牛久保牧野氏臣で縁者である大林勘左衛門貞次の養子となった際、勘助に改めたといわれている。また、晴幸の名は本名が貞幸で、武田晴信の臣となった際、晴幸に改めたともいわれている。
 山本氏屋敷跡西方に建つ本願寺境内には、祖幸綱、光幸、勘助の両親とされる墓及び「天徳院武山道鬼大居士」と刻まれた勘助の墓といわれる墓碑がある。
 また、この賀茂山本氏の一流が牛久保六騎と呼ばれる牧野氏臣軍団に属していた。
 
(関連記事:勘助まつり 川中島八幡原 胴合橋 海津城 富士山本))

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Dust Off

2007-03-22 06:00:05 | kourei-ki-日記-
 せっかくの新しいPCを使い始める間もない毎日。
そんな中、デジカメで撮った画像がくすんでいることに気づいた。
私は一眼とコンパクト、携帯カメラを使い分けているが、一眼デジカメはレンズ交換式のため、埃が入り易い。
先日、清掃に出したばかりであるのに、早速一枚目から埃が入っていた。
それが、内部を開けないうちから画面一面に増えるゴミたち。
以前からレタッチソフトで修正していたが、ゴミ軽減ソフトは持っているのだが、PCが対応できないのか、画像が一向に変わらないのである。勿論、撮影するまえにダストオフ映像は撮影している。
ソフトのバージョンを上げても変わらず、次第にゴミが増えるためにソフトのゴミ比較が合致せず、そうなるのか。とはいえ、日を跨いでデータをカメラに残すことはないので、それも考え難い。
 そんなことをしているうちに、そのソフトのバージョンを上げたことにより、「MSVCRT.DLL」というランタイムファイルが置き換わってしまい、インターネットのブラウザを開けなくなってしまった。
ソフトを削除したが変わらず、そのDLLを古いものと手動で置き換えてようやく元通りとなった。
…ということで今日から、手作業でカメラ内部のローパスフィルターの清掃をすることにした。
 なにやら面倒なカメラメンテ。
カメラ好きにとっては、その手入れも楽しみの一つのようだが、私はあまりカメラやパソコンの機器に執着していないので、イレギュラーなことが起こると、大変厄介に感じてしまう。
 また、これらによって時間を費やしてしまった。
このようなカメラやパソコンのトラブルをもっと短時間で簡単に処理する方法は見出せられないものだろうか…。
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興津宿

2007-03-21 23:45:50 | 街道・宿場町
(東海道十七番目 静岡市清水区)
 由比江尻の間、身延道(塩の道)との分岐点でもあった、おきつ。
古代、「息津」と書かれたこの地には、古東海道の宿駅が設けられ、後の東海道へと発展していった。
 往時は三十四軒の旅籠と、東西二ヶ所ずつの本陣、脇本陣があったという。今は東西の本陣跡、一里塚跡の碑が立つだけで、面影はない。平安時代に勧請された漁師の守護神宗像神社と、奈良時代開山の清見寺等の神社寺院が往時を偲ばせる。
 昭和44年(1961)に清水市に合併し、更に平成15年、静岡市と合併し静岡市清水区興津町となり、今に至っている。
     

(関連記事:興津東町
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NewPC

2007-03-20 06:00:10 | kourei-ki-日記-
 A5サイズのパソコンが到着した。
今まで使っていたノートパソコンは、2000年に購入したもの。
それ以前のパソコンも、1997年購入の古参で、今は使っていない。
8年目のパソコンを使っているのも、ビンボーだからである。
しかし、学業諸々に不都合が出てきたため、購入に踏み切った。但しかなりの廉価品。
とはいえ、今回のものはあくまでも以前から必要としていた移動用のパソコン、故に小さい。
 旧PCの中身を整理して身軽にしたところで、使い分けをしようと思っている。
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