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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

金山 烏峰城

2008-05-03 01:30:31 | 城郭・城下町

(岐阜県可児市兼山 県指定史跡)
 兼山小学校の建物を利用した兼山歴史民俗資料館に立ち寄り、兼山城主森氏の遺品を観覧すると共に、兼山の歴史についてお尋ねした後、標高277mの古城山に向かった。
(鬼門除けの六角堂)
 (出丸跡)
(三の郭跡)
 
(古城山拂下記念碑)
 金山城は、烏峰城として、天文六年(1537)斎藤正義によって築城された。然し、天文十七年(1548)土岐康貞が、久々利城に正義を花見名目で招き、謀殺したという。そして一時、土岐氏の城となったが、永禄八年(1565)織田信長臣森可成が入城し、金山城と呼ばれるようになった。
(二の郭跡)
(物見櫓跡)
明智長山城方面)
 永禄十三年(1570)可成は近江宇佐山で戦死し、可成の長男可隆も越前手筒山で戦死、二男長可が城主となった。然し、長可も天正十二年(1584)小牧長久手の戦いで戦死し、可成六男忠政が城主となった。
(主郭虎口)  (腰郭跡)
 (主郭石垣)
(主郭跡)
 (主郭跡搦手側)
 (古城山のオオウラジロノキ)
  
 慶長五年(1600)忠政は信濃川中島へ転封し、石川貞清が入ったが、間もなくして金山城を廃し、その廃材を眼下の木曽川で流し、尾張犬山城の部材として利用したとされる。
(搦手門跡)
   
 主郭跡及び腰郭跡は、平成18年、19年度に発掘調査が行われ、建物礎石や虎口跡が確認されている。また、土師系土器や陶器片が検出されており、眼下の歴史民俗資料館に展示保管されている。

 この後は、兼山の旧玄関口であった、兼山湊跡へ向かった。


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