flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

「学び舎」とは…

2007-05-31 21:00:41 | 天祐語録
 親類縁者、教員の多い我が家は、教育者のあり方というものを各々抱いている。
その中で共通するものには、生徒がやる気を起こす言動、無くす言動についてが触れられている。
それには、長所を一つも触れずに短所や間違いのみを指摘し、そこで生ずる自らの責任をも認めようとしない教員。生徒にとっても学校にとっても、そして教員本人にとっても、残念で不利益なことであるとしている。
注意点は指摘した上で、いかに生徒本人が意欲を増し取り組めるか、長所を伸ばすため発する言葉の工夫をするのも、教員の技術であるとしている。

今まで私も小学生以来、数人これら事柄に該当する教員のもとで学んだことがある。
また、私自身が在籍している通信大学にも残念ながらある。

お互いの顔を見合わせられない状態での学習。
ニュアンスや教員生徒同志の心持ちが伝わり難い状態で、一方的に断言する言動や、こちら側の意向を一切汲み取っていただけない片方向のみのコミュニケーションは、やめていただきたいと思う。

教育現場でも個性や専門知識が要求される世の中だが、本来の教育者のあり方を是非考えていただきたいものである。
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半原陣屋

2007-05-31 00:00:13 | 城郭・城下町
(半原藩邸 新城市富岡字大屋敷)
 この場所も私が子どもの頃以来である。以前はもう少し樹木が生い茂っていたようにも思うが、周辺は殆ど変わっていなかった。
往時は三ケ日街道に面して、堀、土塁があったという。
 藩主安部氏は最盛期二万石の無城大名で、江戸定詰であった。
半原の他、武蔵岡部(深谷市)と、摂津桜井谷(豊中市)に陣屋を置き、代官を配置した。
 安部氏は元々今川氏臣で、駿河安倍谷の発祥という。今川義元の死後、徳川家康に付き、寛永十三年(1636)当地に領地を得て陣屋が建てられた。その後幕末になって、藩を置いていた岡部陣屋の機能を半原に移し、半原藩となったが、間もなく廃藩を迎えた。
最後の藩主信発(のぶおき)は藩内に藩校を開き、後に八名郡高等小学校となった。
 藩邸跡には往時からの稲荷社と、旧藩士が建てた安部氏の功績を刻む「半原藩邸跡碑」がある。
 
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墨俣城

2007-05-30 00:00:11 | 城郭・城下町
(大垣市墨俣町)
 「一夜城」で名の知れた墨俣城だが、歴史については謎に満ちている。
城自体の存在は確かであるが、その場所については、木曽三川の氾濫によって痕跡を絶たれ、推定の域となっている。
また、築城の経緯も稲葉山城斎藤氏を攻めるための拠点として織田信長臣木下藤吉郎、蜂須賀小六らによってこの地に築かれたことが通説となっているが、より稲葉山に近く同じ一夜城説のある葉栗伏屋城と唱える説もある。
主に「前田家文書永禄墨俣記」によって長良川、犀川に沿ったこの地であるとされ、平成3年に建てられた模擬天守内にある歴史資料館には、その文書に添った歴史紹介をしている。
 何れにせよ、木曽三川の交わっていたこの辺りが、美濃、尾張、伊勢に関わる重要な位置にあったことは間違いない。
  
(関連記事:美濃路墨俣宿
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高城砦

2007-05-29 00:00:52 | 城郭・城下町
(五葉城郭部 豊橋市石巻中山町・新城市富岡)
 標高約380m、五葉城南東側に隣接する高城砦。
付近の城郭で最も高所にある砦であり、高城砦という名があるが、五葉城の一つの郭部、或いは隣接する西郷氏の弾正砦堂山砦を含む一大城郭の一部と考えることもできる。
永禄四年(1561)今川勢から逃れるため、菅沼定盈が野田城から高城(或いは五葉城)へやって来て一時滞在したことがあるという。
 五葉城南側郭から高城砦の北側斜面裾にかけて新たに林道により削られていた。また、北西側には「南川1号線」という林道が新たに設けられたようだ。踏査中、何周もクロスカントリーを繰り広げるマウンテンバイカーがいた。
 頂部は現在木々に覆われていて、あまり視界は良好ではないが、往時は宇利や中山及び中山峠を監視するための施設があっただろうと推測でき、その主郭の周りには標高差に応じた複数の帯郭がみられる。
 高城からはこの日、遠く富士が望めた。
       
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北ノ庄城

2007-05-28 00:00:24 | 城郭・城下町
(福井市中央 日本の歴史公園100選105番)
 福井市の市街地、足羽(あすわ)川寄りにある城跡。
天正三年(1575)柴田勝家が織田信長から四十九万石を与えられ、足羽川と旧吉野川の間に築城した福井城の前身ともいうべき天守を持っていた平城であるが、主だった遺構は今に残されていない。
天正九年(1581)には宣教師ルイスフロイスが北ノ庄を訪れ、城のことに関しての記述がある。
天正十一年(1583)賤ヶ岳で秀吉軍に敗れた勝家と同室お市はこの地で自害、城も炎上した。その後北ノ庄城は再建されるが、後の福井城に拡大され取り壊されたのである。
跡地には勝家、お市を祀る祠が置かれ、明治23年になって神社として創立された。
 平成5年、柴田神社新築及び柴田公園整備にあたり発掘調査が行われ、北ノ庄城の石垣と堀の一部、排水施設、焼土、陶磁器片、そして福井城の日向門柱穴、外堀である百間堀石垣等が検出された。それら一部が復元保存されている。
北ノ庄城の石材は、笏谷(しゃくだに)石という足羽山産出の加工し易いが劣化し易い特性故に、残り難かったともいわれている。
       
(関連記事:北国街道福井
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五月の長良川

2007-05-27 02:00:34 | 水のほとり
 間もなく梅雨入りするこの地方。
然しながら少雨が続き、流水も少なくなっていた。
昨日の雨で一時的ながら、いつも以上の瑞々しさとなっていた。

五月晴れながら、曇天のような空の黄砂も、夕方には次第に解消されていった。
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五葉城

2007-05-27 00:00:55 | 城郭・城下町

(新城市富岡・豊橋市石巻中山町)
 今から30年程前の私が子どもだった頃、新城八名地区で最初に訪れた城跡である。
地元大原地区の方々に登山口を尋ねたところ、宇利川に注ぐ坂佐川の谷を登るのが一番近いと教えられ、当時まだ大原調整池(五葉湖)の築造前、恵廼池と川谷池という小さな池の間にある橋を渡り、坂佐川の谷を遡った。
やがて砂防ダム工事現場に到着し、工事関係者に尋ねると、「ここより上はまだ道が無い、砂防工事用の道は、宇利峠近くからの林道から引いたもの」と教わった。そこで、右手に見える五葉城の尾根側に向かって道無き道を真っ直ぐ登ることとした。
開けた急傾斜に大きな石が露出し、足をかけると崩れる、そこで私は足を負傷してしまったのである。幸い軽傷だったため、そのまま続行した。
頂きに到着。辺りは鬱蒼とした樹木で薄暗かったが、削平された地形は確認できた。
帰路、南東方向に下る真っ直ぐで急な溝を見つけた。そこを下ると先程の砂防工事現場の近くに辿り付いた。今考えると、竪堀を下ったのではないかと感じている。
 五葉城へは、それ以来訪れていなかった。五葉湖ができてからの道筋は、林道が整備され、当然の如く先回の道は湖底に沈んでいた。砂防工事現場跡地を過ぎ、やがて五葉城跡に差し掛かる。以前とは全く違う光景。開けた標高約330mの頂きは、本宮山を望むことができる。
主郭部には昭和54年に建てられた説明板。樹木も疎らとなり、堀も確認ができた。
林業や林道築造によって改変されたのであろう、広島市中央図書館浅野文庫蔵諸国古城之図「五葉城絵図」と比較してもかなり現状との違いがある。おおかたの輪郭は一緒であるが、残された遺構の量に違いがあった。
 南側の郭(馬隠しの堀)付近から、絵図範囲から外れた鉄塔の立つ南西側の尾根へ向かってみた。
明らかに城郭に向いた地形。堀切状に窪んだ後に突出した尾根。中山や富岡が望める。
中山側へ下って行くと、採石場の上側のようで、下方は断崖絶壁。縁を高城砦下方向へ向かうと、巨石が目立ち始める。その一角、石垣大の石で囲った人工的な痕跡の場所があった。カマドの跡なのか、炭焼の跡なのか、城に関するものなのか分からなかった。
 更に下ると、沢となり辺りにサワガニが現れ始める。そしてその沢は、採石場方向へと流れていった。やがて見覚えのある地形が現れた。先回訪れた、弾正砦跡付近の尾根に差し掛かったのである。
 こうしてみると、五葉城は大きな城郭の中の一つの郭部、隣接する高城砦、弾正砦、堂山砦等を構成する一大城郭であったように思えてならない。
通説的に周辺の城郭は、永禄年間に西郷正勝が築いたとされている。
然しながら西郷氏が三河にやってきた南北朝時代には、遠江国境であるこの辺りに城砦は築いていただろうと考えたい。
     

(五葉城南西側)
    

(弾正砦上側)
   

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岐南町歴史民俗資料館

2007-05-26 22:00:12 | 学びのやかた

(岐阜県羽島郡岐南町) 

 地縁があることが次第に明らかになった岐南町。
我が家のことが触れられているようなので、向かってみることにした。
 開催されているのは「平成19年度ふるさと宝物探検隊� 特別展 歴史物語−原始から中世まで−」
 館長さんとお話をし、中世における美濃、尾張、三河と伊予の関わりを勉強した。また、「この地への獅子舞の伝わり」の新たな宿題もできた。

 この後は西方、川手地区へ足を向けることにした。
(関連記事:下印食三宅 薬師寺平成 御成道伏屋 伏屋城

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金沢城

2007-05-26 00:00:13 | 城郭・城下町

(加賀藩尾山城 石川県金沢市 国指定史跡 重要文化財 日本100名城35番)
 尾山神社から金沢城公園へと差し掛かる。
整然と積まれた石垣に囲まれた城。坂を上がるとそこは広大な平地が広がっていた。
 天文十五年(1546)金沢御堂(尾山御坊)という加賀一向一揆を踏まえた寺院城が築かれたのが、この場所に築かれた城郭の最初とされる。天正八年(1580)この寺院城を織田信長臣佐久間盛政が攻め、盛政の持城となり加賀に領地を与えられた。天正十一年(1583)前田利家が入城し城郭を拡張。その子利長の代でほぼ現在の規模にまで拡張されたという。その後前田氏が廃藩まで藩主であったが、城郭は在城当時から何度となく火災に遭い、空襲被害は無いながらも現在往時から残る建造物は石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫を残すのみとなった。
 慶長七年(1602)の落雷によって天守を失ってから、天守の再建はされていない。広い本丸の隅に五十間長屋、菱櫓、橋爪門及び続櫓が往時の工法を基に再現されている。故に急階段や低い梁も存在した。これら建物は私自身の当初の想像より規模の大きく、このとき行われていた河北門跡の発掘調査も復元前提のものであり、今後の金沢城復元に大きな期待を持った。

百間堀を渡り藩庭園の兼六園へと向かった。
         
(関連記事:金沢長町

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赤岩山城

2007-05-25 00:00:36 | 城郭・城下町
(豊橋市多米町)
 神亀三年(762)創建の真言宗赤岩山赤岩寺の背後には、その名の通り赤岩山がある。
標高は320mで、赤石山脈の西、弓張山系の西端の一つであり、別名三河富士という。
赤岩山は堆積岩の一つ、赤いチャート岩石が露頭しているところからそう呼ばれるようになった。その中腹に築かれたのが赤岩山城である。
城跡周辺にも山名に由来するように露出した岩肌が所々みられ、この山の要害さを現している。故に信仰対象の山ともなっている。
  この城の城主は今川氏に属した時期の牧野氏、或いは戸田氏と考えられている。
現在は赤岩山自然公園の一角となり、城跡も開けているが、主郭とその背後には土塁、堀切が残り、尾根を開削して築城したことがよく分かる。
     
(参考:石巻自然科学資料館蔵の“赤チャート”)
(関連記事:多米城
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田丸城

2007-05-24 00:00:27 | 城郭・城下町
(玉丸城 度会郡玉城町)
 田丸の宿を暫く歩くと、やがて堀と石垣が見えてくる。
天正三年(1575)織田信雄が改修した城郭である。
登城口を少し上がった左側が御殿跡、今は田丸中学校となっている。
正面に保存された富士見門があり、右に進むと北の丸跡、回り込むと天守台の残る本丸跡に達する。
本丸北側には昭和6年に勧請された城山稲荷社が鎮座している。
江戸時代、久野氏の代に何度となく天災で石垣が壊れたという記録が藩文書によってわかる。本丸南側が二の丸跡。東側の石積みが崩れている。野面積みの維持保存の難しさが伝わってきた。
 田丸城は延元元年(1336)北畠親房が玉丸山に砦を築いたのが始まりとされる。
興国三年(康永元年1342)足利尊氏によって落城、北畠氏は一時、本拠一志郡多気に移ったが、応永二十一年(1414)再び玉丸城に戻っている。
 神領奉行として北畠氏臣の愛洲忠行、姓を改め田丸政勝、親忠、国忠、忠弘が守り、元亀元年(1570)北畠具房の養嗣子となった織田信雄によって城郭が拡大された。然し、天正四年(1576)信雄は北畠氏を殺害し、北畠勢力を塞いだ。そして飯南郡松ケ島城へ移った。
天正十二年(1584)北畠氏諸流田丸直息が蒲生氏臣として田丸城に入城するが、天正十八年(1590)奥羽須賀川へ移封。代わって稲葉重通が入城。元和二年(1616)には津藩代官支配、元和五年(1619)からは和歌山藩領となり、徳川頼宣家老久野宗成が入城、以後廃藩まで久野氏が続いた。
           
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多米元益城

2007-05-23 00:00:43 | 城郭・城下町

(豊橋市多米東町・多米町)
 赤岩山に連なる支丘端、標高72mの稲荷山と蝉川(朝倉川)の間に築かれた館城。
以前は城屋敷と称し、土塁に囲まれていたというが、現在は多米峠へ通じる県道と住宅地となり何も残らない。
隣接する稲荷山は現在開削され、二つに分断されている。
開削されるまでは、城屋敷跡側の斜面に削平地があった。また頂きには多米古墳群稲荷山支群があり、開削部分の2~4号の3基を平成13年に発掘調査した。
現在は1号墳が横穴式石室を開口し、残されている。この支丘の頂き部分にも、城の施設が存在しただろうと推測する。
 多米城の築城時期は定かでないが、当地の豪族、今川氏臣である多米又三郎が明応元年(1492)多米村南東雲谷村に船形山城を築城、明応八年(1499)戸田宗光が攻め、又三郎は討死にしている。
その後北条氏臣多米元益が多米城に居城し、その子元興は永正十二年(1515)城の近くに菩提寺として本顕寺を創建した。
天文五年(1536)多米元興は北条氏に従い武蔵青木城に移った。寺も同所三ッ沢に移転、豊顕寺と改められ、この地の多米氏の痕跡はなくなった。
 後に多米城は二連木戸田氏の持ち城となったともいわれている。
   

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木之本地蔵

2007-05-22 00:00:29 | 大きな仏さま
(時宗長祈山浄信寺 伊香郡木之本町)
 木ノ本駅から地蔵坂を上がり、北国街道に突き当たるところに建つ木之本地蔵院。
明治27年に本尊の「写し」として開眼された高さ約6mの銅製地蔵菩薩と眼病治癒の身代わり願をかけた、片目を瞑った蛙が先ず目を引く。
 白鳳三年(675)難波浦に金光色の地蔵像が漂着し、その地に法相宗唐隔山金光寺を建立したことにより始まるという。
その後、難波から薬師寺僧祚蓮によって木之本に移されたが次第に衰退、弘仁三年(812)には空海が訪れ中興、真言宗となり、昌泰元年(898)に現在の山号となった。更に時宗に改宗され、天正十一年(1585)の賤ヶ岳の戦いの際に秀吉軍が陣を置いた。
 仁治三年(1242)銘の本尊地蔵菩薩像、平安時代の阿弥陀如来像、国指定名勝の築山林泉式の庭園等があり、境内奥には「木之本豊川稲荷」がある。
また、隣接して浄土真宗の明楽寺がある。
          
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勝川城

2007-05-21 00:00:18 | 城郭・城下町
(豊川市東上町)
 勝川稲荷神社の裏手の丘陵を地元では城山と呼ぶ。
現在は本宮パークゴルフ場となっており、城山も神社裏の一部を除き削平されてしまったが、城に関連すると思われる宝篋印塔が神社北側に残されている。
城が築かれる以前、弘法大師の頃から明治初年までこの地には勝川寺という寺院が存在した。故に城山には鎌倉時代の数十基からなる古墓群があり、昭和52年に寺院再建に伴う発掘調査が行われた。
それによって人骨の他、鎌倉時代から南北朝時代の古瀬戸や常滑の壺、皿、経筒、山茶碗が出土した。
昭和49年頃から城山の開削が始まり、石仏や宝筐印塔、五輪塔といった石造物は傍らに追いやられていたという。
私が初めて訪れたのは発掘調査の直後であり、半分程になった丘陵に一部の古墓の石組が残されていた。
そして次第に山は小さくなり、平成に入って、削平された城山には寺院は建たず、神社下方に堂宇のみ再建。一転山はゴルフ場となった。
 勝川城に関することは殆ど伝わっていない。然しながら、南北朝の頃この寺院境内を利用した、同じ台地上にある鎗殿城の砦の役割をしたものが築かれたのではないかと想定している。
    (古墓石組1983年撮影)
(関連記事:東上勝川 旧一宮町域における詳細不明城跡について
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旧木ノ本駅舎

2007-05-20 00:00:21 | 木のたてもの
(北陸線 伊香郡木之本町)
 北陸線「柳ケ瀬越え」時代の昭和11年に築造された駅舎。
北陸・湖西線直流電化事業(琵琶湖環状線)に伴い、平成18年秋に橋上駅として北隣に新築移転した。半年後のこのときも、旧駅舎は当時の姿で残されていた。
 新駅を降りると戸惑うことがある。新駅舎内の観光案内所や店舗コーナーの閑散さもさることながら、バス停や案内板等が旧駅舎前にあり、外来者には些か分かり辛い。まだまだ整備途中という感があった。
  
(関連記事:北国街道木之本宿 木之本地蔵
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