flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

三條實美墓

2025-04-25 00:00:00 | いにしえびとの睡
(東京都文京区大塚)
 天保八年(1837)三條實萬の三男として生まれる。権中納言、議奏、攘夷勅使、国事御用掛等を務め、尊皇攘夷派公家の中心的存在であったが、文久三年(1863)尊皇攘夷派の京都追放を目的とした八月十八日の政変が起こり、七卿落ちの一人として長州に向かった。王政復古後、新政府の議定、副総裁、右大臣、修史局総裁などを歴任し、明治4年(1871)太政大臣に就任した。内閣制度創設後は内大臣となり、明治22年(1889)黒田内閣総辞職後、一時臨時首相を兼任している。明治24年(1891)五十三歳没。


護国寺 - flow Trip -archive-

(真言宗神齢山悉地院大聖護国寺東京都文京区大塚)江戸幕府五代将軍徳川綱吉は、天和元年(1681)生母桂昌院の発願により上州高崎の大聖護国寺住職であった亮賢に、幕府の高田...

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大隈重信墓

2025-04-24 00:00:00 | いにしえびとの睡
(東京都文京区大塚)
 天保九年(1838)佐賀藩士大隈信保の嫡男として出生し、藩校弘道館在籍中は、儒学教育に疑問を持ち藩校改革を訴えた。藩の蘭学寮で西洋の学問を学び、元治元年(1864)長崎で宣教師グイド・フルベッキから英語やアメリカ憲法を学んだ。翌年、そのフルベッキを招いて英学塾致遠館を開設した。明治時代となり、外国事務局判事、大蔵省次官に就き、明治14年(1881)イギリス議院内閣制を手本とする憲法制定と議会開設を明治政府に求めたが、急進的なものとして岩倉具視や伊藤博文らと対立し、重信は官僚を辞職した。然し、翌年にはイギリス議会政治をモデルとした立憲改進党を作り、その後総理大臣となって、日本初の政党内閣を誕生させた。そして同年、東京専門学校(1902-早稲田大学)を開設した。大正11年(1922)八十三歳没。


護国寺 - flow Trip -archive-

(真言宗神齢山悉地院大聖護国寺東京都文京区大塚)江戸幕府五代将軍徳川綱吉は、天和元年(1681)生母桂昌院の発願により上州高崎の大聖護国寺住職であった亮賢に、幕府の高田...

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大塚先儒墓所

2025-04-21 00:00:00 | いにしえびとの睡
(東京都文京区大塚 国指定史跡)
 水戸藩の儒師であった人見ト幽軒の屋敷であったこの地は、寛文十年(1670)ト幽軒が没し、この地に葬られたのが儒葬(喪に服する期間が三年)墓地の始まりとされる。敷地内には岡田寒泉、古賀精里、柴野栗山及び尾藤二洲の寛政の三博士の他、木下順庵、室鳩巣ら儒学者とその家族四十六基の墓がある。











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深光寺の金石文

2025-04-09 00:00:00 | いにしえびとの睡
(浄土宗清水山松林院深光寺 東京都文京区小日向)
 寛永十六年(1639)清水庵として開創され、境内には南総里見八犬伝作者の曲亭馬琴(滝沢興邦1767-1848)と妻百、子の興継の妻、土岐村路(ときむらみち1806-1858)の墓がある。また隣接して寛政元年(1789)に造立された、聖徳太子御作 厄除観世音菩薩文言の石幢があり、茗荷坂に面した斜面には、多くの墓標石仏があって、更に本堂前には切支丹燈籠がある。



















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瓜ヶ谷やぐら

2025-03-10 00:00:00 | いにしえびとの睡
(神奈川県鎌倉市山ノ内)
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真土大塚山古墳跡

2025-01-23 00:00:00 | いにしえびとの睡
(神奈川県平塚市西真土)
 昭和10年(1935)三角縁神獣鏡や管玉、銅鏃等が住民により発見され、発掘調査が行われた。昭和35年(1960)発掘時には粘土槨から変形四獣鏡、巴型銅器、玉類等が出土したが、間もなく古墳は破壊され、古墳の規模は分かっていない。平成8年(1996)古墳跡北西に西真土公園が開設され、真土大塚古墳の墳丘が再現されている。





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将門塚

2024-11-15 00:00:00 | いにしえびとの睡
(東京都千代田区大手町 都指定史跡)
 天慶三年(940)関東八国府を攻撃し、国司を追放した将門の乱。将門は新皇を名乗ったため朝廷から反逆者とみなされ、下総国猿島郡石井郷(茨城県坂東市岩井)において藤原秀郷、平貞盛らによって将門は討伐された。将門の首は京の都大路で晒されたが、首を繋げて再戦したいと叫びながら武蔵国豊嶋郡芝崎村(大手町)に飛来してきたと伝わる。以後、村では疫病が流行した。首塚は神田明神の別当である天台宗日輪寺が管理したが、徳治二年(1307)他阿真教が供養したことにより疫病は治まり、日輪寺は時宗に改められた。





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明月院やぐらと羅漢洞

2024-11-12 00:00:00 | いにしえびとの睡
(神奈川県鎌倉市山ノ内 2016年3月30日)
 明月院背後には大小のやぐらと釈迦如来、多宝如来、十六羅漢が彫られたやぐらがある。平治の乱(1159)で討死した山内首藤俊通の菩提を弔うため、子の経俊が明月庵とやぐらを造り、後の明月院を創建した山内上杉憲方の墓が建てられたと伝わる。













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最明寺跡と北条時頼廟

2024-11-10 00:00:00 | いにしえびとの睡
(神奈川県鎌倉市山ノ内 2016年3月30日)
 明月院の境内には鎌倉幕府五代執権北条時頼の廟と宝篋印塔がある。康元元年(1256)時頼がこの地に最明寺を建立し、没後は子の時宗によって禅興寺に改められた。禅興寺は明治元年(1868)廃寺となったが、塔頭の明月院が今に至っている。


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本渡殉教公園

2024-10-07 00:00:00 | いにしえびとの睡
(熊本県天草市本渡町本戸馬場・船之尾町 2015年5月11日)
 寛永十四年(1637)に勃発した対幕府の一揆である天草・島原の乱によって、本戸城跡の一部が戦死したキリシタン達の埋葬場(千人塚)となった。一角にはポルトガル人医師で商人、宣教師であったルイス・デ・アルメイダ(1525-83)の記念碑がある。

















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武蔵塚 森長可終焉地

2024-08-21 00:00:00 | いにしえびとの睡
(長久手古戦場 愛知県長久手市武蔵塚 国指定史跡)





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庄九郎塚

2024-08-19 00:00:00 | いにしえびとの睡
(愛知県長久手市武蔵塚 旧所在地:長久手市長湫字鴉ヶ廻間 国指定史跡)
 岐阜城主池田元助(池田恒興嫡男)が長久手の戦いの際に討死した場所という。
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香煎塚

2024-08-04 00:00:00 | いにしえびとの睡
(静岡県下田市一丁目 2015年4月27日)
 真田幸村に仕えていたという老婆が香煎(麦を炒って粉末にしたもの)を喉に詰まらせ命を落とした。この地に葬られ、その後お参りに訪れた者の喉の病が治ったことから多くの参拝者が訪れるようになり、小堂が建てられたのだという。
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腹切りやぐら

2024-07-06 00:00:00 | いにしえびとの睡
(神奈川県鎌倉市小町 2017年1月17日)
 東勝寺の脇にあるやぐらである。元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際、北条高時が東勝寺に逃げ込み、火を放って北条氏や御家人ら八百七十余名は自害した。高時はこの腹切りやぐらに葬られたと伝わるが、実際は釈迦堂切通に葬られたとされる。











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稲村ヶ崎古戦場と十一人塚

2024-06-22 00:00:00 | いにしえびとの睡
(神奈川県鎌倉市稲村ガ崎 2014年12月26日)
 元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際、大館宗氏らが幕府勢と激戦となり、新田勢十一人がこの地で討ち死にとなった。











 
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