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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去のノートから…
 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

向河原から ほの川 ほの山を望む

2016-10-31 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県豊川市向河原町 1994年9月25日)
 豊川(とよがわ)右岸向河原(むこうがわら)から、本宮山方向を望む。

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清正公覚林寺

2016-10-30 00:00:00 | ほとけのいおり

(日蓮宗最正山覚林寺 東京都港区白金台)
 豊臣秀吉の文禄の役の際に、加藤清正によって李氏朝鮮宣祖の子臨海君と共に捕虜となった臨海君の子太雄が、日本で出家し日延と名乗った。そして安房小湊(千葉県鴨川市)の誕生寺住職となり、寛永八年(1631)現在地に日延の隠居所として覚林寺が創建された。弘化二年(1845)火災により寺が全焼したため、安政三年(1856)に山門が、慶応元年(1865)清正公堂が再建されている。日延が清正の位牌や像を祀ったことから、寺の通称が清正公(せいしょうこう)と呼ばれている。
    

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堤ヶ谷3号墳と八幡山古墳

2016-10-29 00:00:00 | いにしえびとの睡

(岐阜県大垣市青墓町堤ヶ谷・社宮司 1994年8月27日)
 古墳の里である青墓には、大小多くの古墳がある。今回は山側に点在する古墳を踏査した。八幡神社下にある円墳は堤ヶ谷3号墳である。無袖式(玄室と羨道(通路)の境がないもの)の横穴式石室は全長8m、幅1.15mを測る。その八幡神社もまた、全長41mの前方後円墳である八幡山古墳の上に鎮座する神社である。
 八幡山古墳
(関連記事:粉糠山古墳)

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八芳園

2016-10-28 00:00:00 | ふるさとの木々

(はっぽうえん 東京都港区白金台)
 白金の丘陵地に周辺とは違った一角がある。大正14年(1915)日立製作所の源流である久原鉱業所、久原房之助の邸宅として、かつて大久保彦左衛門や島津家下屋敷、渋沢喜作邸等があった敷地を含む、1万2千坪が整備されたものである。昭和25年(1950)実業家長谷敏司と共に敷地の一部を料亭とし、八芳園を開業。昭和27年(1952)法人化され、翌々年には久原から長谷に所有権が移り、現在に至っている。
                         

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伊奈城跡試掘調査

2016-10-27 00:00:00 | 城郭・城下町

(愛知県宝飯郡小坂井町伊奈字柳 1994年7月19日)
 先日から行われ始めた主郭跡微高地試掘調査地(鶏舎跡南側)を訪れたが、まだ表土を撤去しただけで遺構は現れていなかった。

(関連記事:伊奈城 お松見 花ヶ池(葵ヶ池))

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古地老稲荷神社

2016-10-26 00:00:00 | かみのやしろ

(東京都港区白金台)  白金台の桑原坂沿いに鎮座するこの神社は、文政十三年(1830)現在地の北東隣、日吉坂上に「古地郎」稲荷の名称で、宇賀魂命(うかのみたまのみこと)を祀る火伏せの稲荷として創建したという。近隣高輪には先に創建した「古寿老(小女郎)」稲荷があり、関連性を伺い知ることができる。大正4年(1915)実業家、久原房之助の邸宅築造(後の八芳園)を機に現在地へ遷座している。

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豊川用水 石巻中山

2016-10-25 00:00:00 | 水のほとり

(愛知県豊橋市石巻中山町 1994年6月15日)
 豊川用水東部幹線水路が中山の開水路から嵩山(すせ)に通じる中藤トンネルを望む。

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ネッコ坂

2016-10-24 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都渋谷区神宮前)
 旧穏田(おんでん)から青山に抜ける裏通りの坂をネッコ坂と呼ぶ。多摩川二子の渡し経由で陸奥に至る鎌倉街道「中の道」の一部とされ、天保年間(1830-44)『御府内場末其他往還沿革図書』や、嘉永四年(1851)『青山長者丸辺の図』にも坂の記載がみられる。坂名の「ネッコ」は、木の根が由来という。

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大神光法蔵寺

2016-10-23 00:00:00 | ほとけのいおり

(浄土宗大神光二村山國豐院法蔵寺 愛知県岡崎市本宿町寺山 1994年6月7日)
 東海道沿いに位置する法蔵寺は、寺伝によると大宝元年(701)僧行基が三十四歳のとき、この地の木を使って観音像を彫り、持統天皇の勅命により文武天皇皇后藤原宮子の安産祈願をして後の聖武天皇が誕生。そして文武天皇が法相宗二村山出生寺を創建したのが始まりという。嘉慶元年(1387)松平親氏が新たに伽藍を建立し、浄土宗に改宗された。住職教翁洞恵は松平広忠の兄、家康の伯父で、家康が八歳のとき法蔵寺において手習い漢籍を修得したという。また、文政九年(1826)にはシーボルトが訪れたとされ、明治元年(1868)には、住職孫空義天により近藤勇の首塚が祀られている。

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神南

2016-10-22 00:00:00 | 漂い紀行

(じんなん 東京都渋谷区神南・宇田川町)
 宇田川から代々木公園にかけて、文字通り明治神宮の南にあたることから、豊多摩郡渋谷町上渋谷字宇田川、豊沢、深町、前耕地の一部が昭和3年(1928)神南(かんなみ)町として成立した。その後、昭和45年(1970)に現在の「じんなん」となっている。付近は元々、代々木練兵場であったが、現在は一丁目の公園通りと消防署のあるファイヤー通りの間は主に商業地となっていて、二丁目はNHKや国立代々木競技場等となっている。
          

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藤川宿

2016-10-21 00:00:00 | 街道・宿場町

(東海道三十七番 愛知県岡崎市藤川町 1994年6月7日)
 藤川宿界隈を歩くのは10年振りである。その後、脇本陣跡に藤川宿資料館が開館し、無人であるが自由に出入りできる。敷地は東海道時代の四分の一となり、資料館の建物も後世のものであるが、門は往時のものという。館内は高札、版画、代官本陣文書等や寛政(1789-1801)頃の藤川宿を再現した500分の1模型が展示され、録音解説もあり、隣の赤坂宿にもこのような施設を設けたらどうだろうと感じた。藤川宿東端には棒鼻(宿場境)が再現され、加えて石灯篭や腰掛けが設けられていた。
 東棒鼻跡
 
(関連記事:藤川宿平成二十五年)

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サレジオ教会

2016-10-20 00:00:00 | かみのやしろ

(カトリック碑文谷教会 東京都目黒区碑文谷)
 サレジオ通りを歩いていると、ロマネスク様式の建物が現れる。昭和23年(1948)サレジオ会(ローマカトリック教会修道会)によってこの地に司祭館と日曜学校が置かれたのが始まりであり、現在の聖堂は昭和29年(1954)に落成したものである。
 

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大塚丸山古墳

2016-10-19 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県蒲郡市大塚町丸山 1994年5月21日)
 御津町赤根の天王山古墳から丸山古墳のあった三河湾に面する丸山を眺めると、山の右半分が削られて山の濃緑色と断面の明褐色の組み合わせとなっていたので現地へ向かった。1991年12月6日以降、丸山の横を通った際に丘陵の西側の一部が区画整理によって開発されつつあったことは知っていたが、今回は古墳の存在した場所までかかっていたので訪れた。丸山古墳は「大塚」の語源ともなったとされ、全長40mの前方後円墳であり、出土する円筒、形象埴輪から5世紀後半と推定されている。

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月光原と圓融寺

2016-10-18 00:00:00 | ほとけのいおり

(東京都目黒区目黒本町・碑文谷)
 武蔵小山の西方には旧来から月光原と呼ばれる地がある。昭和7年(1932)から41年(1966)まで月光町であったが、月光町、向原町、清水町、東町、碑文谷の一部を統合し、目黒本町となった。然しながら、現在でも月光原小学校、月光原公園、月光原住区センター等が残り、住民にとって「月光」は馴染み深いもののようである。
    
 月光原の西には天台宗経王山文殊院圓融寺があり、仁寿三年(853)僧圓仁(慈覚大師)により天台宗妙光山法服寺として開山したと伝わる。弘安六年(1283)日蓮の弟子日源により日蓮宗に改宗され、妙光山法華寺となった。その後は領主の吉良氏や徳川氏の庇護を受け繁栄した。然し、法華寺は不受不施派(法華経信者以外からは施しを受けず与えずという思想)であったため、江戸幕府から弾圧を受けるようになり改宗を余儀なくされ、元禄十一年(1698)天台宗に戻っている。そして天保五年(1834)現在の経王山圓融寺と改称された。東京では珍しく、室町時代の釈迦堂(国重文)、永禄二年(1559)仁王門(区文化財)及び木造金剛力士像(都有形)等が今に伝わる。
          

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乙川経塚古墳

2016-10-17 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県幡豆郡吉良町乙川字経塚 1994年5月3日)
 正法寺古墳から東へ約250mの経後古墳跡を先ず訪れた。現在は蜜柑畑となっており、そこで農作業をしている人に尋ねたところ、「私が来たときには既に平らな段々畑になっており、土は下の田んぼに使うために下ろしたと聞いたことがある」ということで、更に「耕作で何か出てきたことはなかった」と語られた。この古墳は直径30m,高さ3m,2段築成の円墳であったが、面影は全くない。経後古墳の東約100mには経塚古墳跡があり、石碑が建てられているが墓地のため削平されている。下の林道を隔てた蜜柑畑で農作業をしていた人が来て、「30年位前、墓を整理するとき、古墳を削ってその土を下の畑へ下ろした。削るまでは、今墓地に植わっている木の高さ位(現在の地面より約10m地上)のところに頂上があった。また、大したものは出なくて、出たものは正法寺にある。」と語られた。ここで出土したものは土師質円筒埴輪や朝顔形埴輪であるが、古墳の土砂を撤去したのであるから埋葬施設や副葬品も出てきた筈であるが、その辺りはどうなっているのだろうか。この古墳の時期判定は埴輪のみで5世紀とされているが、古墳名に「経塚」(本来は中世に経典を埋納した塚)が付けられた経緯も不明である。

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